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「木」の本質を5冊の本から学ぶ〈後編〉

木材の種類は大きく2つに分けられると思います。ひとつは機械的に製作された合板や集成材といった材料、他方は木の個別の性格を見極めて加工された無垢の材料に分けられます。

人間と木材との距離を考えたときに、その関係が機械的か否かが一つの分岐点のように思われます。つまり、他の人工素材と同様に(木を見ず)機械的加工を施す場合と、その木を(場合によっては潜在的に)いのちとしてとらえて扱う場合とに分けられます。

このページのトップ画像のヒノキが実際に立木だった頃の様子

法隆寺、薬師寺で棟梁をされた西岡常一氏は、次のように述べています。 

山というのは、わたしども人間のふところやと思います。人間で言えば母親のふところやとおもいます。人間というのは知恵があって、すぐれた動物やから、なんでも自分の思うようにしようとするけどね、そんなの自然がなくなったら人間の世界がなくなるんです。そう考えたら、木も人間もみんな自然の分身ですがな。おたがい等しくつきあうていかなあきませんわ。それが、むやみに切ってしもて、もう使えるヒノキは日本にありませんのや。

『木に学べ』西岡常一 - 小学館文庫

人間が自然の分身であることを忘れ、支配的に木を扱うことによって木材が量産化の流れに組込まれ、いのちのないモノとして扱われていることが伺えます。

そういった経済優先の考え方が、法隆寺の現場(施工方法の面)でも見て取れると、次のように語られています。

規格で作った連子格子と飛鳥のものを比べてごらんなさい。 見るものに対して建造物が訴えてくるものがまるで違いまっしゃろ。 飛鳥の建築は、外の形にとらわれずに木そのものの命をどう有効に、活かして使うかということが考えられているんですな。 こうゆう飛鳥の建築のよさを、今の時代にも活かしたらいいとおもうんですが、あきませんな。 より早く、いかにもうけるかという経済のほうが優先されてますからな。それと建造物を見る、考え方が根本的に違ってるんですな。 

『木に学べ』西岡常一 - 小学館文庫

このようなことは極端な例で、今の時代に求められていないと言われそうですが、本質を考えていけば、選択肢のひとつとして木を活かす方法が存続しても良いのではないかと思わされます。

乾燥による割れを防ぐために行う「背割り」作業直後のヒノキ材

最後に、西岡常一氏への取材も行った塩野米松氏の著書『木の教え』の内容で今回の記事をまとめたいと思います。

木は人に似ています。一本一本が異なる個性を持っています。木を扱う人たちはそれを癖と呼んでじょうずに扱ってきました。木の一生は人間社会で生きぬく私たちの姿に似ています。環境がよければ速く太り、大きくなりますが、厳しい条件を生き抜いてきたものにはかなわないところがあります。 

『木の教え』塩野米松 - ちくま文庫

上記のように木と人間が似ていると語り、以下のように警笛も鳴らされています。

現代の技術の根本にはまず「効率」と言う考えがあります。同じものをつくるなら、できるだけ手間のかからない方法を工夫します。それはそのまま利益につながるからです。古代にも効率という考え方はありましたが、それは目的ではありませんでした。木の建物でいえば、目的は木をいかに生かし、いかにして丈夫な建物をつくるかにありました。効率のことばかり考えていると、「最低ここまではしなくてはならない」という基準が設定され、それがいつのまにか目標に変わってしまいがちです。ややもすると、「最低の基準を満たしさえすればいい」「規則を守りさせばさえすればいい」「いわれたことをやりさえすればいい」という乏しい考えになってしまいます。

『木の教え』塩野米松 - ちくま文庫

今回、5冊の本から共通部分として学んだことは、「木と人間どちらも自然のものであり、本当の意味で木を活かす育て方、扱い方、施工・製作方法を用いることで、お互いのいのちがより良い関係と距離で存在しつづけられる」ということだと思います。

経済優先の考え方から生まれた材料をすべて否定するわけではありません。あまりにいのちをもたない人工素材が席巻している現状を考えると、もう少し本来の自然なかたちを少し加えていくことで、より豊かな生活が生み出されていくことを考えたいと思わされます。

安易な懐古主義ではない、新しい技術と本来の自然との共存で、ほど良いバランスを持った豊かな状態をつくり出せる気がしています。

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