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科学に絶対を求めるのは不毛だと思う

現代の生活は科学に溢れている。
コンビニのおにぎり、今眺めている画面、mRNAワクチン、すべてが科学に支えられている。
それどころか、自然法則のように見える時間の流れや重力だって科学だ。
なぜなら自然法則そのものが科学によって見出されたものだからだ。

こんなにも我々は科学に囲まれていて、科学を信じて生きているけれど、科学は絶対ではない。

自然法則は科学によって見出されたと、上記した。

けれど、これは厳密には、「科学という人類だけの共通認識ルール(もしかすると共通「幻覚」なのかもしれない)に基づいて、人類だけが信じ込んでいる法則」なのではないか。

ベタな例だが、昔の人は天動説を信じた。
それはその時代の「科学=共通認識ルール」が、「この世の中心は神であり、人間のいるところに神がいる」という基本原則を含んでいたからだ。
自分が世界の中心だ、という考え方はその時代は慢心ではなく「理論的」だったのだ。
その科学の中で天文学者は星の奇怪な動きを地球を中心として一生懸命理解しようとしたのだ。

幻覚は解け、今は地球が回っていることを疑う人はいない。
(「チ。」が気になるので今度読んでみようと思う。)

私はこの世界は神様が手作りしたのではなく、電子と陽子と電流と重力のバランスで生まれたと信じているから、きっと絶対的な物理法則は存在していると思っている。

ただし、人類のなかのいちばん賢い人でさえその法則を正しく認識しているとは思わない。
つまり、今現在の物理学も、生物学も、化学も、全てどこかが微妙に間違っている可能性を秘めていると思っている。
近似的には齟齬が生じないくらいの精巧さを持っていて、地球環境上では全てが合っているように見えるだけなのではないかと。

ただ私はこれを悲観的に思ってはいないし、むしろワクワクしている。
もっともひっくり返りそうなのは物理学なのかもしれない。
なぜなら、原点的な物理学の本質は法則そのものの解明だからだ。
観測事象から逆算してもっとも「有り得そうな」数式をみつける、それが物理学だ(と思っている)。
宇宙の彼方での実験で、今までの物理法則がまったく当てはまらなかったら?
きっと大騒ぎになる、非常に楽しみだ。

数学だって、無理数の存在がある時点でなにか不具合があるように見える。
あたらしい0や1の発見によりπが割り切れるようになったら、なんて素敵だろう。

現代社会は高度に科学的で、食中毒や薬害や物理的な事故、災害への防御力は間違いなく高い。
けれど、私たちの最大の後ろ盾である科学は、それに頼る私たちの脳から出てきたものであることを忘れてはいけないように思う。

新しい病気に対抗する新薬が「絶対に安全で絶対に効果的なのか?」
誰だって知りたいし、それを知るための科学だ。

けれど絶対なんてない。
科学がもしかすると「集団幻覚」かもしれないのに、それに現実的な絶対を求めるのは無理があるように思う。
狩りをして明日の「絶対」の糧も命もなかった時代は自分の行動が自分の運命の全てだった。
生き物である私たちが、自分の運命に対して持つべき責任は、その時代から何も減っていないと思うのだ。
科学的に見出された調理法で、危険な食中毒で死ぬことは少なくなったがまだ有り得る中で、それを食べるかどうか決めるのは自分だ。

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