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独身女が家を買った途端に、適応障害になっちゃった

時は2019年、29歳の年に私は、家を買った。
独身だった。
当時、付き合っている人もいなかった。

“家を買うのよ”と周りに報告すると、反応はそれぞれで、
「すごい!」とシンプルに褒めてくれる人もいれば、経済面からみて「賢い選択肢かもね」と後押ししてくれる人もいた。

ただ、9つ上の姉は、
「独身で家を買うなんて、将来結婚できへんくなるで!」と言った。
結婚のことは、正直ぼんやりとしていて、具体性を持って私に迫っているものではなかった。
ただ、小さい頃からインテリアショップをネット上で調べては、家のカラープリンターで気に入った家具を印刷して、架空の部屋をノート上で制作したり、社会人になって、暇さえあれば住宅情報サイトで部屋の写真をみていたような私にとって、
”自分の家がほしい”という私の意思は十分、
具体性を持っていたものだった。
少なくとも、”結婚する”よりも。

一方、生活面でいうと、当時2019年のコロナ前だったのだけど、私の会社はフルリモートを導入していた。当時一人暮らしをしていた北向きのワンルーム賃貸マンションは、暗くて狭くて、てんでリモートワークには向かなかった。

住宅情報サイトを見まくっていた私は、当時の賃貸料を据え置きで、当時住んでいた場所付近に、より広い部屋を借りることは、ほぼ不可能であることは理解していた。
しかし、中古マンションの相場から、ローンのシミュレーションで、ざっと計算しても、先ほどの条件を満たすことが確認できた。

「うん、家買おう。」
その時、よしっ!と一世一代の決断をした訳でもなく、合理性をもって、家を買うことを選択した。
私にとっては、流れ作業のように必然なことだった。

私が購入したマンションは、南向きの1LDK、45平米、フルリノベーション済みで、一部壁の色がモルタル風のグレーになっており、L字キッチンは白で統一され、大容量の収納がついていた。
内装も北欧風でかわいらしくて、私の好みだった。

キッチンが広いので、自炊に力を入れるようになり、友人を招いてたこ焼きパーティーやチーズホンデュパーティーをして、楽しむことができるようになった。
地下鉄の駅からも近く、繁華街に近いということで、友人もよく泊まりに来るようになった。
とてもとても、充実した新しい生活の始まりだった。

そう、私が適応障害になるまでは。
適応障害になったのは、家を購入して、
4ヶ月目のことだった。

引っ越してすぐに配属されたプロジェクトで、
鬼のような激務と、パワハラにあったのだ。

それは、仕事の山場をなんとか乗り越えた時に、
ふいにやってきた。
夜、眠れなくなった。
慣れた仕事に取り掛かれなくなった。
テレビを観ていても、ふと涙があふれてくるようになった。
芸能人が若くして病気で亡くなったというニュースをみて、「私が代わりに死ねばよかったのに」と思った。

仕事を辞めたかったけれど、契約したばかりのローンが20年残っていたので、辞めることができなかった。

私は、家を購入したことを後悔した。
 
「この家さえなければ、すぐにでも仕事を辞めて、実家に戻って、当分はお金の心配なしに、この苦痛から解放されるのに!」

そう思って、毎日泣いた。
あれだけ気に入った家が敵に見えた。
そして、愛着のある家に対して、敵対心を抱いてしまう私自身にも、嫌悪した。

ローンがあり、柔軟に、ぱっと仕事を辞めてしまうことができなかった私は、
「できない自分を認めて、周りに助けてもらう」
という選択肢をとった。
これは父の助言によるものだった。
「今は、正常な判断ができなくなっている。一度、今の業務量も含めて周りに助けてもらえないか、
上司に相談してみてはどうか。」と私に言った。

当時の私は、同期の中でも昇進も早く、仕事ができる方だと自認していた。
精神的な理由から、休んで復帰した人も知っていたけれど、その人たちのように、周りから
「できない」というレッテルを貼られるのは嫌だった。
なぜ、仕事のできる私が、周りができなかった仕事を押し付けられた結果、「できない」と白旗を挙げなければいけないのか。
そんな弱い私を、私自身は、到底受け入れることはできなかった。
悪いのは会社で、私ではないのに。
と、当時は怒りや憎しみといった、負の感情に支配されていた。

けれど、今のお給料の額をもらい続けると仮定し、ローンを組んでいるので、背に腹はかえられなかった。売りに出すとしても、実際に売れるまで我慢して仕事を続けることなんて、考えられなかった。

家を買うことは、流れ作業のように、すっと決めたのに、他人に「できない、助けて」と伝えることは、こんなにも勇気が必要で、難しいことなんだと、思った。

意を決して、当時の上司(パワハラの本人とは別の人)に時間をもらい、自分の口から直接、
「できません、助けてください」と伝えると、
「分かりました。ゆっくり休んでくださいね」と
案外、すんなりと受け入れてくれた。
休職の準備に向けて、人事と調整したり、よく動いてくれた。

晴れて、2019年11月から、私は1ヶ月間休職することにした。
細かく言えば、2週間の休職と、2週間の有休を
使った。

休みの間、家で過ごすと、なんて素晴らしい家なんだと、また改めて思うことができるようになった。
日当たりも良くて、近くに公園もあり、日中は子どもたちが遊ぶ声が聞こえる。
家の内装は、ずっとかわいらしい。
内装に合うように私がコツコツ集めた絵や、器を見渡して、「私はこんなにも、かわいいものに囲まれていた暮らしていたのか」と驚いた。
繁華街も近いので、平日の人が少ない時間帯に買い物をして、小洒落たレストランでランチを食べたりした。
新しいことにチャレンジしてみたくなり、編み物やペン習字も始めた。
母と富岡製糸場や京都まで旅行にも行った。
私の場合は、パワハラから離れ、仕事をしなくてもよい状況が開けさえすれば、心の底から晴れやかに、生活を立て直すことができるようになった。
1ヶ月経つと、眠剤を飲まなくても、ぐっすりと眠ることができるようになったし、少し不安もあったけれど、仕事を再開してみてもいいかもしれないという気持ちも生まれた。

「だいたいの人は休職しても、期間を延長されますけどね」と精神科の先生に言われていたけれど、
きっちり1ヶ月で復帰した。

復帰後、パワハラの張本人とは、携わらないようにプロジェクトの配属なども調整し、会社は配慮もしてくれていた。
仕事自体は、元から得意だったので、徐々に勘を取り戻して、以前のように、また働く事ができるようになった。
ただ、視野が狭くならない程度に、仕事に向かう
姿勢を変えた。適度に休み、「死なない」ことを基準に考えると、「まぁ、いいか」と、どこかで妥協点を作って、私は私自身を労ることを学んだ。
同僚や後輩の方が、休んだり、少し異変があって、しんどそうにしていたら、気付いた範囲で声をかけるようになった。
もう、私の周りで、誰ひとり精神的にしんどくなって、辞めてほしくなかったからだ。

復帰した後の3年間で、私はひとつ昇進し、給料も上がった。
「休職したので、昇進はできないと思ってました。」と上司に伝えると、
上司は、
「休職のことは、全く関係ありません。いつも、丁寧で素早く仕事をしてくれて、後輩の面倒も見てくれるので、当然の結果ですよ。」と言ってくれた。

もしも、あの時、という事があるとすると、
「家を買わずに、ローンがなければ」
私は、すんなりと仕事を辞めていたと思う。
もちろん、もしかしたら、あの時「辞める」という選択肢も、必要だったのかもしれない。
けれど、「仕事を辞めない」と決断したことというよりも、あの時、
「できない自分を認めて、周りに助けてもらう」
という選択をできた事が、
私の人生の中で一番尊い事だったように思う。

家を買っていなければ、得ることのできなかった
経験だ。

負の感情のまま、怒りに任せて、
「こんな会社私から願い下げだ、辞めてやる!」
と辞めることもできた。
しかし、その一歩を踏みとどめてくれた、
私の家には感謝でいっぱいだ。
「できない、助けて」と伝えることができる人になれてよかった。正の感情に戻ることができてよかった。

3年後、2023年6月、私は休職して復帰した会社を辞めて、転職した。
何かがあった訳でもない。転職会社の人から急に電話があり、勧められるがまま、給料が上がりますよというので興味本位で受けた会社に受かったので、辞めた。
それは、流れで決めた。深い意図はなかった。
ただ、適応障害になり、休職した後でも昇進することができたという、事実が自信につながったのは、確かだ。
職種は変わらないまま、お給料はありがたいことに上がった。

辞める直前に、
「また、是非、いつでもいいので、戻ってきてください」と部門長に直々に名刺をもらった。
3年経って、休職したことなんて、全くなかったことないみたいになっていた。
私の恐れていた「できない人」のレッテルなんて、貼る人はいなかった。

2023年現在、私を救ってくれた私の家は、売ってしまって、別の方の名義になっている。
なぜなら、私はこの3年間で結婚をして、あの家に夫と1年ほど一緒に住んだ後、社宅を経て、ついに今年、終の住処を購入したからだ。
私の家と、新しい家の二重ローンを支払うだけの
経済力はなかったので、あの家を売って、プラスになった資金を頭金の足しにしたのだ。
ちなみに、夫と出会った当初、持ち家のことを話すと、「家を購入してるなんて、かっこいいです。」と言った。そんな夫は終の住処のローンを夫の名義で組んでくれた。

振り返ってみても、あの時、ぎりぎりのところで、未来の私が誇れる選択をすることができたと思う。

適当に選んだことでも、その選択肢を、どのように未来に活かしていくかは、自分次第だ。
その時その時を一所懸命に、素直に生きていれば、多少犠牲はあったとしても、いつかの未来の自分を救うことができる。

そのことを身をもって知って生きるのと、知らずに生きるのとでは、全然違った人生になっただろうな。
うん、私はもう大丈夫だ。
胸を張って生きることができる。
あの時、あの選択をしたから、そう思うことができる。





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