第10章 裏面のヴァーチュアリティ──リビングプール 立石遼太郎

それは本当に必要か。
増田信吾+大坪克亘『Adaptation 増田信吾+大坪克亘作品集』TOTO出版、2020

0 引き続き同じ舗装の上を歩く

フィクションはつくり物である。フィクションの世界と現実の世界の間には、決して乗り越えてはならない「フィクションのサバイバルライン」が存在する。フィクションにサバイバルラインが存在することは、フィクションがつくり物であることのなによりの証だ。誰も、それを乗り越えてはならない。
フィクションのなかにいる限り、そこで起きる出来事はすべて真であり、フィクションの外の世界に出れば、さきほどまで真であった出来事はすべて偽となる。その境界線をサバイバルラインと呼んできたのだった。例えば川端康成『雪国』において、島村が存在することを真とするならば、それはサバイバルラインの内側の視点であり、島村が存在することを偽とすれば、サバイバルラインの外からの視点だといえる。つまり、フィクションが真であるか偽であるかを定義しようとすると、フィクションは真でもあり偽でもある、としかいいようのない事態に遭遇するわけだ。フィクションは、サバイバルラインの内に篭ったり、外に出てみたりしながら、真偽の定義から逃げ続ける。
その動きを止めるために、第9章ではアクターネットワーク理論をもち出した。対応説に基づくモダニズムやポストモダニズムが効力をもつためには、ある事象をAと定義しなければならない。上述のようにフィクションはサバイバルラインがある限り、ひとつの定義に収まることはない。対応説は、喩えるならカメラのようなもので、そのシャッタースピードではフィクションの動的な動きを捉えることはできないのだ。第8章まで僕らは、カメラによってフィクションを捉えようとしていた。しかし、撮影のたびにフィクションはサバイバルラインを乗り越えていたというわけだ。第9章で矛盾が生じた原因は、対応説によってフィクションを定義しようとしたことにある。その矛盾を乗り越えるために対応説とは異なる物事の観察方法——ノンモダニズムに立脚するアクターネットワーク理論をもち出した。
もうひとつ比喩を重ねるならば、フィクションは光のようなものである。二重スリット実験によって光が粒子と波動の両方の性質をもつことが発見されたように、僕らはノンモダニズムという考え方によって、フィクションが真であり偽でもあるという性質を見て取った。このときノンモダニズムは、二重スリットとして位置付けることができるだろう。フィクションのサバイバルラインは、基本的には誰も乗り越えてはならないのだが、唯一、フィクションそれ自体はサバイバルラインを乗り越えることができる。二重スリットはサバイバルラインを乗り越えようとするフィクションの動きを止め、サバイバルラインを「誰も乗り越えることのできない」ものへと変換した。第8章まで歩いてきた道は、第9章において舗装がリノベーションされたのだ。本章も、第9章と同じ舗装の上を歩いてみよう。

1 建築におけるフィクションのサバイバルライン

しかし、これまで確認してきたのはあくまでフィクションにおけるサバイバルラインである。僕らは、建築におけるフィクションのサバイバルラインが立ち現れる原因や、どのようなときにそれが現れるのか、まだ整理できていない。これまでの議論で明らかなように、建築におけるフィクションのサバイバルラインは以下の3つの場合に立ち現れる。それぞれどの章で議論したか括弧内に記しておく。
A. 理想的な人間像を描く(第1章〜第3章)
B. コンセプトを立てる(第4章〜第7章)
C. 物語を立ち上げる(第5章〜第9章)
Cはやや複雑な構造をとるため後に回すとして、先にAとBについて考えよう。AとBを整理することで、のちにCを定義するための足がかりをつくっていくことにする。

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