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【小説】タイトルが思いつかなかった小説~第三章【完】~

こちらの小説は、恋愛小説を書こうと思って書いた小説です。ぜひ、読んでいただけると嬉しいです。

先に【タイトルが思いつかなかった小説第一章、第二章】をお読みになってからこちらをお読みください。


第三章

 待ち合わせの時間よりだいぶ早く電車に乗った。今日、結花との待ち合わせは6時半に渋谷のハチ公前だった。6時半に二人なら、俺は予約をしなくてもどこかしらの店には入れると思ったが、「待ったりしたら嫌だから」と、結花は事前に店に予約を入れた。結花は物事がスムーズに進まないことをひどく嫌がる。食べたい物や、行きたい店があるから店に予約をするというよりは、待たされることを回避するために予約をするのが結花だった。だから結花が予約する店は、わざわざ渋谷でなくても食べられるチェーン店の店が多い。事前に予約をしてくれるのは大学の頃から変わっていなくて、予約する店も大学の頃と変わっていない。

今日は、6時半にハチ公前に集合し、7時に予約したチェーン店の焼肉屋にハチ公前から結花と一緒に行くことになった。

いつも結花は店を予約した時間の三十分前に、店とは別の場所で集合してから一緒に店に向かう。7時に予約をしたのなら、7時に現地集合で良いのでは、と一度聞いたことがある。冬なら寒いし、夏なら暑いのだから、外で待つより店の中で相手を待っている方がいい。

「一人でお店に入るの嫌だもん」

 結花の返答はこうだった。なら、7時5分前に店の前に集合すればいいのでは、と、もう一度食い下がってみたが、5分前集合だと相手が遅れてきた場合、遅すぎるらしい。それに、店の前で待つより、駅や駅から近い場所で待ち合わせする方が相手の遅刻やドタキャンの時にダメージが少ないと結花は言った。

「とにかく余裕を持ってハチ公前で集合して、それから一緒に予約した店に行く方が結局効率いいんだって」

 効率という言葉を結花が使うのなら、本当に効率だけを求めるなら結花が一人で店に入れるようにするのが一番効率的だった。けれど、効率だけを求めることが、良いわけではない。一見、遠回りに見える非効率なことが、結果的に一番効率が良いことであったりするのと同じだ。

 6時半でも予約の7時より十分余裕を持った集合なのに、その6時半よりもさらに余裕を持って、俺は渋谷に着いた。

渋谷に着くと、何を買うわけでも、何を見るわけでもなく、俺はスタバへ向かった。さっき阿久津とラーメンを食べてから、無性にコーヒーが飲みたくなった。

コーヒーに特にこだわりもないので、ドリップコーヒーのホットを注文する。店内か持ち帰りかを聞かれ、店内と伝えたすぐに、紙コップでの提供をお願いした。店内で飲むにしても、マグカップより紙カップでコーヒーは飲みたい。店内と伝えたすぐに紙コップでの提供を伝えないと、店員にマグカップでの提供を促されてから断るのは面倒だった。

店内で飲み切ってしまう、であろうコーヒーを紙コップで注文するのは、きっとエコじゃない。きっと、サスティナブルでもない。けれど、俺はコーヒーショップで飲むコーヒーはマグカップより紙コップで飲みたかった。エコよりも自分のエゴを優先させる。

コーヒーは会計を済ますとすぐに渡された。

店内を見回し、席を見つける。ノートパソコンを広げる男性客の隣に腰を下ろした。

舌をやけどしないように、慎重にコーヒーを啜る。昨日の阿久津の話が頭を過る。コーヒーは熱くて、飲み込んだ時に少しだけ喉がヒリっとした。昨日の阿久津は珍しく酔っぱらっていた。少しテンションは高かったが、酒臭いだけで普段とあまり変わらなかった。けれど、阿久津があんなに酒臭かったのは初めてだった。紙コップの蓋の小さな飲み口にフーフーと息を吹きかける。紙コップの蓋の飲み口に息を吹きかけると、小さく空いた飲み口は笛のように鈍い音が鳴った。カップの中でコーヒーが波打って揺れる。

「盗ったねりけしは、何の匂いのやつだったの?」

 昨日、阿久津の話を聞いて、気の利いたことが言いたくて、でも気の利いたことなんてやっぱり言えなくて、以前聞いた時に上手く交わせた、満のインスタントラーメンの味を聞いたみたいに俺は阿久津が盗んだねりけしの香りを聞いた。

「え? 気になるとこ、そこ?」

 阿久津は呆れたような、残念がるような言い方で、生徒の回答に残念がってしまった先生が、残念がしまったことを隠すように、最後笑顔を取り繕って笑った。

「マスカット」

 覚えてない、と言われると思った。阿久津自身も、そんなことまで覚えていた自分に驚いたように答えた。

「俺も子どもの頃、匂い付き消しゴムとか集めてた。ねりけしもだけど。コーラの匂いとか、チョコとか」

「それで言ったら私、コーラの匂い付き消しゴム食べたことあるよ。本当にコーラの味がするのか気になったから」

「マジで」

「コーラの味なんてしなかったけどね」

 阿久津は可笑しそうに笑った。暗闇で視線は天井を向いていて、顔は見えなかったけれど、阿久津はきっと笑っていたと思う。

俺は口元を緩ませたまま、天井を見つめ黙った。阿久津もそれ以上、ねりけしの話をしなかった。

『俺が小学生だった時もいたよ。体操着洗ってこない子とか、いつも同じ服の子とか。阿久津が学童で一緒だった真由美ちゃんの家は、きっと裕福ではなかったんだろうね。阿久津の話を聞いてるとさ、俺、なんか切なくなってくるよ。真由美ちゃんって子が可哀想っつうか、心苦しいっていうか』

昨日、俺の代わりに高校の同級生の高山が阿久津の隣にいたら、阿久津が話した真由美ちゃんとのエピソードに高山はこんなことを言ってあげるのだろうか。高山は、自分では言いにくいからこそ誰かに言ってもらいたい言葉を与えられる奴だ。

『その頃は、阿久津は真由美ちゃんに強く言い返せなくて嫌な思いもいっぱいしただろうけど、多分阿久津の方が真由美ちゃんより恵まれた環境にはいたと思うな。誰が見たって、真由美ちゃんより阿久津の方が幸せな子ども時代だったと思うし』

高山だったら、これくらいストレートな言葉で相手を擁護してあげるのかもしれない。だから、あいつは女の子から好かれるんだろうな、と勝手に高山が言いそうな台詞を考えて、勝手に高山に嫉妬する。

人や物事に対して、同情という感情を向けることで保たれる精神がある。あの人は可哀想な人なのだから、私より満たされていないのだから、と思うことで自分が今幸せであることを認識する。それは、どこか遠い知らない国で起こっている、知らない誰かの貧しさや過酷さに同情し、憂鬱な月曜日を迎える自分をも、自分はあの人たちよりは恵まれているのだと思い、自分の幸せを図ることと似ている。国や規模は違えど、多かれ少なかれ無意識のうちに小さな優劣を付けながら俺たちは生きているのかもしれない。

時に、誰かに圧倒的な優劣を付けてもらいたい時が誰しもある。その圧倒的な優劣が誰かの慰めや励ましの言葉に変わることを俺は知っている。なのに、いざ優劣を付けてあげる側になった時、俺は頭でその優劣の言葉を並べるだけで声に乗せて伝えられなかった。話の本質から少しずらして、俺は逃げた。満の話の時は、インスタントラーメンの味を聞いてうまくいったのに。

「気になるとこ、そこ?」

過去の自分を肯定してもらいたかったのか、真由美ちゃんとの圧倒的な優劣を付けてほしかったのかはわからない。けれど、俺が阿久津に返した言葉が、明らかに阿久津が期待していたような回答ではなかったことは確かだった。なのに、その残念がってしまった自分をすぐに阿久津は隠し、笑ってみせた。

高山のクオリティの低い古畑任三郎のものまねを思い出す。高山は一度うまくいったからといって、何度も似ていないものまねを繰り返さなかった。高山だったら、俺みたいにまたねりけしの香りなんて聞かなかっただろう。だから、やっぱりあいつは女の子に好かれるんだな、と着地しそうな結論を【でも】と、一度打ち返してみる。女の子から好かれる高山の返答が、必ずしも阿久津にとっても正解であるとは限らない。むしろ、阿久津にとって正解であってほしくなかった。

持ち上げたカップのコーヒーは残り少ない。スリーブ越しにも、もう熱は伝わってこなかった。ぬるくなったコーヒーを啜る。熱さを失ったコーヒーは苦みが増す気がする。コーヒーの横に置いたスマホの画面に通知が光った。

【一本早い電車に乗れたから6時20分には着くかも】

結花からのLINEだった。余裕を持った集合時間に余裕を持って集合する。

【俺も渋谷着いた】

紙コップに付いているプラスチックの蓋を取り、最後の一口は紙コップに直接口を付け、コーヒーは飲み干した。



 焼肉屋に白いシャツを着てくる男性とは付き合えないと、忙しなく肉をひっくり返しながら結花は言った。さっきからずっと煙が結花の方へ向く。

「正確に言えば、白シャツを着て来てもいいんだけど、跳ねた油とかタレのシミを気にする男が嫌だ」

 結花は右手でトングを握ったまま左手でビールを飲む。

「あと、話の流れでなんとなく話した話に『なんで急にそんなこと、話したの?』とか聞いてくる奴も嫌だ」

 焼けたよ、と結花はトングで焼けた肉を網の上で俺の方に移動させた。焼けた肉なので、俺は直箸で肉を掴んでタレが入った皿に入れる。

「大体そういう奴ってさ、映画とか観ても、自分が理解できない作品だと、この作品は何が言いたいのか分からないとかで片付けるよね。1+1=2みたいに、安直でわかりやすい話じゃないと、『何が言いたいか分からない』で済ませてくるでしょ。自分がバカなだけなのに」

 網の上からタレを経由したカルビは、思ったよりも熱かった。口の中を火傷しないように噛みながら、俺は結花の話に頷く。トングを置いて、結花も焼けた肉を箸で取る。結花が食べ始めると少しだけ静かになって、炭火が燃えるパチパチの音がやけに目立った。ずっと喋っている相手が何かを食べ始めた途端に静かになると、こういう時に口は一つしかないのだと改めて思い知らされる。

「あとさ、トラウマって言葉、みんな簡単に使いすぎじゃない? ちょっと過去の嫌だったエピソードとか話すと、『それ、トラウマだよ』って決めつけてくる奴いるけど、トラウマじゃねーよ。なんでもかんでもトラウマって言葉で片付けんなって思う」

 結花は肉を食いながら、ずっと怒っている。さっきから結花が話す人物は、きっと具体的な誰かがいるのだろう。

「トラウマの語源って、虎と馬から成ってるのかな」

 俺は、ふと疑問を口にする。カルビが残る口の中に、白米をかき込む。お椀の白米にタレが付く。

「……トラウマは、そもそも日本語じゃないでしょ」

 結花は俺の疑問に面倒くさそうに答えて、またトングを握った。焦げ目があまり付いていない箇所で肉を焼こうとしたが、3皿分焼いた網には焦げ目が付いていない箇所が無かった。

「すいませーん」

店員に網を変えてもらい、網が温まる前に結花は肉を置く。

「大体さ、そもそもトラウマがあったとしても【お前】になんか話さないっつうの」

 結花のトラウマの話は続く。網交換で一度、その話は終わったのかと思ったが、結花は、抽象的な話に見せかけて、さっきから具体的な『お前』に向けて怒っている。

「自身のトラウマ的なことを打ち明けている時って、打ち明けている側はそのトラウマを清算したくて話してると思うんだよね。誰かに話すことで整理されていくことってあるから」

「確かに、話しながら整理していく、みたいなね」と、俺は相槌を打つ。

「でも逆に、こっちは何とも思ってない過去の話をしてるだけなのに、『それはトラウマだ』とか決めつけてくる奴いるでしょ」

 結花は肉をひっくり返し、トングを俺の方に突いて同調を求める。肉はひっくり返すのが早すぎて、ほとんどピンク色のままだった。

「でも、結花だって誰かに本当にトラウマ的なことを打ち明けている場合もあるんだろ。その時は、打ち明けられた側はなんて言えば正解なの?」

 結花はまた肉をひっくり返す。さっき、店員に部位の説明をされたが、どれがどれだか分からず結花は焼く。

「そんなん、いちいちトラウマなんて言葉使わなくていいんだよ」

 結花はつまらなそうに肉を突き、網の上でカチカチと二回トングを鳴らした。

「たとえ本当に誰かに自身のトラウマの話をされても、『それはトラウマですね』なんていちいち言わなくていいんだよ。そんなの、野暮だね」

 肉はピンク色から茶色の物体へと変わる。焼けた肉のどれがどこの部位なのか分からないまま、結花はまた俺の方に肉を寄せた。軽く会釈して、俺は箸で肉を取る。

 きっと、結花は、焼肉屋に白いシャツを着てきた奴にシャツに油が跳ねたシミを気にされ、結花が何気なく話した過去の思い出話を「トラウマ」だと野暮に決めつけられたのだろう。

「大介はさ、もし女の子にその子のトラウマの話されても、それはトラウマだ、なんて決めつけて言わないでしょ?」

「言わない」と答える以外、正解がない問いだった。

「……言わないね」

「でしょ? 言わないでしょ、普通」

 俺は少なくなったタレの皿に、タレを足す。肉の油で濁った古いタレが、新しいサラサラのタレと同化していった。俺がタレを足したので、結花も自分の皿にタレを足した。同じくらい食べているのだから、同じくらいタレも減る。

「大人になるとさ、誰彼構わず、何でもかんでも自分の話ってしなくなると思うんだよね。私なら、多分この人ならわかってくれそうだなとか、この人は話しても大丈夫だな、って無意識のうちに考えながら、相手を選びながら、話す話題を変えていると思う」

 結花は残りの肉を網の上に置いた。視線を下げて、肉を焼く。一枚、一枚、その肉の様子を伺いながら肉を育てるように丁寧に焼く。

「トラウマ的なことを誰かに話すことで、そのトラウマを克服したいのかもしれないし、清算したいのかもしれない。もしかしたら、それはトラウマではないのかもしれない。だから、逆の立場でも、誰かが話す何かに、聞き手側が分かりやすさを求めすぎるのは良くない」

 結花の視線はずっと育てている肉にあった。先に焼いてもらった俺の肉は、ほとんど火が当たらない網の端っこにいる。俺は火が当たらないその場所を勝手に「保温スペース」と呼ぶ。

「逆に何て言う? 大介がもし、誰か女の子にその子のトラウマを話されたら」

駅の改札の下で俺を待つ阿久津の姿がふと頭に浮かんだ。考える間を作るように、口に残った肉の油をビールで流す。肉が焼き終わったのか、結花は「保温スペース」に育てた自分の肉を移動させた。

「トラウマかどうか分からないけど、小学生の頃、万引きをしたことがあるって話をされたことがあって、俺」

 布団に入ってきた冷たい阿久津のかかとの感触を思い出す。

「万引きしたねりけしの匂いは何の香りだったの? って、俺は聞いた」

 結花はトングから箸に持ち替え、一瞬顔を上げ俺の顔を見た。すぐに、視線はタレが付いた肉に戻る。

「その心は」

 なんでそんなこと聞いたの、と言いたいところを結花は言葉を変える。

「その心は……」

「大介が気になるとこって、そこなの?」

 俺の【その心】に何もないと見切りを付けたのか、結花は遮った。

「その変化球が通用するのは一回かもね」結花は肉を頬張る。頬張りながら、でも、と結花は続ける。

「でも、それをトラウマだと決めつけなかったのは良いと思う」

 結花は肉が残る口に追いキムチをする。白米ではなく、キムチ。

 ビールが残り少なくなった結花のジョッキを俺が指差すと、口を押さえ、結花は咀嚼しながら「ビールで」と頷いた。


 焼肉屋を出ると、12月の冷たい風が吹いた。煙くさいダウンが冬の風で洗われていくようだった。歩きながら、さっき焼肉屋でもらったミントのガムを食べる。スース―して、口の中もミントで洗われていくようだった。ガムの包み紙を握ったままダウンのポケットに手を入れる。

「大介、最近いい人いないの?」

 夜の渋谷の街を歩きながら、結花は聞いた。結花が言う、いい人は、高山が言う「良い子」とは違う。

「いい人……」

いる、いない、ではなく俺は「いい人」と繰り返す。

「俺からはあんま誘わないけど」

「会いたくならないの?」

「向こうにも予定とかあるから」

「そんなん気にせずいきなよ。今日、これから会えばいいじゃん」

「今日は町田に行ってるから無理だよ」

「連絡してみればいいじゃん」 なぜか俺の代わりに結花がスマホを取り出す。

人が多い渋谷は、だらだら歩いていると、俺と結花の間を人がするするとすり抜ける。手を繋いでいない男女の距離感は人一人分以上の間が空く。人がすり抜けていく俺と自分との距離感を認識するように、結花は声が届く距離まで俺に近づいて、口を開く。

「なんで男女ってさ、ただ隣同士で歩いてるだけなのに【男女の関係】だと思われるんだろう」

 結花はスマホをしまう。

「この前、男の子の友達と二人で占いに行ったら、占い師の人にカップルだと思われて、友達ですって説明してるのに相性とか診られて気持ち悪かった」

 結花は噛んでいるガムで小さな風船を作る。チューインガムではないから、風船は全然膨らまない。俺のガムも、味はもう残っていなかった。

「またみんなでも集まりたいね」

 駅までの道のりで、大学で同じクラスだった他のメンバーの簡単な近況報告を済ませると、結花は帰り際の決まり文句を言って、駅の前で俺と別れた。



 阿久津の家に行くのは初めてで、俺の家の近所に住んでいるのは知っていたけれど、思っていた以上に一人暮らしの阿久津の家は本当に俺のアパートの近くだった。

 今日、結花が7時に予約した焼肉屋に6時半頃到着すると、予約した7時を待たずにすぐに席に通された。焼肉屋では、会話のほとんどを結花が喋り、注文した全ての肉を結花が焼いてくれた。喋り、焼き、飲み、食べて、焼肉屋で結花はずっと忙しそうだった。

焼肉屋を出ると時刻はまだ8時前で、スマホをチラチラ気にする結花から、他の誰かとこれから二軒目に行く雰囲気が感じられた。一軒目は友達の俺で、二軒目は【いい人】の誰かと。結花は、友達といい人の区別をきちんと分けている。

結花と駅の前で別れると、俺は渋谷から町田の電車の時間を調べた。いきなり町田に行ってしまうのも無計画で気持ち悪いので、ひとまず【いま町田にいる?】と阿久津にLINEを送った。

【いない。家】と阿久津からすぐに返信がきた。

 なぜ今、阿久津は町田にいないのか、それとももう町田から家に帰ってきたのか、俺は聞こうかと思ったが、聞いたところで理由はなんでももよかったので【家行ってもいい? それともうち来る?】と送った。

【うちでいいよ。汚いけど】阿久津も必要以上に俺に何も聞いてこなかった。今日の俺の用事はもう終わったのか、俺が阿久津を誘ったことに「なんで」とも聞かず、阿久津にとっても理由はなんでもいいのかもしれない。

「今日、町田の子が来れなくなっちゃって、結局行かなかった」

 阿久津の家に上がると、何も聞いていないのに、阿久津は家にいる理由を教えてくれた。

 俺は手土産にコンビニで買ったビールやお菓子を袋から取り出し、テーブルに置いた。空のビニール袋を軽く折りたたんでローテーブルの下に置いて、ご飯は食べたのかと俺が聞くと「これから」と阿久津は答えた。

 阿久津が冷凍食品のたらこスパゲティを温めるためキッチンに向かうと、気持ち悪く思われないように阿久津の部屋の本棚を眺めた。

 教育学の本が並び、最近映画化されたアニメの漫画や、俺も何冊か読んだことのある文庫本が本棚を占めていた。

「芸能人の誰か忘れたけど、自分の本棚を見られるのって自分のケツの穴を見られるくらい恥ずかしいって、なんかのテレビ番組で言ってた」

 フォークだけ持って阿久津は部屋に戻り、ローテーブルにフォークを置いた。

「恥ずかしくない?」特に恥ずかしくもなさそうに阿久津は聞く。

 ほのかに、たらこの匂いが漂う。電子レンジにオレンジ色の明かりが点いている。

 ピーとレンジが鳴って、阿久津はレンジに呼ばれて行ってしまった。温まったたらこスパゲティを皿に移し、付属の刻み海苔をかけて、阿久津は戻ってきた。スパゲティを皿に移した時、麺を混ぜるために箸を使ったのか、阿久津は箸を持ったままだった。結局、先に持ってきたフォークは使わずに、阿久津は箸でスパゲティを啜る。

「二日酔い、治った?」

 阿久津はスパゲティを啜りながら、上目使いで箸を持っていない方の手で親指を立てて、俺の質問に【YES】と答えた。口の周りのたらこをティッシュでふき取りながら、阿久津はビールに手を伸ばす。

「大介は何食べたの?」

「焼肉」

「どこで?」

「渋谷」

 渋谷と答えてから、もう少し町田に近い場所を答えればよかったと思った。代々木上原か下北沢くらいなら、町田にいるかもしれなかった阿久津に連絡しても気持ち悪くない。

「フォーク忘れてた」

 皿の陰にあるフォークを見つけ、阿久津は微笑んだ。皿のスパゲティはもうほとんど残っていなかった。

俺は二本目のビールを開ける。

「冷やしておこうか」

 テーブルの上の酒を見て、俺が買ってきた飲み物を阿久津は両手に持てるだけ持ってキッチンの冷蔵庫に運ぶ。俺も立ち上がって、スプライトとビールを持って阿久津に続く。

「二日酔いにはスプライトが効くらしいよ」

 阿久津の背後から俺は冷蔵庫にスプライトを入れた。スプライトを入れるために伸ばした腕は、阿久津を後ろからハグするかのようだった。

飲み物を入れ終わり、冷蔵庫の扉がパタンと閉まる。阿久津がこちらに振り返る。俺は阿久津の後ろから動かない。

「どうした」

不思議そうな顔で阿久津が聞く。俺が阿久津の顔に近づくと、冷蔵庫に阿久津の背中が付いた。俺は自分の舌を阿久津の口に入れる。

何かを確かめ合うように俺たちはキスをした。舐め合いながらキスをする。相手の口に自分の舌を入れ、自分の口に相手の舌を受け入れる。大きく口を開けながらキスをする。言いたいことを言い合っているようだった。しばらくキッチンの冷蔵庫の前でキスを繰り返した。阿久津とのキスは、さっき阿久津が食べていた、スパゲティのたらこ味というよりも「晩ご飯」のような匂いがした。これと言って料理名が当てられるほどはっきりとした匂いではなく、大まかに「晩ご飯」のような匂いは、学校の給食の時間に似ている。

ベッドまでは少し距離があって、キッチンのここで始めてしまうほど二人とも酔っていなければ、衝動的な情熱はなく、冷静だった。長いことキスを繰り返して、言いたいことを言い終わって、互いのキスから終わりの雰囲気を感じ取り、俺は阿久津の唇から離れた。阿久津は、この場を締めるように照れ笑いをして、冷蔵庫から背もたれを外した。

「トイレ」

 阿久津に手を引かれ、俺は部屋に戻り、阿久津はトイレに行った。俺はさっき座っていた場所にまた戻る。床に座ると硬くなったペニスの位置が悪かった。ごまかすように二本目のビールの続きを飲む。ビールはぬるくなっていて、コーヒーと同じくぬるくなったビールは苦みが増す気がした。

「スプライトもらうね」

 冷蔵庫からスプライトを取って、阿久津はトイレから部屋に戻り、ベッドを背もたれにするように寄りかかって座る。

「さっきピール飲んだけど、やっぱり迎え酒だった」

 阿久津がスプライトを開けると破裂するような音が鳴った。阿久津の顎が上がる。スプライトを飲む阿久津の横顔を見つめる俺の視線に気づいて、ペットボトルに口を付けたまま阿久津は口角を上げた。

「飲んでるとこ、そんな見ないでよ」蓋のキャップを閉めながら阿久津が笑う。

「阿久津、来て」

 阿久津と一瞬、目が合う。阿久津はすぐに手元にあるスプライトを自分の左横に置く。

「大介が来て」

 阿久津がこちらを向く。自分の右横をポンと手を床に置く。

阿久津が手を置いた場所に俺は腰を下ろした。阿久津の肩に俺の腕が当たる。阿久津を覗き込むように俺は阿久津にキスをした。さっき冷蔵庫の前で長いキスを交わしたのに、改めてキスをし直すと今日初めてキスをするみたいな淡い緊張が走った。

阿久津の舌と俺の舌が何かの生き物のようになって動く。強く阿久津の舌を吸うと、俺の体重に支えられなくなった阿久津が床に手を付いて、阿久津の左横に置いたスプライトが倒れた。緑色のボトルの中で炭酸が揺れる。小さな気泡が生まれた。

阿久津が着ている部屋着のトレーナーを正面からめくり上げて、ブラジャーの上から胸を揉む。阿久津が俺のシャツに手をかけて、俺のシャツを脱がそうとするが、俺はそれを無視して阿久津の首筋に唇を這わせた。阿久津は降参するように俺のシャツから手を離し、俺のリードに身をまかせた。

腕を引いて、阿久津をベッドの上で四つん這いにさせ、阿久津の下着とズボンを後ろから脱がした。俺も自分の下着とズボンを脱いで、俺はベッドの横に立ったまま阿久津の陰部にペニスを当てる。焦りからなのかペニスがなかなか阿久津の中に入らない。滑る俺のペニスは阿久津の太ももやお尻にばかり当たる。阿久津は、猫が伸びをする時のポーズで俺の挿入を待った。

阿久津の腰を掴んで、俺は動く。後ろから突かれている阿久津の顔は見えない。ろくに前戯もしないセックスをする。愛し合うというよりも、支配下に置きたい。支配下に置いているようなセックスをすることで阿久津を独占しているような錯覚ができる。

阿久津を独占したい気持ちは、裏を返せば阿久津に優しくしたいことと同じだった。なのに、独占の意味を履き違えて、俺は阿久津を支配下に置くようなセックスをする。セックスはわかりやすいから好きだ。言葉が要らないから、余計なことを考えなくて済む。相手の表情や声の湿度、体の反応だけで相手のことがわかる気になるから。どうやったら阿久津を独占できるのか、俺にはわからなかった。本当の独占は支配下ではなく、優しさの中にあるはずなのに。わかっているのに優しくできなかった。誰かを独占したいなんて思うこと自体、そもそも間違っているのかもしれない。

 阿久津は、いつもと違うセックスをする俺に気付いている。気付いてはいるけれど、阿久津は何も聞かないだろう。聞いたって、心情の変化や対応の変化の理由を人はそんなに簡単に教えてはくれないことをわかっているのかのように。人の話にトラウマだと、決めつけるのは野暮だと結花は言った。俺とのセックスの後に、今日のセックスの具合を聞くことが野暮だってことくらい、阿久津はきっとわかっている。



 自分の親と友達の親がなんか違うな、って思い始めたのは、小学4年生の頃だった。

 うちの両親はね、休みの日でも平日と同じ時間に起きて、朝起きたらすぐにパジャマから洋服に着替えて、顔を洗って、朝ごはんを食べるような親だった。私が朝起きてきて、朝ごはんが済んでもパジャマのまま着替えずにいると、「麻衣、顔洗ってきなさい」「パジャマから着替えなさい」って、特にお父さんからよく怒られた。

学校が休みの日に明日香の家に遊びに行くとね、明日香のお父さんもお母さんも家にいて、昼過ぎの午後になっても寝間着まま過ごしてたの。起きてから顔も洗わず、寝間着のまま朝ごはんも食べずに、テレビのある部屋で座椅子に座ってタバコを吸ってた。同じ大人なのに、なんで明日香の親は寝間着のままで良いんだろうって、不思議だった。

 明日香のお父さんはね、背が高くて、少し猫背で、いつも明日香の家に遊びに行くとタバコを吸いながらテレビを観てた。それで、いつ見ても黒の上下スウェット姿だった。今はあるのか分からないんだけど、私が小学生の頃、明日香んちの団地の敷地の中に2リットルのコーラと500ミリのコーラだけが売られている自動販売機があったの。私、その自販機の前を通る度に、こんな自販機で誰が買うんだろうって思ってた。ある日ね、私がたまたま明日香んちの団地の前を自転車で通った時に、明日香のお父さんが2リットルのコーラの自販機でコーラを買ってるところを見かけたの。別に全然大したことじゃないのに、私、なぜか明日香のお父さんがコーラを買う一部始終を見てた。スウェットのポケットから小銭を出して、お金を入れて、2リットルのコーラが左から2本並んでいて、右から500mlのコーラが4本並んでる自販機で、2リットルのコーラのボタンを押して、ガシャンってコーラが出てきた。その2リットルのコーラのキャップの部分を掴んで、少し気だるそうにすり足で明日香のお父さんは帰って行った。お父さんの姿が見えなくなるまで、私、ずっと見てたんだ。

 中三の終わり、高校受験が終わって、やっと遊べるってなった頃、明日香んちに行ったら両親が離婚したって聞かされた。中学に入った時から、家庭内別居だったことは聞いてたんだけど、離婚したことをその時に明日香から初めて聞いた。「いつ離婚したの?」って聞いたら、「夏休み中」って言われて、「はぁ?」って、私思った。夏休み中なら、夏休みに明日香んちの団地のお祭りで会った時になんで教えてくれなかったんだろう、って思った。夏休みじゃなくても、いくらでも話すタイミングはあったのに。小学生の頃から友達だと思ってたのに、なんで何も言ってくれなかったんだろうって思った。確かに、明日香の両親が離婚したって聞かされても私には何もできないし、何もできないんだけど。お父さんだけが出て行って、明日香たちはこのまま団地に残ることになったって言われて、「よかった」って、私は言った。

 高校生の時ね、明日香の家に泊まりに行ったの。泊まりって言っても、女子会みたいなお泊りじゃなくて、明日香の高校の男友達2人と明日香と私の4人で地元の花火大会に行って、その帰りみんなでカラオケに行って、夜中、明日香の団地の近くの公園で、みんなで缶チューハイを飲んだの。私の親には明日香んちに泊ってるって嘘をついて。朝、5時頃になって、男友達と別れて明日香の家に帰った。お腹が空いて、明日香の家にあるカップ麺とか食べてたら、同世代くらいの女の人が赤ちゃんを抱いてテレビのある部屋に入ってきたの。明日香のお兄ちゃんの奥さんと子どもだった。私、明日香のお兄ちゃんの奥さんに会うの、初めてだったからお兄ちゃんの奥さんと色々話した。奥さんは明日香のお兄ちゃんと同じ19歳で、赤ちゃんは6か月だった。赤ちゃんがいるのに、朝からうるさくしてすいません、って謝ると、「慣れてるから大丈夫」って言われた。しばらくすると明日香のお母さんが起きてきて、赤ちゃんがいるテーブルの近くで、30センチくらい積み上がった雑誌の上に座ってタバコに火をつけた。龍が登るみたいに、白い煙が部屋に広がった。多分、私、無意識に赤ちゃんのことを見ちゃったと思う。

 明日香の姪っ子の赤ちゃん、ほっぺたがぷくぷくしてて、すごくかわいかった。「抱っこしてみる?」って明日香に聞かれて、一瞬考えて、「手、洗ってなくて汚いから」って私は断った。赤ちゃんに触る時は手を洗ってからじゃないと触っちゃダメって、小さい頃お母さんから教わったから、私。だけど、私以外のみんなは不思議そうな顔をしてた。

赤ちゃんを見ると、赤ちゃんのよだれが床のカーペットに落ちて、赤ちゃんは近くにあるおもちゃを舐めてた。赤ちゃんのすぐ後ろに猫砂があって、床に猫砂が散らばってて、私、猫飼ったことないからわからないんだけど、猫砂って食べても大丈夫なやつとかあるのかな? 明日香んち、猫飼い始めたんだって思った。

なんか、明日香の家にいると私がおかしいのか、私が気にしすぎなのか、少し居心地が悪くなった。

高2になって、明日香と明日香の高校の男友達と花火大会に行って、明日香と遊び方とか話す内容とかが違うなって思い始めた時期で、私の高校の友達の趣味とか興味あることの方がおもしろいっていうか、地元だけが【世界】じゃないっていうか、【世界】って結構広いのかもしれないって思い始めた頃で、明日香を取り巻いている環境や感覚が嫌だなって思うようになった。それから、次第に明日香と会わなくなっていって、塚田真由美ちゃんも明日香と同じ高校だったから、明日香と真由美ちゃんが仲良くなったって、結構あとになって風の噂で聞いた。明日香とは、それきりで……


「ちょっと、トイレ」

そう言って、阿久津はベッドから降りた。部屋を出てすぐ右にトイレがある。トイレのドアが閉まると、夜中は阿久津が用を足す音が目立った。

 阿久津の家のベッドは俺の家のベッドよりもやや大きい。阿久津のベッドも枕の位置が俺の家のベッドと同じだったので、いつも俺の家で寝ている時のように壁側に俺は寝ることになった。

トイレの明かりがドアの隙間から漏れる。阿久津がトイレから出てくると光の量が一瞬増えて、電気を消すと辺りはまた真っ暗になった。人影がベッドに近づく。阿久津だとわかっているけれど、見えない人の気配は不気味にさせる。阿久津の家のカーテンは遮光カーテンで、目が慣れてもほとんど見えない。

「バイト先のスナックにね、30代で、35とか6くらいのシングルマザーで、たしか中一か中二の子どもがいる女の人がいるのね」

 阿久津はベッドに戻り、上半身を起こし布団を直す。枕に頭を付けて話を続ける。

「時田さんって言う人なんだけど、時田さん、仕事3つ掛け持ちしてて、ステーキ屋さんとカフェと、スナック。だから、カフェで週3日、朝の8時から夕方5時まで働いて、その後一回家帰って子どものご飯とか作ってから6時半にスナックに出勤する、みたいな生活送ってる人で。その人のキャラ、おもしろくてさ、基本的に従業員とかに年齢関係なくタメ口で、お店のお客さんにも普通にタメ口なの。いつもお店で気だるそうにタバコ吸ってて、会うと「麻衣ちゃん、おつかれぇ」って言うの」

 語尾を伸ばし、少し鼻にかけたような声で、阿久津はそのシングルマザーの時田さんの喋り方を真似た。

「ある日ね、時田さんと一緒にお店のオープン作業してた時に、時田さんの高校の友達の子どもの話になって、時田さんの高校の友達に18で子ども産んだ人がいて、その友達は超ギャルでバカだったのに、時田さんのギャルの友達の子どもは卒業式に、「こういうのあんじゃん」って言って」

 そう言って、阿久津は本を開くようなジェスチャーをした。

「時田さんが、「こういうのあんじゃん」って、こうやって本を開くような動作をしたから、私が「答辞ですか」って聞いたら、「そうそう」って言われて。ギャルの友達の子どもは、学年で一番優秀だったらしくて、卒業式に答辞を読むような生徒だったんだって。だから、親と子どもは関係ないもんだねって、時田さんが言ってて」

 俺は頭の下に入れた左腕を抜く。阿久津の家には枕が一つしかなかった。枕を阿久津に譲り、俺は自分の左腕を枕代わりにしたが、枕の上ではない、枕代わりにした左腕は痺れるのがいつもより早かった。

「したらね、今度は時田さんの子どもの話になって、時田さんが「あたし、子どもの褒め方わからないんだよねぇ」って言ったの。時田さん、自分の子どもが成績表とか持って帰って来ても、どう褒めたらいいかわからないんだって」

 腕は抜いたが、枕がなくて真っ平なベッドの上では頭心地が悪くて、痺れて抜いた左腕の代わりに俺は右腕を頭の下に入れた。布団から右腕を出した時、阿久津の左肩に俺の右腕が当たった。俺の右肘が阿久津の頭に当たらないように体をずらす。

「だから、「時田さんのこと、私はすごいと思いますよ」って、言ったの。褒め方がわからないって言ってる時田さんに、「褒めることなんて簡単じゃないですか。お子さんにすごいねって言ってあげればいいじゃないですか」って言うのは違うと思ったから。褒め方がわからないって言う人は、きっと褒められたことがないからわからないんじゃないのかな、って思ったの。だから私、時田さんはすごいと思いますよ、3つも仕事掛け持ちしてお子さん育ててるじゃないですかって、時田さんのことを褒めたんだよね。そしたら、「麻衣ちゃん、褒めるの上手じゃーん」って言って、時田さんトイレ掃除に行っちゃって……」

 語尾を伸ばし、鼻にかけて、再び阿久津は時田さんの話し方を真似た。阿久津は人の真似が上手で、俺は会ったことがないのに、気だるそうにタメ口で話す時田さんのことを想像できた。

「……明日香、元気かな。全然会ってないからさ」

 阿久津がつぶやいた。阿久津がトイレに行く前まで、自分が明日香の話をしていたことを思い出したのか、急に話が戻る。いつも阿久津の話は起承転結がなく、文脈の流れに沿っていない。けれど、国語のテストではないのだから、誰かが喋る話にそもそも起承転結や流れに沿ってなければならないなんてルールは無い。

「……明日香も、親から褒められたことないって言ってたな」

さっきまで流暢に話していたのに、急に独り言のような声を出す。阿久津の方に顔を向けると、腕の上の髪の毛が擦れる音がした。

「……明日香、しょっちゅう吐いてたし」

 暗闇で阿久津の声がする。声のする方を俺は見る。

「……無理なダイエットのせいで」

 顔を向けたが、阿久津の顔は見えない。阿久津の部屋は真っ暗だった。いつもこんなに暗くして寝ているのだから、俺の部屋で寝る時は阿久津にしたら明るすぎるかもしれない。

「……コンビニのね、パンとかお弁当とか食べて、食べてから吐くんだって」

 阿久津はポツポツ話し出す。阿久津のポツポツは、雨がポツポツ降るのに似ていて、雨が降っているのか、いないのかがわかるまで間があるように、阿久津の話は続きがあるのかないのか、わかるまでに間があった。

「……でも、……今はもう吐かなくなったんだって」

 よかったよね、と阿久津は求めた。

「……よかったね」と、俺は応える。

「誰かと一緒にご飯を食べてれば、平気なんだって。吐くのを抑えられる。一人だと、吐こうとする自分が怖い」

 俺は、阿久津の声を聞く。雨は降っているとわかれば傘をさすみたいに、阿久津の声は続いているのだとわかれば俺は聞く。

「でも、今はもう、大丈夫。ちゃんと、普通に食べてるから」

 阿久津の声は最後笑っていた。笑顔は顔だけじゃない。声にだって表情がある。

「よかったね」

 阿久津につられて俺も口元を緩ませて笑った。俺は右腕を抜いた。痺れた訳ではないけれど、今は右腕が邪魔だった。

「いてっ」

 腕を抜いた時、阿久津の頭に俺の右肘が当たった。

「ごめん」

「いいよ」

 真っ暗で阿久津の顔は見えなくて、けれど、阿久津も俺も笑っていた。

「阿久津、明日、ベーグル食べに行かない?」

「明日?」

「明日」

「なんでベーグル?」

「前に、大人なイメージの物って阿久津が言ってたから」

 阿久津は、そんなことを話したことを思い出して「あぁ」と声を高くした。

「いいね、ベーグル。明日、食べよう」

 ベーグルを明日食べに行く約束をして、俺たちは寝ることにした。おやすみと互いに言った後、阿久津が枕をスライドさせた。

「やっぱ、枕半分こしよ」

 ベッドの真ん中に枕を置いて、頭を寄せ合いながらもう一度「おやすみ」と俺たちは言い合った。



 天を仰いで大きく口を開け、阿久津は最後の一口を頬張った。

「結局、ベーグル食べなかったね」

阿久津は口元を手で押さえて、ハムスターのように頬を膨らませている。手に付いたフランスパンのパンくずを、お皿の上でパラパラと払った。

「ごめんね。でも、フランスパンも固いからさ」

 喋れるくらいまで飲み込むと、阿久津は口元を手で隠しながら言った。ベーグルよりもフランスパンのサンドイッチに目移りしてしまったことを、阿久津は悪びれない顔で詫びた。

 昨日、寝る前に阿久津と約束したベーグルを食べに、ベーグルが食べられそうなおしゃれなカフェを探した。最寄りの駅から三駅乗って、一回乗り継いで二駅電車に乗ると、そのカフェはあった。駅から少し歩いて住宅地の中へ入っていき、こんなところに本当にお店などあるのかと不安になったところに、そのカフェはあった。一階がカフェで、二階が自宅になっているような作りの建物で、外観もおしゃれな佇まいだった。

 阿久津と過ごす休日はいつも起きるのが昼過ぎで、前夜寝るのが遅いから仕方ないのだけど、もっと有意義に休日を過ごしたいと思っていた。今日は10時に起きて、身支度をする阿久津の側で、俺は【ベーグル カフェ】で検索をした。俺の検索よりも、阿久津の準備の方が済むのが早かった。

「フランスパンのサンドイッチ美味しそう。大介、ここ、ベーグルもあるよ」

途中で阿久津も調べ始め、阿久津がこのカフェを見つけた。店を決め、11時頃に家を出た。

ベーグルを食べに来たのに、メニューを見ると、阿久津は家にいる時から言っていたアボカドとエビのフランスパンのサンドイッチを選んだ。

 阿久津が頼んだ、エビとアボカドのサンドイッチは、アボカドがペースト状になっていてエビとの相性も良くて美味しかった。阿久津から一口もらって食べる時、歯茎にフランスパンの固い部分が当たった。

俺は予定通り、ベーグルのサンドイッチを食べた。サンドイッチの中身はハムとチーズで、チーズが普通のチーズと違ってまろやかで、ベーグルとよく合っていてこちらのサンドイッチも美味しかった。俺が注文したベーグルは、俺が想像していたよりもずっと硬くなかった。嚙み切れないくらい硬いと思っていたベーグルは、弾力はあるが、もちもちとした触感だった。アイスのガリガリ君が年々柔らかくなっているように、巷のベーグルも年々柔らかくなってきているのかもしれない。

 食事を終え、ランチセットのアイスコーヒーが運ばれ、ストローを刺す。グラスの氷をくるくるとストローで回した。

「最初、足りるかなって思ったけど、結構お腹いっぱいになったね」

 満足げに感想を言って、曲がらないストローで阿久津はアイスコーヒーを飲んだ。言われてみれば阿久津の言う通り、はじめサンドイッチでは腹一杯にはならなそうだと思ったが、ベーグルもフランスパンも食パンに比べれば固いので、咀嚼の回数が多いせいか、それなりに食べた気にはなった。けれど、よくよく思い返してみると、サンドイッチの付け合わせのフライドポテトの量が割りと多くて、そちらで腹一杯になったのかもしれない。

店内は混んでいた。住宅地にあっても、俺たちのように調べてやって来る人がいるのだろう。阿久津の後ろのテーブルにいる4人組の女性たちは、みな喋ることに夢中だった。阿久津は、伏し目がちにアイスコーヒーを飲む。アイスコーヒーを飲む阿久津を見ると、俺もアイスコーヒーに手が伸びる。よく聞く、ミラー効果を実感する。

アイスコーヒーの輪っかの水滴が薄っすらテーブルに浮かぶ。俺はその、水滴の輪っかを指で拭う。

「俺の高校の友達にさ、同じサッカー部だった奴がいるんだ。そいつ、嘘が上手い奴で、前にね、そいつに、なんでお前の嘘はバレないんだって聞いたら、そいつが言ったんだよ。嘘は、嘘だけつくんじゃなくて、本当の話の中に嘘を混ぜるんだ、って」

 阿久津が顔を上げた。俺と目が合う。阿久津は何も言わない。

「俺の大学の友達にね、誰かに自身のトラウマの話をされた時に「それは、トラウマですね」なんて返すのは野暮だ、って言った子がいるんだ」

 阿久津は伏し目がちに俯く。曲がらないストローを指で押さえて、アイスコーヒーを飲む。

「俺、野暮なこと阿久津に聞いていい?」

 阿久津は首を傾げ、瞬きをした。「何?」と聞くように眉毛を少し上げる。

「昨日、阿久津が話した明日香って子の最後の話は、阿久津のこと?」

 気の利いたことが言えるような人になりたかった。けれど、いつも阿久津の話に気の利いたことは言えなかった。今だって。

自分が納得したいから、自分がスッキリしたいから、人に理由や答えを聞くのは簡単だった。理由や答えなんて聞いても、簡単に教えてはくれないのに。

 阿久津は何も言わない。泣きそうな俺を慰めるような目で、ただ見ていた。

「……どうして大介が泣くの?」

 泣きそうな俺に阿久津が聞く。

「阿久津が話す、小学生の頃のエピソードは、過去を清算したくて俺に話してるんだよね。誰かに話すことで整理されていく心があるから」

 俺は首を傾げ、阿久津に聞く。阿久津は考えるように首を傾げた。

「大介、私の高校の友達にね、りなちゃんって子がいてね」

 阿久津が話し出す。思い出してみれば、カフェのような店で阿久津とこうして話すのは初めてのことかもしれない。いつも阿久津と話すのは俺の家で、いつも食べに行く店はラーメン屋ばかりだった。

「高一の4月に、りなちゃんもバスケ部に入ったの。バスケ部に入った1年生同士で仲良くなって、みんなであだ名を付けることになった。私は、まいまい。かおりんは、かおりん。りなちゃんは、なぜか【とりっぴー】の話題になった後だったから、りなぴーになった。でも、私がりなちゃんのことを【りなぴー】って呼んでたのは最初だけで、りなちゃんはすぐにバスケ部を辞めた」

 テーブルの上に落ちた、フランスパンのパンくずを阿久津はおしぼりで軽く拭いた。テーブルのパンくずは、おしぼりの下に隠れた。

「りなちゃん、2年前に突然連絡が取れなくなってね、最近また連絡が来るようになったの。りなちゃんね、実は、2年前に彼氏がバイクの事故で死んじゃったんだって」

 阿久津のアイスコーヒーは氷が溶け出して、黒からこげ茶色に変わった。

「この話、私は、りなちゃんから直接聞いたわけじゃなくて、かおりんから聞いた話で又聞きなんだけど」

 顎を引くように、俺は軽く頷いた。

「りなちゃんがね、彼氏の事故のこととか、当時の気持ちを話してくれた時、辛かったら無理して話さなくていいよってかおりんが言ったんだって。そしたらね、りなちゃんがこう言ったの。「ううん。違うよ、かおりん。乗り越えたから、今こうして話せるようになったんだよ」って」

 もう氷で薄まってしまったアイスコーヒーを阿久津は飲み干す。ストローがズルズルと音が鳴る手前で、阿久津は飲むのを止めた。阿久津は顔を上げる。

阿久津が何かを言いかけると、突然、店内の電気が消えた。目の前の阿久津が暗くなる。二人同時に辺りを見渡す。夜ではないので真っ暗にはならないが、窓から自然光だけが入る暗さに変わった。

『ハッピーバースデートゥユ~♪』

 ハッピーバースデーの曲が店内に流れ始め、さっきまでお喋りに夢中になっていた女性四人組の方へ、二本の花火が付いたケーキを持って従業員が向かう。四人組のうち一人が両手で口元を押さえ、目を見開く。目を見開きながら『なんでぇ』と、残りの三人を交互に見つめた。

「お誕生日、おめでとう」

 誕生日を祝福される人の前に、花火が残り半分くらいになったケーキが置かれる。店内で拍手が起こり、阿久津も俺も小さい拍手を送った。サプライズ演出が終わり、店内の電気が付いて明るくなった。後ろを向いていた阿久津が前に戻る。姿勢を直し、小さい笑顔を残したまま、俺と目が合った。

「大介、誕生日いつ?」

「……4月」

「4月の?」

「4日」

「4月4日……」

 誕生日を答えると、俺は阿久津から目を逸らした。阿久津の後ろの席に目を向ける。

サプライズの誕生日ケーキの花火はもう消えていて、ただの二本の黒い棒がケーキに立っていた。【完】


最後までお読みいただきありがとうございました。
こちらの小説はタイトルが思いつかなかったので、どんなタイトルがいいか募集中です。笑

拙いですが、他の小説も読んでいただければ嬉しいです。

亜北 瓔


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