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和歌、ときどき小林秀雄

年たけて又こゆべしと思ひきや命なりけりさ夜の中山
西行「新古今和歌集」

前回に続いて小林秀雄さんが和歌をどう読み解いたのかを見ていきたいと思うのですが、

冒頭の和歌は西行晩年の歌で、

年をとって若い頃越えた山をまた越えることができるとは思ってもいなかった。生きていればこそだなぁ、という和歌の意味になろうと思います。

西行は評価の高い歌人と世では言われておりますがその評価の元となるものは評価者によっても異なるのでしょうが、

放胆な歌が評価されるとしながらも小林秀雄さんは

「心理の上の遊戯を交えず、理性による烈しく苦がい内省が、そのまま直かに放胆な歌となって現れようとは、彼以前の何人も考え及ばぬところであった」(小林秀雄「モオツァルト・無常という事」)

とし、また

「彼の様に、はっきりと見、はっきりと思ったところを素直に歌った歌人は、『万葉』の幾人かの歌人以来ないのである」(同上)
としています。

ざっくり簡単に言うと、
見たまま思ったままを素直に放胆に詠うというところが新しいというか特徴的ということのようです。

ただし小林さんはそこに至っている西行の内面に踏み込みます。

「如何にして歌を作ろうかという悩みに身も細る想いをしていた平安末期の歌壇に、如何にして己を知ろうかというほとんど歌にもならぬ悩みを提げて西行は登場したのである。彼の悩みは専門歌道の上にあったのではない。陰謀、戦乱、火災、飢饉、悪疫、地震、洪水、の間にいかに処すべきかを想った正直な一人の人間の荒々しい悩みであった」(同上)

と評論しています。

自分ではなかなか歌人やその歌の内面まで突っ込んでいくことは難しいと感じる上は、

小林秀雄さんの毎度のことながら対象に寄り添う姿勢とその評論を頼りにまた西行を詠んでいきたいと思う次第です。

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