【努力考察】冬の空、自己肯定感の源泉について

どうしても分かり切れない類の人間がいる。                                                                             

それは、私を嫌悪する人間のことである。



それだけ書くと、非常に自己中心的で、排他的な人間に感じると思うが、そうでないことを予め書きたい。


私を嫌悪するタイプの人間


これは、自分を明確に定義して、自分を明文化しきれていない人間のことである。


私は、筋トレと勉強が好きだ。それは、ぞくに言う文武両道と言えなくもないが、スポーツができるわけでもないし、一流大学を卒業したわけでもない。


その程度にしろ、なんとなく反感を抱く人間がいる。

反感を抱く人間を語る前に、反感を抱かない類の人間について述べる。



これは、自分を明文化している人間である。


いくら私が勉強と筋トレをしようと、その方の評価基準にとっては全くの無関係である。また、自分を明文化できている人間は、その人間の評価軸が明確であり、私の勉強および筋トレの評価軸を持たない空間にいるならば、私はその空間に存在しないも同義である。


よって、会話する際も、私が何を言おうと全く気にならないのである。


その対称が嫌悪する人間。自分が明確でないので、私に劣等感を感じて、何かにつけて否定したがる。(否定するということは、相手の評価軸に私の価値観が混ざっており、さらに、その私が持っている特性について劣っていると相手が判断しているのであろう。)


いや知らんよという話。



自己肯定感の源泉


結局これに尽きるんだと思う。

自己肯定感の源泉を計量する評価軸が明確であれば、そのトポロジカルな特徴の観点で分かり合える。

相手の評価軸について疑問を抱けるし、疑問に対する回答も理解できる。


でも、自己肯定感の源泉が明文化されてなければ、その評価軸も明確でない場合は、まったく相手のことを理解できない状態になる。



自己肯定感の源泉があるから、人間は自分が生きることを赦せると考えている私にとっては、そうでない人間はよくわからないのである。




まとめ


生きていくことに一番必要な自己肯定感の持ち方に限って、学校で教えてくれないのはなぜなんだろうか。

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