見出し画像

アカシック・カフェ【2-5 アップ・ライト・アップ】

これまでのお話はこちら

□ □ □

無数の情景。その殆どが白と黒だった。ピアノ。鍵盤。五線譜。鍵盤。白飛びする舞台。五線譜。時たま色が混じるかと思えば、それはトロフィーや盾で、あるいは演奏から抱いたらしいイメージで、終ぞ麦酒は手許に見えすらしなかった。

叩いて奏でて、打って響かせて。指が躍れば人々は静まり、指が止まれば人々が湧く。そんな光の繰り返し。
叩いて奏でて、打って響かせて。指が踊れど満足なぞせず、指を止めては独り聴き直す。そんな陰の繰り返し。
平穏の欠片もなく、ジャケットの笑顔から想像も出来ないストイックな、カラフルなモノクロの四年間は、圧倒的な熱量と密度で過ぎ去っていく。ひとつひとつを丁寧に拾っているはずなのに、"主観者"が余りに一心不乱に生きているせいだ。全て拾っても、それでも俺達にとってさえ一瞬。鳴って消えゆく音の群れ。宇佐美恋、その"天才"ぶりは、なるほど確かに規格外だ。

“目”を疑うこの瞬間も、滑らかに絶え間なく鍵盤を舞う十指と数多の意味を内包する音符と五線譜を意識の中心に、世界が巡る。黒、白、白、青、黒、緑、白、黒、黒、白。部屋、大学、コンクール、楽器店、原点の音楽教室、定期演奏会、留学先、異国のバー、オーディション、コンサート。
そして、卒業式典のソロ演奏。万雷の拍手の残像を瞼に焼き付けて、こちらも終演。俺、永愛の順に目を開け、浮田様はまだ弱々しく瞬きを繰り返している。

「……ん」
「……弥津彦、コーヒー……ううん、水」
「……あぁ。浮田様の様子見ながら待ってろ。お前も座ってな」
「うん……」

流石の永愛も疲れたか、クラクラした調子。四年間もの過去を体感するなら、大人しく座って視るだけよりも、直立不動だとしても肉体を多少なり使った方がいい。精神と身体の疲労差を僅かでも埋めて、全知酔いを軽減する工夫のひとつ。……とはいえ、焼け石に水もいいところか。

体感では一年弱振りの厨房で三人分の水を用意している間も、耳の奥ではずっと天才の残響たちが入り乱れていた。もはやそれは連弾どころか一人楽団。視覚特化の派生能力持ちとはいえ、基本の“悟り”も当然万全の俺の能力は、勿論その音楽も受け取っていた。残像が焼き付いたり目元の痺れが長引いたりはたまにあるんだが、残響が続くって、かなり久しぶりだ。
宇佐野恋が弾いたもの、聴いたもの、見たもの、したこと、四年間の全て。俺でさえ溢れる才覚と狂おしい努力を感じ取り、畏れてしまう。浮田様の受けた衝撃は、それこそ比較にならないほどだろう。大丈夫だろうか。

小部屋に戻ると、浮田様はちゃんと目を開けて、俺の方をちゃんと向けていた。よしよし、意識覚醒も問題なし。軽く声をかけて、水を差しだす。

「お疲れ様です、浮田様」
「……あぁ、どうも。久しぶり……ではないんですよね。はは」
「そうですねぇ、えーと……一、二時間くらいですかね?」

かなり慎重に視たことと、宇佐野恋の情報がCDしかなかった分、時間がかかってしまった。ある人物の四年間を余さず体験するのに数時間ってのは、本来相当短いはずなんだけど、普段が一瞬だから長丁場に感じるな。

手渡したグラスの中に揺らめく水面に一瞬だけ浮田様が映っていたが、時計を確認した一瞬で飲み干されて、いなくなった。浮田様は「意外と短いものなんですね」とだけ言って、長い指を軽く組んだ。

「ご気分はいかがですか?吐き気とか倦怠感とか、残像がチラついたりとか……。結局ノンストップで全部視ましたけど」
「時間感覚がまだ狂ってる気がしますが……特に、これといっては」
「よかったぁ……」

助手の仮面を繕おうともせず、少女が胸を撫で下ろす。後遺症は永愛の心配事の筆頭だからな。浮田様も微笑んで、穏やかに、すこし寂し気にご感想を零す。

「むしろ、音が消えていくのが惜しいくらいです。けど、あの拍手や高揚感は……恋のモノ、ですから。これでいいん、ですよね?」
「……えぇ。そうですね。宇佐野さんの、しかも過去です」

たまに、全知で視たもの、知ったものを全て自分の経験と混同するアカシックスがいる。愚かな破滅をするアカシックスが、現代でもいる。だというのに、その点では浮田様は素晴らしく聡明で……哀しいほどに冷静だった。

「ですよね。……僕には、届かなかった『もしも』。僕と一緒に弾いていた時とは大違いの練習量で手にした、恋の栄光、か」

ぽつり、ぽつりと言葉を零す浮田様。接続までの前準備でざっと二人の「それまで」を視た俺には、共感できる。小さなころから一緒だった天才は、自分が道を違えたことで開花した、なんて。自分の後悔は、彼女にとってはプラスだったなんて。心中を察して、俺は言葉をかけられない。

じゃあ、浮田様も人前で弾けばいいじゃないですか。私聴きたいです」

そんな俺の沈黙を破る、無邪気な発言。単純明快なその答えに、彼の顔から寂し気な笑みが消え、俺の顔からも強張りが吹き飛び、呆気にとられたまま、数拍硬直した。「あれ?変なこと言った?」と、立てた人差し指が提案と共に静寂の中で行き場を失い、空中をふらふら泳ぎ始めて、また数拍。俺たち二人は、思い切り笑いだしてしまった。取り残された永愛は俺を揺すって抗議し、浮田様にまでブーイングを飛ばす。最初は怒っていたけれど、三つ編みが振幅を増すにつれ、彼女もだんだん笑顔になっていった。

しばらく続いた三重奏も息切れと共に終わりを迎え、そこから十数分はシリアスな事後手続きを執り行った。誓約書の再確認、精神、肉体、その他生活面の注意事項、アフターケアの説明、料金の支払い方法などなど。今回も円満に、滞りなく終わってよかった。

「それじゃ、そろそろ失礼しますね」
「あれ、お急ぎですか?コーヒー一杯くらい出しますよ」
「ありがとうございます。……せっかくですけど、またにします」

すっくと立ち上がった浮田様はつれない返事。入店時とは似ても似つかず、全知接続直前よりは気負わない、自然な立ち姿の彼は永愛の方をちらと見て、反省会で「弥津彦もあれくらい自然に笑えたらねぇ……」と評されるにやりとした笑顔で、付け加えた。

今日はちょっと、楽譜を探しに行くので
「それじゃ、引き留めてもいけねぇや」
「えぇ。今度はバーで会いましょう。ピアノがあったはずですし」
「楽しみにしてますよ」

自信があるのかないのか、あいまいに笑う浮田様を、俺と、少し不満げな未成年の永愛とで並んで見送る。ちょっと足早な後姿は夕陽と街頭に照らされて、薄暗がりの中を真っすぐに進んでいった。

「離れてたって、優作には負けられないからね」と、聞き慣れない、だけど聞き慣れた、懐かしい声が聞こえた。そんな気がした余韻を残して、この楽譜は終止線。

>>つづく>>

<<2-4 2-e>>

Twitterとかマシュマロ(https://marshmallow-qa.com/A01takanash1)とかで感想頂けるだけでも嬉しいです。 サポートいただけるともっと・とってもうれしいです。