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蚊取線香

コンロのボタンを長押しして火をつける。タバコを吸う習慣がなく、マッチやライターを持ち合わせていないためだ。じわじわと火が移る様子をじっとりと見つめる。短いようで長いその時間。しっかり点火したことを視認し、もう一度ボタンを押す。火が燃える様子を濡れた目で静かに見ていた。燃えるその先が、今にも消えてしまいそうで、大切なものを仕舞うかのように火の周りをそっと手で囲む。とろとろとした温もりを感じた。そのまま優しく口元まで持っていき、誕生日ケーキと同じ要領でそっと息を吹きかけた。火が消えてその瞬間煙に包まれる。煙が鼻腔にまるごと入ってきて思わず噎せた。苦しさは感じたが、嫌ではなかった。
蚊取線香の匂いが好きな日本人は少なくないと思う。お盆やお墓参りの際に、お香を添える文化があるためであろうか。その香りに郷愁を覚えるらしい。1Kの小さな部屋をぐるりと見回してほう、と息を着く。容器に入れた蚊取線香の煙が部屋に少しずつ浸透していく。鼻や口から体内に入り、肺から全身へと煙は侵略していく。その感覚が堪らなく心地よかった。そうすることで、まるで自分が何か強力な存在の庇護の下にいて、それが全ての災厄から自分を守ってくれるような気がして、そうして自分はゆっくりと羽を休めることができる。そんな気がするのだ。

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