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エイゼンシュテインとプロパガンダ映画⑵:シーン

⚠️注意⚠️
ソ連映画について話していますが、現在の国際情勢とは無関係です。

前回↓

前回の内容

エイゼンシュテインは
⑴モンタージュによって、観客に叙事詩的な主題を提示しようとしていた
⑵シーン自体は単なる記号であると考えていた
という点を確認した。

今回は、「本当にシーン自体に意味はないのか」ということについて考えた上で、エイゼンシュテイン映画とプロパガンダについて考察していきたい。

シーンの持つ三つの意味

前回も登場したロラン・バルト曰く、シーンには以下の三つの意味がある。
⑴画面に映っているものに関する記号的な情報
⑵作者の意図に沿った普遍的で自明の意味
⑶記述されえない「鈍い」意味

…ははっ、何いってんのかわかんね!!

ただ、この中でも⑴は比較的理解しやすいだろう。
そのまま、「画面には何が映っているか」ということだ。
王様が映っている。家来が二人映っている。家来が捧げ持つ器の中に、金銀財宝が映っている。そんな感じである。

また、⑵についてもわりあい簡単に説明することができる。
王様が被っているデカイ冠は権力の象徴、家来たちの持っている金銀財宝は有り余る富の象徴……まあ、「せやろな」といった感じだ。
「作者はそれを画面に映すことで、観客に一体どのような印象を与えようとしているのだろう?」という問いに対する、自明の答えが⑵なのである。

曲者は⑶だ。
「記述されえない『鈍い』意味」──もうこの時点で何なのかよく分からない。
とりあえず、先に挙げた王様と家来たちを例にとって考えていこう。

家来たちは王様の前でうやうやしく財宝の入った器を掲げている。カメラが家来たちにフォーカスする。するとどうだろう。
「なんか家来役の役者、顔にベチャーッと白粉塗ってんなぁ」というのが、画面いっぱいに映し出されてしまうのだ。

なんかアホっぽくないだろうか。
豪奢な衣装をまとった王様、うやうやしい態度の家来たち、絢爛豪華な調度に、三千世界の金銀財宝。
どう考えても真面目に「権力の絶頂」的なものを描写しようとしているのに、白粉ベチャー顔が迫ってくると、何だかフフッとなってしまう。

この「アホっぽい、間延びした印象」こそが第三の意味の正体なのである。

当然ながら、この「アホっぽさ」は物語の本筋とは関係がない
役者の顔が白粉で間延びした感じになっていようが、画面の中の彼らが権力の絶頂にいるということに変わりはないのだから。

そもそも「顔に白粉をベタ塗りしている」という状態自体にさしたる意味がない。
「顔に白粉をベタ塗りしていることはわかるんだが、それがどうした」という話だ。
バルト風に言うと「シニフィエ(記号内容)のないシニフィアン(記号表現)」である。やっぱり何いってんのかわからん。

また、第三の意味は不連続的でもある。
そりゃそうだ。画面の中の何に対して「フフッ」となるかは、シーンによって異なるだろう。
あるシーンでは、白粉を塗りたくった顔かもしれない。
またあるシーンでは、どこか間の抜けた表情かもしれない。
更に別のシーンでは、イマイチ締まりのないポーズかもしれない。

作者の意図に沿って組み立てられる第一・第二の意味と違い、第三の意味は連続性も関連性もなく不意に現われては、観客に俗物的な印象を与えていく。

第三の意味は、第一・第二の意味と同じ画面上にありながら、一つの主題の元につなぎ合わされたそれらとは、異なる切り取り方をされるものなのだ。
そして、第三の意味の持つこの特徴こそが、シーンに固有の役割を与えているのである。

「第三の意味」と全体的主題

第一・第二の意味を表すものとしてのシーンは、作者の意図の元に衝突させられて一つの主題へと向かわされる、単なる記号にすぎない。
それは、モンタージュという技法によって初めて、ある「叙事詩」を構成するに至る、ただの素材だ。

一方で、同じ映画の内部にありながら、主題への方向づけの外部にある第三の意味は「叙事詩」に対して、逆に揺さぶりをかけるものであるといえる。

それは観客におかしさを感じさせる。
いかにその主題が高尚であろうと、第三の意味が立ち現れるたびに、映画はどこか俗っぽく、人間臭くなる。

この点、「映画に対して人間的な印象を付与する」ということが、シーン固有の意味であるといえそうだ。

第一・第二の意味やモンタージュによって示される主題は、非人格的な叙事詩である。
その中で語られる英雄は、市井に生きる人々の個別具体的な苦しみに寄り添ってはくれない。
彼らが相対するのは、いつだって世界征服を目論むような巨悪ばかりなのだ。
当然そんな「英雄」は、英雄でこそあれど、普通の人にとってはどこまでも遠い。

これを民衆にとって身近にするのが、第三の意味の役目といえよう。
王侯貴族といえども、近づいたら白粉が浮いててケバい。
革命軍といえども、よく見ると武器の構え方が板についていない。
英雄といえども、叩けば何かしらのボロが出る。

「叙事詩を紡ぐのは、イマイチぱっとしないところもある普通の人──すなわち、画面の前にいる貴方のような人間だ」

第三の意味は、大衆にそのようなメッセージを伝えている。

エイゼンシュテインとプロパガンダ映画

以上をもって結論に入る。

前回「エイゼンシュテインはモンタージュによって観客に叙事詩的な主題を提示しようとしていた」ということを確認した。
また、この際「シーンはモンタージュを通して初めて主題を構成する、ただの記号にすぎないのではないか」という問いが浮上した。

この問いに対し、今回
「(作者の意図に沿ったシーンの第一・第二の意味自体は、主題に対する単なる記号でありうるが)その第三の意味が主題に揺さぶりをかけるという点で、シーンは単なる主題の代理としての記号ではない
という答えが得られた。

エイゼンシュテインの映画において、モンタージュは叙事詩的な主題を提示し、シーンの第三の意味は、そこに俗っぽく人間的な印象を与える。
この点、彼の映画は非人格的なストーリーラインを持ちながら、大衆がそれを我が事のように感じられる仕掛けも施されているといえるだろう。

「革命の理想」なんかを、人々に身近に感じさせることができる。
それゆえに、エイゼンシュテイン映画はプロパガンダに適していると考えられるのだ。

何かありましたらコメント欄まで!!

今回の参考文献

  • 「記号」『世界大百科事典』Japan Knowledge Lib

  • ロラン・バルト著、沢崎浩平訳『第三の意味』(みすず書房、1984年)

  • ロラン・バルト著、蓮實重彦、杉本紀子訳『映像の修辞学』(ちくま学芸文庫、2005年)

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