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全てが「投影」もしくは「反映」

『奇跡講座』学習者のSakieです。

私たちは、日頃から、常に、日常的に、自動的に、無意識のうちに、

残念ですが、いつも自我の思考体系を選び、「無意識のうちに」内側にある動揺、葛藤を体験しています。

「存在論的罪悪感」とも言うべきもので

「自我との同一化」を100%しているので、

神との分離の瞬間の葛藤と動揺の夢を再現VTRのように、

場所を変え、品を変え、相手を変えて

見続けております。

神との分離を信じた「一なる心である神の子」は

無数に断片化した偽りの自己となり

絶え間ない分離の瞬間の葛藤、動揺を、


今も悪夢に苛まれ続けながら

深刻に捉えて

過去から現在、そして未来へとリニアに続く夢の時間を過ごしています。

「小さな狂った考え」によって作り出した「小さな狂った」イメージ映像を、私たちの個々の人生の形態は違えど、それぞれのフィルターとキャラクターを通して、内容は全て同じ「小さな狂った考えで見ている最悪の惨状である悪夢」を、内的に抱えているのを「否認」して「抑圧」して、外側の世界へと「投影」し続けています。

必ず、「投影」の前には「否認」「抑圧」があります。

目の前で起こること(動き)に対して、少しでも「動揺」=落胆、怒り、罪悪感、哀しみ、痛みなどを感じるのならば、その自覚症状があるのならば、それは、あるレベルにおいては、目の前で起こること(動き)に対して私たちが[自我の思考体系]を選択して、恐れ、罪、罪悪感を感じたくて、敢えて、採用した=自学自習した、ある小さな狂った信念=思い込み=自我にとっては「真理」よりも真実になっている考えがあり、今、まさに表層意識に出てきていて、癒される準備が整った、ともいえます。(ここで大切なのは、ポジティブも、ネガティブも、両方だということです)

こうあるべき、こうすべき、もっとこうしてほしい、もっとこうすべき]という考えによって、五感全体で「死」と「絶望」の夢を見ていたい、その方が生きている実感が湧く=肉体の自己の実在性を感じられるから、と、望んで体験しています。格闘技やオリンピアに起源のあるスポーツなどもそうです。

なんとも滑稽な「生きている実感」なのですが、「私たちは存在そのものが罪悪感に根差しており、悪魔の子であり、死にゆくもの、血生臭いものであるのだから、いつも、ぎりぎりで、【それ】を感じていたい」と、自我の力動は、そうなります。「自我との同一化」をするならば、それ以外には何もない「無益な旅」だと『奇跡講座』では妥協なきラディカルな表現がされています。

つまり、どんな落胆も、どんな絶望も、どんなピンチも、、、ある意味では、どんな快楽も、絶頂も、、、

「(まさか)望んでいるはずのないものを、(実際には)私たちは無意識のうちに(自ら)望んでいる」のです。

その望み方は、渇望している、飢えて餓鬼と化している、ともいえる凄まじさです。加えて、快楽や絶頂にも、もっともっとと貪欲になり、その枯渇感たるや、、、という有様です。

これは、真の「赦しの実践」を行う前に、知的理解として知っておくべき、この二元の世界についての、個人の人々の心理学的な病理についての、大切な「前提」知識であり、知っておく必要のある「基礎知識」とも言うべきものです。

一方で「反映」は、[聖霊の思考体系]への心の選択のシフトが起こった時に使う用語で、[最後の「知覚」][唯一意味のある「知覚」]である、[聖霊の心眼(ヴィジョン)]を使ってみている赦しの眼差しであり、慈悲の眼差しで目の前の出来事を見ている状態です。

「自分はこれ(自我の思考体系を使い「投影」すること)を望むことも出来るけれど、望まないこと(自我の思考体系を使って「投影」するのを辞め、聖霊の思考体系を使って心の「反映」を見ること)も出来る」

全て内的な知覚の変化であり

つまり[心を変える]=唯一の真の選択である

[聖霊の思考体系]へのシフトが内的に起こったという現象です。

[神の愛の「反映」]を体現している象徴の映像が目の前に現れることもありますが、現れないことも多々あります。

これが「奇跡」であり、「赦しの実践」の効果効能です。

システムで説明すると無味無臭の味気ないもののように感じると思いますが、これを実践するなら、唯一の「神秘」である「真の自己」の記憶を取り戻していきます。

「解離」の現象として、その時「偽りの自己」の記憶は消えて無くなっています。

さぁ、ここまで聞いて、あなたは、「真の自己」の記憶を取り戻したいでしょうか?

私たちは

「正気の[完全無欠なる]たった1人の神の子である」という「私は心なんだ」という自覚を持って[戦場を超えたところ]から「赦しの眼差し」で、自我を「愛を求める叫び」として「(悪)夢を見ているもの」として見る?

それとも

「狂気の統合失調症患者、神経症患者としての[不完全にして欠乏した]個々の分離した物理的物質=肉の存在としての「自覚」=「自己認識」で、毎日のサバイバルゲームを、シーソーゲームを「食うか?食われるか?」でバトルし続けて敵だらけ、ライバルだらけのニ元の世界を「(悪)夢の主人公」として見る?

どちらか2つに1つを、「赦し」というものを理解し、そして、使っていくならば、私たちは、いつでも、どこでも、誰に対してでも、この2つのうちの1つだけを選択していくことが、「自由自在」にできるようになります。

気分は「気楽」か?「深刻」か?の選択を、文字通り「自由自在」にできるようになります。

それが、「赦しの達人(マスター)」ともいえるでしょうし、「あなた方の中に今もなお「キリスト」は失われていないですよ。」と、『奇跡講座』の中のイエスが言わんとしていることです。

「投影」に気づき、立ち止まって「赦しの実践」をする?

気晴らし、ストレス発散、仕事中毒、恋愛中毒、〇〇中毒で自分の考えを見ないように見ないようにごまかして「投影」し続ける?

これが、私たちの自由意思に任せられている唯一の「真の選択」ということです。

私たちにはもう一つの選択肢があり、真の愛の感触に触れる体験、「反映」を選べる、ということは、どんな報せよりも有り難い【朗報】なのではないでしょうか?




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