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もっと読んで欲しいnote記事をメモ*知るべきこと*山田正彦

ベトナムの一面を納得した感がある。
遠く離れた知人がフランス語を習っていたせいもあり、
彼女から旅行者としての、新しいベトナムを知る機会はあった。
ベトナムというと、幼い頃に繰り返し目にした
テレビのベトナム戦争のイメージがほとんどだ。
恐怖にまみれた別世界の話で、泥川のような印象が強いのは
ピューリッツァー賞の報道写真のせいかも知れない。

ベトナム人は技能実習生として、地元でも働いている。
他の外国人と比べて、穏やかで優しい国民性のようだが、
仕事には飽きやすいというような話を聞いた。
中国人のように漢字の筆談で乗り越えることも、
フィリピン人のように英語を取り混ぜることも出来ずに、
いきおい日本語を話せるようになったベトナム人が、
買い物のサポートをする場面に遭遇したことがある。
どちらかというと管理する側とされる側。
大人と子供のような隔たりを、彼らに感じたことがある。
シャム双生児を始めとした、ベトナム戦争時の枯葉剤の弊害は
時折目にすることがあったが、時を経て、記憶の底に
沈んでしまった気がする。人間は忘れる生きものということだ。

発達障害云々の言葉は、確かに目立つようになった。
割と便利な理由として使われてる気がしてならない。
記事の中で、一番にウンウンと納得したのは
産業構造の問題。漠然とその中で生かされている感じの、
そのベルトコンベヤー的世界を言葉で説明されて、
笑点なら座布団10枚、と言いたくなるところだ。
皆が漠然と考えてることで、しかしどうしてよいのか分からない、
自分には関係ない、という部分が一番問題だと思う。
自分の頭で考える機会を、教育の中で奪われているのだ。

中学までが義務教育と言っても、100%に近い子供が高校に進学する。
さらに就職のための求人に参加するために、大学に進学する。
子供たちの多くは会社員か、どこかの組織の歯車になるために
勉強することを疑わないのだ。
それでいいのだろうか?
殆どが人に使役されるために勉学に励む。
大手企業のために国が動いていくしかないという側面も感じる。
それでいいのだろうか?

国土のほとんどが山林なのに、荒廃している。
恵まれた水源や農地があっても、見向きもされない。
食べ物は大地が恵んでくれるものではなく、お金と交換するだけのものだ。
自給率が低くても、輸入すればいいと思っている。
スーパーや商社が何とかしてくれると思っている。
納税しているのだから、それ以上の恩恵を受けられるはずと思っている。
災害が起きれば、自治体の公務員がなんとかしてくれると思っている。
真っ当に生きている自分は、それなりの生活を手に出来ると思っている。

すべて幻想だ。

学校と産業が手を繋いで、人間の単一化、平均化をはかる必要が
あったということが、発達障害(という言葉や理解)を
生んできたという理屈は腑に落ちる。
教育は、猫も杓子も高等教育を受けさせる必要がない時代だと思う。
それにはまず地方大学のプライドを上げ、数を減らし、
教育費の無償化を実現するべきだと思う。
ほとんどの家庭は教育費の捻出のために、悪戦苦闘しているのだ。
学生にしても、国を構成する一兵隊の自覚も、
それに対する反発ですら感じられないことが恐ろしいと思う。
若者は刹那を積み重ねて生きるしか、
この先の人生の形を見いだせないでいるのだ。
与えられたものの中で自分を見出す。出る杭は打たれる。
なぜ会社で働く人間だけが必要なのか、
なぜ第一次産業はお金にならないのか、なぜ優秀であっても、
受ける教育の質は家庭の経済環境に左右されるのか、
答えと対策を捻りだすのは難しい。
家計のやりくりにすら劣る政府の無駄遣いに呆れていようとも、
誰も責任を取りたくないことは分かっているのだ。
過程が大事だというのは、狭い人間関係の中で通じる言葉で、
公の、綱渡りの情勢の中では結果がすべてだ。

健康に生きるための食べものの確保、着るものの確保、
住む場所の確保、突き詰めればそのために教育がある。
家庭科だけじゃなく、物理学も哲学だってそうだ。
知らぬが仏が一番楽な生き方だと思う反面、国に属している限りは
大切なのは国土を守ることなのではないかと思う。
真面目なことはカッコ悪いだろうか。
慎重な人は面白みのない人間だろうか。
自分の頭で考えることの出来る人間は求められていないのだろうとは思う。その方が社会の運営が楽だから。
しかし楽で便利なものは、往々にして雑で危険だ。

長く、これらの問題に取り組んできた山田議員も光に当てて欲しいと願う。


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