マーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』(セバスチャン・ブロイ、河南瑠莉訳)を読むの記
マーク・フィッシャーの名前は、『ニック・ランドと新反動主義』を読んだときに知った。加速主義者とは違う方向を向いた新しい思想家で、しかももう亡くなっているらしいということも知った。
この本は資本主義リアリズムという、「この」資本主義以外のシステムを考えることができなくなった現在の気分をよく描いた本だと思う。現代ではもはや資本主義以外のシステムを想像することすらできない。共産圏の国ですら経済的には資本主義国になっている。「世界同時革命」を成し遂げたのは資本主義のほうで、資本主義国と経済的な交易を行う限り自分自身も資本主義的である必要が生まれてくる。頭の中では、つまり「上部構造」においては反資本主義的であろうとしても、「下部構造」においては資本主義のルールの中で生きることを強いられる。それどころか無意識的に資本主義を強化してさえいる。
実際のところ、「反資本主義」の意識を抱くこと自体が資本主義的であるとすら著者は述べているように見える。
資本主義は言うまでもなく本質的に強欲であるが、単に強欲なだけではここまで生き延びてはいない。「資本主義」なるイズムは存在しないにも関わらず(それらを推し進めているようにみえるのは新自由主義や自由至上主義や加速主義などの、資本主義そのものとは異なるイデオロギーである)、それがこれほどまでに蔓延してオルタナティブを想像することすらできなくなっている理由として、資本主義がその強欲さを隠す「実体なき変容」を用いているからだと言う。
著者の言葉は現代の「SDGs」なるもののくだらなさを予言しているかのようである。「企業は社会の公器」などというたわごとや、「三方良し」、「社会貢献」などの自己暗示めいたスローガンも、仕組み上強欲に「安く大量に買い叩き、商機とあれば足元を見て高く売りつける」搾取の構造をコアとして持たざるを得ない自らの資本主義的振る舞いを糊塗するための体の良い嘘・まやかしに過ぎないということなのだ。
しかし、ではどうやって資本主義のオルタナティブを想像していけばいいのかということについては大まかな方針を示しただけで具体的には述べられていない。キーワードは「労働者の自立性」と、「(労働組合に代わる)新たな政治的主体」であるらしい。これだけを見れば、なんとなくだがウイリアム・モリス的なユートピア主義、アナキズムが思い浮かぶ。雇用主や労働組合の管理から自立した政治的主体となれば、それは職業的な「職人」としての個人事業主であり、また個人事業主たちのネットワークとしての協同組合である。一方であらゆる労働者が個人事業主であるというビジョンは、実は結果として新自由主義が労働組合を解体して労働者を「ハケン」労働者の地位に落とし個人事業主に仕立て上げられてしまった現実によって悪い形で先取りされてはいないだろうか。
「職人」にあって「ハケン」にないものは、労働者自身の専門領域である。ハケン労働者は何も専門スキルを持たない。資本家にとってそのことは必ずしも悪いことではなく、それなりの教育を受けた極めて流動性と汎用性の高い「部品」として有用なのであった。となると、スキル的な意味での無産階級である非正規労働者たちに「職人」になるためのスキルを習得させることが、一見お役所的な「リスキリング」施策のように見えて割りと実践的なのかもしれない。個人的な経験としても、企業が高い金を支払ってでも仕事を依頼したい「スキル」を持っていると、労働者は資本家に対して強気になれる。スキルを欲しがる顧客は他にもいるのであり、気に入らない仕事は断れるからだ。そのような「職人」がネットワークを形成すればなおさら我々は大きな資本に対しても戦える可能性が出てくる。
資本主義のオルタナティブが無い、「外部」が無い、ということについては10年前の自分も気が狂うほど考えていた。当時の自分は結局のところゲバルトこそが外部へ至る道だと考えていたし、山上徹也はそれを意外な形で思い出させてくれたが、とはいえ組織化されていないゲバルトは焼け石に水でしかない。ゲバルト以外の道をぼんやりと意志薄弱に探りながらこの10年はダラダラと生きてきた。この本はその10年前当時の行き詰まりのような気持ちを思い出させせてくれるとともに、オルタナティブはあるという(ある意味では無根拠な)確信を持つように力づけてくれる本でもあった。著者が亡くなってしまったことが惜しい。
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