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【小説】悩みのヒントを差し上げます ヒント屋キタミ①

こちらの小説は、『小説現代長編新人賞』で一次選考通過した作品です。
多くの人に読んでいただければと思います。ぜひ、感想などいただけると嬉しいです。



 プロローグ

 午後のグラウンドは巨大な反射板みたいで眩しかった。隠れる場所もなく一面に広がるグラウンドは太陽のスポットライトに照らされているようだった。うす茶色のグラウンドに背を向けて、ピロティに腰掛けると日陰に目が慣れるまでしばらく待った。
きっとドラマや映画ならこういう時、学校の屋上でサボるんだろうなと思う。高校生の男子生徒が授業中教室を抜け出してサボる場所は、相場は屋上だ。でもドラマや映画のように今どき屋上を開放している学校の方が少ないんじゃなかと思う。うちの学校も普段は屋上には鍵がかかっていて生徒は屋上へは入れない。
 吹き抜けのピロティは、屋根がない屋上よりもサボるには最適な場所だった。今日みたいに適度に風が吹いて日差しが強い日は、吹き抜けのピロティで座っている方が気持ちいい。体育座りに飽きると足を伸ばし斜め後ろに両手を付く。教室から漏れる先生や生徒の声がする。はっきり聞き取れない遠くの誰かの声は、今この空間の静けさに逆に拍車をかけるようだった。手首が痺れ始める。斜め後ろに付いた両手を頭の後ろに置き、そっと背中を床に預ける。横からなびく風と寝転んだ先に見えた天井が、自分が今授業をサボっているのだと自覚できる瞬間だった。
 寝転んだまま制服のポケットから単行本を取り出す。取り出した薄い単行本は表紙の角が折れていた。谷折りに折れた箇所を山折りに折り返し、折り目を直す。みかんを半分に割るように両手で本を開いた。何度も読んだせいかお気に入りのページには本に折り目が付いていた。開いたページを目で追う。バサッと本が顔に落ちた。横になって本を読むと手が滑って顔の真上にあった本が突然降ってくる。本が落ちた一瞬、本の紙が頬を切るようで痛かった。本を拾い、むくっと腹筋を使うように起き上がると、背中を丸め、あぐらをかいてパラパラとさっきまで読んでいたページを探す。何度も繰り返し読んだ主人公の会話からまた続きを読み始める。
 午後の風は一定の間隔で髪や制服に空気を吹き込んだ。風の心地よさとは裏腹に本のページはお辞儀をするように風になびいた。風でページが勝手にめくられてしまわないように、背中で風を遮るようにゆっくり体の向きを変えた。




 1

歩調を緩めて足を止めた。自分の記憶を引っ張り出す前に辺りを見渡す。「ヒント屋 キタミ」の看板が目に止まった。
「やっぱり、ここだ」
 うろ覚えだった店の場所が見つかって安心する。ガラス張りになっている店内を外から覗いてドアを開けた。ドアを開けると同時にコーヒーの香りがまず私を歓迎する。私はゆっくりと店内に足を踏み込んだ。
 店内の右側にはアンティーク調の家具が置いてあった。2人掛けの深緑のソファー、背もたれの無いサイコロのような椅子、ローテーブルがその間に挟まれていた。反対の左側の壁には天井まで届く高さの本棚が二つ並んでいた。大きな本棚には本がびっしりと詰め込まれている。きっと高い場所の本を取るためだろう。本棚の横には脚立が置いてあった。店の一番奥は3人ほど座れるカウンターになっていた。カウンターの奥には食器棚が並んでいてまるで喫茶店のような空間だった。
 そうだった。初めてここに来た日ガラス張りになっている店内を外から覗くとソファーや本棚が見えたので、はじめヒント屋だとわからなかったんだ。見覚えのある店内を眺めていると徐々に記憶を取り戻してきた。
 ここに初めて来たのは4年前。あの頃、私はまだ高校生だった。
「いらっしゃいませ」
 店内の一番奥のカウンターの中で店主はコーヒーを淹れながら声をかけた。私はカウンターにいる店主にゆっくり近づき、声を出した。
「あの、以前ここでヒントをもらった者なんですが」
 店主はやかんから視線を上げた。私と目が合うと、「どうぞ」とカウンターチェアを手で勧めた。三脚あるカウンターチェアのうち、私は4年目と同じ真ん中の席に座る。右の椅子にカバンを置いた。
「コーヒー、よかったら飲みませんか?」
「はい。いただきます」
 店主は変わってないな、と私は思った。初めてここに来た日も店主はコーヒーを淹れていてコーヒーを飲まないかと私に聞いた。記憶の中でぼんやりしていた店主の顔が今クリアになった。
「どうぞ」
 カウンターにコーヒーが置かれる。私は軽く頭を下げてから砂糖もミルクも入れずにコーヒーに口を付けた。コーヒーは思ったよりも熱かった。
「以前来た時は、コーヒーは苦手だと仰ってましたがブラックで飲むようになったんですね」
 店主の言葉にゴクリと喉にコーヒーが流れた。コーヒーの熱が喉に伝わる。
「よく覚えていますね。以前私がこの店に来たのは4年も前なのに」
「そうですか。あなたが以前ここに来たのはもう4年も前になりますか」
 店主は月日の長さを確認するように自分にも淹れたコーヒーに口を付けた。
「前回来た時は、私は高校2年生でしたから。その後高校3年生になって大学受験の勉強中にコーヒーを飲むようになりました。その頃、部活をやめてから太っちゃってコーヒーに砂糖もミルクも入れないで飲んでいたらいつの間にかブラックで飲めるようになりました。ビールと同じですね。最初は苦いけど我慢して飲んでいるうちに飲めるようになる感じです」
「ビールが飲めるようになったんですね」
「はい。ビールが飲めるようになりました。今年、21になります」
 ビールが飲めるようになった、と口に出して言うと自分が背伸びをしている子どものようで少し恥ずかしくなった。多分店主が言った「ビールが飲めるようになった」は、お酒が飲める年齢に達した、時間の経過を指しているのだろうけど。
 緊張すると余計なことを言ってしまう。紛らせるように私はコーヒーを飲んだ。コーヒーはまだ熱いままだ。
「そうだ」
 私は右の椅子に置いたカバンを自分の膝の上に移動させた。
「これ、お渡しするヒントです」
 テーブルのコーヒーを右へずらしコーヒーがあったところに24色入り色鉛筆ケースを置いた。カウンターテーブルに置くと色鉛筆ケースに書かれた24の数字が目立った。ケースの表面はベコベコで、ザラザラした汚れがついている。私は撫でるようにケースの表面を指で触った。
「小学3年生に上がる前の春休みに、父に買ってもらった色鉛筆なんです。小学2年生の時に同じクラスだった友達が、24色入り色鉛筆を持っていて、私、その子の色鉛筆が羨ましくてしかたなかった。だって、24色入り色鉛筆には金色や銀色が入っているんだもん。その頃の私にとって、全てにおいて金や銀は特別な物だったんです。
 はじめ、母に24色入り色鉛筆を買って欲しいとねだりました。でも、12色入り色鉛筆を持っているなら必要ないと言って、母は買ってくれなかった。父に買ってと頼むと、母には内緒で買ってくれたんです。父に買ってもらった物はたくさんあったけど、母に内緒で買ってもらった物はこれだけだったかな」
 私は色鉛筆ケースの蓋を開けた。色鉛筆の先はどれも丸く、長さもバラバラだった。
「これ、24色入り色鉛筆なんですが実は全色揃っていなくて、今は6色しか残っていないんです。小学生の頃使っていた物で折れたり、失くしたりしたら減ってしまって」
 色鉛筆ケースの中はスカスカだった。色鉛筆の少なさが際立っていてカウンターの上で色鉛筆は少し申し訳なさそうだった。
 私は不安気に顔を上げた。店主と目が合うと、店主はニッコリ笑顔を見せた。
「ヒントをお持ち頂き、ありがとうございます。長い間保管されていたようですが思い入れのある品物なんですか?」
 店主の言葉に私はホッとした。全色揃っていない代物なのでヒントとして受け取ってもらえないかと不安だったが、そんなことはなさそうだ。
「思い入れと言うほど立派な物ではないんですが、これを買ってもらった後すぐに両親が離婚したんです。それで、なんとなく、この色鉛筆が捨てられなくて。子どもながらに両親の離婚がショックだったのかな。
 来月、実家をリフォームするので部屋を整理していたらこれが出てきて。本数は足りないんですけど私にとって大切な物なので誰かのヒントになればいいなと思って持って来ました」
 そう言って、私は黙った。喋らなくなると舌が少しヒリヒリする。コーヒーが熱かったことを思い出しながら私はまた一口コーヒーを飲んだ。
「ちょっと長くなるんですけど」
 コーヒーカップをソーサーに置くと、私はこの色鉛筆について話し始めた。

 小学2年生なりに考えた。お母さんが色鉛筆を買ってくれないのならお父さんに買ってもらう作戦に変更するしかないと思った。けれど最初はお父さんも私の話に取り合ってはくれなかった。
「12色入り色鉛筆を持っているなら買わないよ。お母さんがダメって言っているならダメ」
 そう、お父さんにも同じことを繰り返されるだけだった。でも私はどうしても24色入り色鉛筆が欲しかった。
 私は自由帳が足りなくなったと言って一緒に文房具屋さんに行こうとお父さんを誘った。おそらくお父さんは私の魂胆をわかっていたと思う。文房具屋で自由帳ではなく24色入り色鉛筆を持って来た私にお父さんは小さく笑った後、悩んだふりを見せた。
「しょうがないな。でもお母さんには内緒な」
 そう言って、お父さんは私の頭を優しく撫でた。
 家に帰るとすぐに机の引き出しに色縁筆をしまった。本当はすぐにでも色鉛筆を使いたかった。お母さんにも色鉛筆の金色と銀色を見せてあげたかった。
 それから私が小学3年生に上がると両親は離婚した。春休みにお父さんと色鉛筆を買いに行ったのはお父さんと一緒に暮らしていた家での最後の思い出になった。
 両親が離婚する前からお父さんは仕事であまり家にはいなかった。正確に言えばお父さんは家にいた。ただ私が寝た後に帰ってきて、私が起きる前に出発していただけだ。だけどお父さんが家にいないことを特に寂しいと思うことはなかった。お父さんが家にいる時は一緒に遊んだし、お父さんは話していて楽しい人だった。お父さんはあんまり家にはいないけれどお父さんは家に帰って来る。私はお父さんが好きだった。
「お別れしたら、お父さんだけ引っ越しする」
 そう、お母さんに言われた。お父さんと離れて暮らすと言われても、あまり日常生活は変わらないなと思った。だって、元々お父さんはあまり家にいなかったから。
「休みの日はまた会えるから、安心して。ね?」
 お母さんもお父さんも一生懸命私を安心させるように説明してくれたけど、お父さんと離れて暮らすことが今までとなにが変わるんだろうと不思議だった。もしかしたら、私とお母さんもこの家を引っ越せばお父さんと離れて暮らすことをすぐに実感できたかもしれない。けれど私とお母さんは、お父さんと暮らしていた家に引き続き住むことになった。
 お父さんと離れて暮らすようになってからも時々休みの日にはお父さんと遊びに出かけた。一緒に暮らさなくなってもお父さんと一緒にいるのは変わらず楽しかった。お父さんは私と会うと欲しい物を買ってくれた。ガチャガチャを2回やらせてくれる時もあれば、文房具や洋服を買ってくれる時もあった。けれど離婚する前と変わらず、好きな物を好きなだけ買い与えてくれるわけではなかった。何というか、両親が離婚しても、しなくても、私の中では何も変わらなかった。
 それから離婚して少し経ったある日、お母さんが仕事に行っている間いつものように私は家で留守番をしていた。私はリビングのテーブルで絵を描いていた。お父さんから買ってもらったお気に入りの色鉛筆で24色全部使って目一杯カラフルな花火の絵を描いた。今年の夏も花火大会に浴衣を着ていこう、なんて考えながら花火の絵に色を足した。
 私は途中で飽きるとそのまま自由帳も色鉛筆もテーブルに置きっぱなしにしてソファーに移動してテレビを見始めた。
「ただいまー」
 帰宅したお母さんはリビングにやって来るとテーブルの上の自由帳を手に取った。
「花火きれいだね、あおちゃん」
 お母さんは私に声をかけた。お母さんの声に反応して私は振り返った。
「おかえりー」
 お母さんはテーブルに出しっぱなしの24色入り色鉛筆を見ていた。お母さんが色鉛筆を見ていることに気がついて、私はとっさに怒られると思った。「この色鉛筆、どうしたの?」と聞かれたら私はなんと答えよう。言い訳を必死に考える。友達に借りた、いや、学校で貸し出しがあったと言おう。それとも正直に前にお父さんに買ってもらったと言おうか。
「葵、テーブルの上、片付けて。すぐにご飯にするね」
 けれどお母さんの反応は違った。私が言い訳をする前にお母さんはキッチンの方へ行ってしまった。
 怒られなくて済んだ安堵のあとに得体の知れない感情が私の背後に立った。そういえばお父さんと離婚してからお母さんはお父さんが私に買ってあげる物になにも言わなくなった。離婚する前は、お父さんが勝手に私の欲しい物を買うとお母さんはお父さんと私に注意をし、怒った。
「パパ、葵に何でも買い与えたらダメだよ。葵も我慢することは大切でしょ」
 そう言って、お母さんはいい顔をしなかった。
 キッチンで手を洗うお母さんの後ろ姿を見て、私は初めて湧いた感情に名前を付けた。そっか。お父さんが勝手に色鉛筆を私に買ってあげても、今はもうお父さんも私もお母さんには怒られない。それはお父さんがこの家には帰ってこないことを妙に納得させるものだった。お父さんがこの家にいないのは、ずっと変わらないことなのに。今だってこの家にはお母さんと私しかいなかった。でもこの家にお父さんはもう帰ってこない。この家にお父さんがいないことを初めて寂しいと思った。

 色鉛筆のことをお母さんに内緒にする必要がないとわかると、私は24色入り色鉛筆をただの色鉛筆として扱った。お父さんに買ってもらった、お気に入りの色鉛筆ではなく、ただの24色入りの色鉛筆なのだと思うようにした。
 ある日、学校の授業で近くの土手に行き好きな絵を描くという課外授業があった。私は土手の川と空を描いた。水色で空を描き、緑と青を混ぜて川を描いた。
 教室に戻ると色鉛筆の水色が無くなっていることに気がついた。
「いいや。ただの色鉛筆だし」
 私は気づかないふりをしてケースの蓋を静かに閉じた。
「立花さん、色鉛筆の金色貸して」
 大切に使っていた金色だって、友達に貸してあげた。隣の席の牧野くんに色鉛筆を貸してと言われても私は快く貸してあげた。牧野くんはガサツで友達から借りた物を大切に使わないからクラスの女子は牧野くんに自分の物を貸すのを嫌がった。でも私は気にしなかった。色鉛筆なんて全然気にしなかった。牧野くんが消しゴムのカスを払った勢いで色鉛筆が机から床に落ちてしまっても私は気にしなかった。床に落ちた衝撃で色鉛筆の芯が折れてしまっても私は全然気にしなかった。悪びれず「ごめん」も言わない牧野くんに私は何度も色鉛筆を貸してあげた。
 色鉛筆を大切にすることは、離婚前のお父さんとの思い出を大切にすることと同じだった。その大切にする気持ちには悲しみがセットでくっついてきた。本当は色鉛筆を大切にしたいのに。大切に思えば思うほど、悲しみが心を埋め尽くしそうだった。そんなの、耐えられなかった。
「この色鉛筆はただの色鉛筆だ」
 そう、自分に言い聞かせた。昔も今もお父さんが家にいないのは変わらないのだから。お父さんが帰らないこの家でお父さんがいた思い出を振り返らないように。これはただの色鉛筆なのだから。悲しい気持ちに引っ張られないように自分に言い聞かせた。

 最近、おばあちゃんの具合が良くない。自宅の階段から転んで捻挫した。捻挫自体は軽症だったが、おばあちゃんは自分の体が思い通りに動かなくなっていくことにショックを受けていた。捻挫をしてから、おばあちゃんは一気に元気がなくなってしまった。
「病は気から」
 この言葉の意味が大学3年になって初めてわかった気がする。
「ひとり暮らしのおばあちゃんも心配だから、同居することにした」
 ある日、バイトから帰って来ると、お母さんから言われた。
「今後のことも考えて、おばあちゃんも暮らしやすいように思い切って家もリフォームする」
 そう、お母さんは続けた。
 来月から実家のリフォームが始まる。リフォーム中は家の近くに部屋を借りてお母さんと住むことになった。
 いい機会だからいろんなものを処分できるとお母さんは張り切っていた。勢いよく捨てていくお母さんを見ていると、このままだと私の物も全部捨てられそうなので私も荷造りの作業に取りかかった。
 クローゼットの中を整理していると、思い出ボックスと殴り書きされた箱を見つけた。思い出ボックスと言っても使わなくなった物や要らなくなった物をただぶち込んだだけの段ボールだった。
「懐かしいー」
 中学生の頃に撮ったプリクラや友達との交換ノートが入っていた。思い出を見ていると作業がなかなか進まなかった。
 お父さんに買ってもらった色鉛筆は、プリクラや交換ノートと同じ、思い出ボックスに入っていた。久しぶりにこの色鉛筆を手に取った。無意識にケースの表面を指で撫でる。ザラザラが心地いい。小学生の頃の自分を見ているような感覚になった。いくらでも色鉛筆を捨てるタイミングはあったのに。でも結局捨てられなかったのは気持ちの整理が付かなかったからか。捨てれば見なくて済むのに、捨ててはいけない大切な物だと本当はわかっていたからなのか。いつの間にか、私は色鉛筆を捨てるかどうか葛藤することさえも忘れていた。忘れていた間、色鉛筆は長いことクローゼットの中で眠っていたのか。
 思い出ボックスにはヒント屋キタミでもらった分厚い宇宙図鑑も入っていた。高校2年生の春、友達関係に悩み私はヒント屋キタミに行った。その時店主から宇宙図鑑をヒントとしてもらったんだ。
「懐かしいなー」
 高校生の頃の思い出がワッと花を開くように溢れ出す。当時はこの世の終わりのように悩んでいたことも時間が経つと悩んでいたことなどなかったかのように忘れてしまう。悩みとは不思議なものだ。思い出を振り返っているとなかなか作業が進まない。
「ヒント屋キタミにヒントを渡しに行かないと」
 私は段ボールから色鉛筆を取り出し、机の上に移動させた。思い出の色鉛筆やヒントの宇宙図鑑がこのタイミングで出てきたということは家のリフォームがいい機会になったのは私も同じだったのかもしれない。

 右へずらしたコーヒーに私は手を伸ばす。使わなかったスティックタイプの砂糖にコーヒーの染みが付いていた。再利用ができなくなってしまったことを申し訳なく思った。
「この色鉛筆を見つけた時、懐かしい気持ちしか湧かなかったんです。正直、色鉛筆がまだあったことにびっくりしました。でも、あの頃のように悲しみはセットで付いてはこなかった」
 コーヒーは冷たくなっていた。冷たくなったコーヒーは苦味が増す気がした。
「慣れるものですね。離婚してしばらくすると、父がいないのも当たり前になりました。離婚しても父とは定期的に会っていたし、母も私が寂しい思いをしないように工夫や努力をしてくれました」
 私は色鉛筆ケースの蓋を閉めた。24の数字が私の方に向いた。
 当時、私にとってこの色鉛筆は両親が離婚した悲しみの象徴だった。色鉛筆を特別なものと思わないようにしていたのも、両親の離婚をたいしたことではないと悲しみに自分が触れないようにしていた防御だった。
「この色鉛筆を今になって見ると、人に話せるようになる話って自分の中で決着がついた出来事なのだと思います。両親が離婚したすぐは自分の気持ちを思ったまま言えなかった。本当は悲しかったのに何とも感じていないふりをしました。自分が傷付いていることを認めたくない気持ちもあったのかもしれない。それに、父がいなくて寂しいって言ったら母が悲しむと思った。なんだろう。自分の感情がどこにあるのかわからなくて、上手に説明ができなかったって方が正しいかもしれないですね」
 私は正直なまま気持ちを伝える。店主は何も言わず頷いた。
「でも時間が経つにつれ両親の離婚を徐々に理解できるようになりました。離婚した両親を責めるつもりもないし、母にも父にも自分の人生がありますから。少しずつですけど、私も受け入れられるようになったんだと思います。するとね、不思議なことにいつの間にかあの頃の気持ちを言葉にできるようになったんです。あんなに言葉にできなかったのに。あんなに両親の離婚のことを話すのが嫌だったのに。でも今は悲しかったことをちゃんと悲しかったって言える。「小学3年生の時、私両親が離婚して悲しかったんだ」って、今なら言えるんです。あの頃の気持ちに今は触れることができるんです。決着がつくってそういうことだと思うんです」
 喋っていると喉が渇く。冷たいコーヒーを啜った。冷たいコーヒーは喉が潤う気がした。
 店主は何も言わずに私の話を聞いていた。そうだった。4年前もこの人はこうやって私の話を聞いてくれたんだ。
「両親には感謝しています。本当はうまく感謝を伝えられればいいんですけど」
「ご両親は立派にあなたを育てたと思いますよ。素敵なヒントです。改めて、ヒントをお持ち頂いてありがとうございます」
 私が話し始めてから、店主は相槌以外の声を初めて発した。
「こちらこそ、ありがとうございます」
 私も慌ててお礼を言う。店主はコーヒーカップを指して、おかわりを聞いた。
「話が長くなってすいません。これからバイトなのでもう行きます」
 店の壁の掛時計はもうすぐ5時になろうとしている。「長くなるんですけど」と前置きをして本当に話が長くなった。
「コーヒー、ごちそうさまでした」
 最後の一口を飲み干して、私は店を出た。店主は店のドアまで私を見送ってくれた。
 5時なのにまだ外は明るい。春になると日が長くなった。今日、バイトの遅番は誰だったか。先週から新しく入った大学生の男の子も今週の火曜日は遅番だと言っていた。バイトのシフトのことを考えていると思わず二の腕に寒さを感じた。日は長くなっても今の時期は夕方になるとまだ肌寒い。二の腕を擦り、冷えに抵抗するように私は歩いた。
「私のヒントは誰の手に渡るんだろう」
 ヒント屋の看板が見えなくなった頃、ふとさっきのヒントが頭に過る。24色入りの色鉛筆なのに本数が足りていないと文句を言われないだろうか。私があげたヒントで相談者の悩みが解消されなかったらどうすればいいだろう。さっき店主に渡した色鉛筆が誰かの手に渡ることを想像すると不安な気持ちが押し寄せた。
 でもすぐに考えるのをやめた。今さら私がどうこうできることではない。きっとヒント屋の店主がうまくやってくれるだろう。
「私の色鉛筆をもらった人が悩みを解消できますように」
 私には祈ることしかできない。けれど、期待を抱くと少しだけ幸せな気分になった。

【悩みのヒントを差し上げます ヒント屋キタミ】②に続く

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