中野本町の家_upscaled_image_x4

第8章 アクチュアリティのズレのなかに──中野本町の家 立石遼太郎

この住宅がなくなったときに、この家族にとって白いチューブの空間がどのような記憶として残されていくだろうか、その思いをたどることがバーチュアル・ハウスであると思っていたわけですが、私はプレゼンテーションをしながら、実はこの住宅はつくったときからバーチュアルな住宅であったのではないか、と思いました。といいますのは、一方で三人にとっての生活する器であったわけですが、それと同時に三人の家族にとっての家といいますか家族という存在を象徴する、もう一つの家が存在していたわけです。
「伊東豊雄 近作を語る」「東西アスファルト事業協同組合講演会」(最終閲覧日2020.01.10)

0 持続した時間

突発的な、あるいは瞬間的なフィクションは存在しない。フィクションが成立するためには、あるまとまった時間が不可欠である。
思い返せば、これまで見てきた7つの建築物がフィクションの世界に入るとき、そこにはあるまとまった時間が流れていた。建築物を体験するためには時間の経過が必要である、というのは自明であるが、フィクションという視座から建築を眺める、という行為は、「建築物を体験するときに必ずつきまとうまとまった時間の、そのあり方が特殊化されたもの」と定義づけることができよう。
第1章、《青森県立美術館》では、建築物を体験していく線形的な時間のなかに、原理的には時間の制約をもたないステートメントの時間を重ね合わせることで、本来線形的な建築物の体験が特殊なかたちに変容していく。そこに僕らはフィクションと同じ構造を見て取った。
第2章の《古澤邸》において、梁は視線を阻害する。今、ここにいる身体と、先ほどまで体験していた光景の統一が、梁によって阻害される。通常howにしかない建築の主題に、whenとwhereが参加することで、《古澤邸》はフィクションのような体験を可能にする。
第3章、《白の家》は、竣工後の批評が誤読を招き、物としての建築と批評の間に解離が生まれる。持続していく時間のなかで、言葉と物が距離をとる様に、僕らは建築におけるフィクションを見出した。
第4章第5章は、中山英之のふたつの建築物《2004》と《弦と弧》について考えた。《2004》はコンセプトが部分を規定しない。コンセプトから自由になった部分は、《2004》という場の中で様々な要素と結びつき、時間の経過に合わせていくつもの「純粋な物語」をつくり上げていく。一方《弦と弧》は、建築がそもそもつくりものであることを受け入れ、独自の虚構システムからなる虚構物語をつくり出す。永遠不変の虚構物語のなかに住まう様は、純粋なフィクションとでもいうべきあり様を描き出す。
《斜めの家》を論じた第6章では、《斜めの家》で起きた瞬間的な現象が、その場にいた全員が体験できるという点で、事実になることを確認した。事実は一瞬では捉えられない。現象を捉える認識は瞬発的だが、それを複数人が認識し、全員が共有するというプロセスを経て、事実は事実として認められる。《斜めの家》の事実はとても奇妙ではあるが、事実はあくまで事実であって、フィクションではない。フィクショナルだと思っていた事象が、共有と同意という時間経過を経て事実になる様を確認した。
第7章、《天神山のアトリエ》では、初期物語論を通じて、現実にはふたつの様相があることを確認した。《白の家》のように竣工後、物語化できる現実もあれば、限りなく瞬間に漸近したリアルタイムに流れる現実もある。ここに内部と外部という建築の主題をあてはめ、《天神山のアトリエ》を通して世界が日々動くことを確認した。流れゆく時間のなかで、物語論には回収しきれない建築における物語の複雑さを、僕らはそこに見ていた。
7つの章の、7つの建築物を通して、僕らは同じような構図の映像を見続けていた。凍れる建築物が溶けていく様を映した映像の、その持続した時間を僕らは見ていたのだ。第8章においても引き続き時間について考えていこう。フィクションも建築も、あるまとまった時間が不可欠であるのだから。

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