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めくるめくオノマトペの世界(エッセイ)

外国語を話していて気付いた日本語の特徴の1つに、「オノマトペ」の豊富さがある。自分のみたことや、感じたことを表現しようとしたときに、日本語のオノマトペに相当する表現が外国語には見当たらない。それを補うには大量の動詞や形容詞の知識が必要となるのだけれど、自分の乏しい外国語の知識だけでは、稚拙な表現しかできず、いつも歯がゆい思いをする(←ちゃんと勉強しなさい)。

あるとき、外国人の友人に、日本語の特徴としてオノマトペが大量に存在していることを説明してみた。彼は、「大人もオノマトペを使うのか?」と聞き返してきた。私がそうだというと、「僕たちの言語では、オノマトペは赤ちゃんや幼児に対して使ったりするけど、大人には使わない。とても子どもっぽく聞こえておかしい。」ということで、一定の興味を持ってくれたようだった。

彼には、ポケモンのピカチュウだって、オノマトペだよ、というと、目をぎょっとさせて驚いていた。日本語では、光や光沢を表すときに「ピカピカ」という擬態語を使い、ネズミの鳴き声には「チューチュー」という擬音語を使うことを説明すると、なにか合点がいったようで、嬉しそうに納得していた。「そうか、ピカチュウはねずみだったのかぁ」といって喜んでいたような気がする。ポケモンは世界を超える。

ただ、彼は、日本語をまったく話す人ではなかったので、そこでこの話題は終わり、別の話題へと移っていった。

そこで後日、日本語が堪能な外国人の友人に日本語のオノマトペについてどのように思うかを尋ねてみることにした。

彼女は、オノマトペは、日本語学習の最後の方に習うのだと説明してくれた。そして、はじめてオノマトペを日本語学校で習った時、とても気が遠くなったことを教えてくれた。量が多いだけでなく、彼女としては語感として理解できない似たような表現が大量にあり、どうやって区別すればよいのかが分からないのだという。

例えば、「ざらざら」「さらさら」「ざわざわ」「べたべた」「ぺたぺた」
「ぞわぞわ」「そわそわ」「ぎざぎざ」「ばさばさ」「ぽとぽと」「ぽつぽつ」「ずるずる」「するする」「ぬるぬる」「じんじん」「しんしん」「そろり」「ほろり」「ぽろり」…と、枚挙にいとまがない。

日本人からすると、これらの言葉を聞けば、ただちに脳に鮮明な触感や音、映像(心象?)が浮かび上がってくる。しかし、彼女からすると、それがよくわからないのだという。私は、オノマトペは感覚的な表現で分かりやすいと思っていたが、幼いころからなにかに触れてその言葉を使ってこなかった人からすると、オノマトペの語感が全く理解できないという至極当たり前のことに気づかされた。

オノマトペとは違うけれど、わたしはドイツ語の語感が遠すぎて理解しにくいということがよくある。例えば、ドイツ語では、「ちょうちょ」を「Schmetterling シュメッターリンク」というけれど、語感としてまったく「ちょうちょ」を想像できないのだ。逆に、英語の「バタフライ」は小さい頃から聞いたことがあるので「ちょうちょ」が連想される。でも、もし英語も大人になるまで触れていなかったら「バタフライ」と「ちょうちょ」は直結しなかったかもしれない。
(その他には、ドイツ語では「じゃがいも」のことを「Kartoffel カルトッフェル」、「おいしい」を「lecker レッカー」というけど、当時は、前者についてはおよそ食べ物を指す言葉には聞こえなかったし、後者もまったくおいしそうに響いてこなかった。イタリア語の「ボーノ・ボーノ」ははじめからとてもおいしそうに聞こえたのだから不思議である。)

話がそれた。
さて、彼女にとっては、語感として理解しにくい日本語のオノマトペではあるが、それでも彼女は、日本語のオノマトペのなかでも、彼女自身にもよくわかって、好きな言葉があると教えてくれた。

それは「きゅん」と「どきどき」だそうだ。

彼女曰く、誰かを好きになったりすると、胸や鎖骨のあたりが痛くなって、本当に「きゅん」とするし、心臓の鼓動が大きくなって「どきどき」するから、びっくりしたそうだ。日本語を学んでから、そういった感覚を言葉を通してより深く認識できたことが面白かったのだという。日本語で一番好きな言葉が「切ない」という言葉だと教えてくれた彼女らしい回答だと思った。ある程度、普遍的に理解可能な語感を持つオノマトペが「きゅん」や「ドキドキ」という言葉であるのなら、なんだか嬉しい。それはダイレクトに心の動きを表現するものだから。

そんな彼女も、当初は、オノマトペは子どもが使うものだから一生懸命に勉強しなくてもいいと思っていたそうだ。しかし、上述の「きゅん・どき」体験以降、よくよく注意を払ってみると、日本人が日常会話でオノマトペを大量に使っていることに気づくようになり、これを理解しなければ日本語をマスターすることはできないと悟った(観念した)という。賢いひとだ。

しかし、そうした話を聞いてると、どうして他の言語と比べて日本語にオノマトペが多いのかが気になってくる。一説によると、日本語の動詞が少ないことに理由があるようだ。つまり、日本語話者は、動詞を修飾する副詞としてオノマトペを大量に使っているのだろう。どうりで、私が外国語で話すと、稚拙な表現になってしまうわけである。基本となる動詞だけでは、質感、触感などの詳細が表現できない。これを実現するには大量の動詞を覚える必要があるということになりそうだ。

翻ってみると、日本語の文章は、動詞の数が少ないので、基本動詞を知っていれば、たとえオノマトペを知らなくても、主語と動詞がわかるので、文章の基本的な意味はだいたい理解できてしまうということだ。

これに対して、英語などの言語では、より詳細な、あるいは大人な表現をした文章では、同じ動作を表すにしても複数の動詞に使い分けられる可能性があるため、基本動詞以外の「動詞」を知らなければ、そもそも文章の基本的な意味が理解できないということになりそうである。英語の小説を読む難しさはおそらくそこにある。そのためか、確かに、英語圏では、例えば、ペンギン・ブックスなど、英語学習者向けに、同じ小説を言語能力のレベルに応じた単語に変換したうえで出版していたりする。

楽したがりのわたしなんかは、どうせ同じ話や内容なら、はじめから意味が分かりやすい簡単な単語を使ってくれればいいのにと、すぐに横着なことを考えてしまう。

しかし、それをしてしまうとどうなるかを考えてみると、外国語の世界から、日本語のオノマトペの世界がそっくりそのまま消えてしまう、という非常に恐ろしいことが起きることに、はたと気づく。

「きゅん・どき」体験から、日本語のオノマトペに観念した彼女のように、わたしも「動詞」地獄にそろそろ観念するときがきたようだ(←遅すぎ)。


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