見出し画像

【小説】悩みのヒントを差し上げます ヒント屋キタミ②

こちらの小説は、『小説現代長編新人賞』で一次選考通過した作品です。
多くの人に読んでいただければと思います。ぜひ、感想などいただけると嬉しいです。

「悩みのヒントを差し上げます ヒント屋キタミ①」を先にお読みになってからこちらをお読みください。

 2


「ここ、居心地いいですね」

 カウンターチェアに座り僕はカウンター越しの店主に話しかけた。

「それはよかったです」

 店主はヤカンのお湯を注ぎながら僕を見ずに答えた。ここからコーヒーを淹れる店主を眺めていると、自分が喫茶店の常連客になったようだ。普段中学生の僕が喫茶店に来ることなんてないから僕はしばらく喫茶店屋さんごっこを楽しんだ。

 喫茶店ごっこに飽きると僕は体を捻り店内を見回した。椅子の背もたれに肘を置き、店内を物色する。つくづく不思議な店だな、と思う。

 右に体を捻り入り口の方に目を向けた。入り口のドア近くにソファーがあった。おしゃれな緑色のソファーやローテーブルが並んでいる。こちらのカウンターと違ってそこの空間だけおしゃれなカフェのようだった。ソファーを過ぎると、その横にハンガーラックが置いてあった。ハンガーラックには大量の洋服がかけられている。色やサイズで系統分けされている訳でもなく、洋服はごちゃごちゃに混ざって掛けられていた。そのハンガーラックを過ぎると僕の背丈と同じくらいの棚があった。棚は横に3つの仕切りが付いていて、棚の中に雑貨が並んでいた。新聞紙に包まれたままの食器やキャラクター物のポーチ、くたびれたぬいぐるみ、空気の抜けた浮き輪。

「バザーみたい」

 棚に並ぶ日用品を見ていると、毎年秋に行われる学校のバザーを思い出した。この棚の物が体育館に敷かれたレジャーシートの上で売られていても違和感がないと思った。手を伸ばせば届きそうな位置にある棚を見つめ、そんなことを僕は思った。

 今度は左側に体を捻る。また入り口の方に目が向いた。左側の壁には本棚が2つ並んでいる。本棚は一つだけでも十分存在感があるのに2つも並ぶと少し威圧的に感じられる。本棚にはパンパンに本が入っているが、それでもまだ入り切らない本たちが本棚の前で平積みされていた。本棚を過ぎるとまた棚があった。仕切りが3つ付いているので右の棚と同じ物だろう。こちらの棚にも日用品が置かれていた。でもよく見るとこちらの棚はただの日用品ではなさそうだ。蓋のないマジックペンや片方しかないイヤホン、音の鳴らない風鈴、片目が取れかけの人形。

「こんな物、誰が欲しいんだろう」

 はっきり言って僕にはいらない物ばかりだった。

 ヴヴ。

 カウンターに置いたスマホが小さく震えた。画面を見ると、最近塾で仲良くなった別の中学校の友達からだった。今日の塾は休むとの連絡だった。

【サボり?笑】
 そう打ってから少し考えてやっぱり取り消した。

【了解】と返信をするとスマホを伏せた。

 前の塾を辞めて今の塾に通うようになってから、もう1ヶ月が経った。塾を変えてから他の中学校の友達が増えた。交流関係が広くなったのは嬉しいけど他校の友達との距離感が僕はまだ掴めていなかった。

 中学2年になって僕は塾を変えた。中学に入学すると初めは近所の塾に通っていた。近所の塾は、普段は学校の授業の復習と予習をしてテストが近くなるとテストに向けた勉強をするスタイルの塾だった。近所の塾には僕と同じ中学校の奴が多く通っていた。

「そろそろ塾変えようか」

 2年生になって二週間が経った頃、高校受験に備えて早めに塾を変えようと母さんに提案された。今は週2日、電車に乗って2つ隣の駅の塾に通っている。塾を変えてから塾へ行くのに自転車ではなく電車に乗るようになった。

 ある日の塾の帰り、電車から外を眺めていると気になる看板を見つけた。

【悩みのヒントを差し上げます ヒント屋 キタミ】

 夜、ライトアップされた看板が僕の目に飛び込んできた。

「ヒント屋?」

 何の店だろう。ヒントって、クイズや問題集とかでよく使われる、あの【ヒント】のことなのだろうか。でも悩みのヒントを差し上げるってことは何かの相談窓口なのか。それとも怪しげな占いのような店だったりして。

「変な店があるもんだな」

 それから塾の帰り電車からヒント屋の看板を見かける度、電車の中で暇つぶしにヒント屋について僕は考えた。あのヒント屋にはどんなヒントが売られているんだろう。高額なヒントを売りつけられたりするんじゃないのか。でも案外、普通の本屋さんだったりして。

 色々考えるけれど電車が僕の最寄り駅に到着するとすぐにヒント屋のことなんて忘れた。駅の改札を出るまでヒント屋のことを考えていたこともなかった。クイズ番組で「ここでヒントです!」と司会者がクイズのヒントを出しても、ヒント屋のことなんて思い出さなかった。それなのに今日僕はヒント屋キタミにいる。

 中学2年生になってから洋ちゃんと喋ったのはまだ1回だけだった。洋ちゃんが僕のことを章ちゃんと呼ばなくなったのはいつからだろう。小学生の頃分け隔てなく遊んでいた僕らはいつから自分や周りを何かのグループで分類するようになったのか。運動ができるとか、できないとか。目立つ奴とか、地味な奴とか。モテる奴とか、ダサい奴とか。モヤモヤした。はじめ小さかったモヤモヤが少しずつ大きくなっていく。僕は気づいた。このモヤモヤがもしかしたら僕の悩みなのかもしれない。そんな時、僕は初めてヒント屋キタミの看板を自分の家で思い出した。

 

「どうぞ」

 カウンターにココアが置かれた。マグカップに湯気が立っている。これは前歯の裏を火傷するやつだな、と思った。

「ありがとうございます」

 僕がお礼を言うと店主は軽く頷いた。

 僕がここに来た時、店内はコーヒーの香りで充満していた。

「コーヒーを淹れているから、一緒に飲みませんか?」

 店に入ってきた僕に店主は聞いた。でも店主は聞いてすぐ僕が中学生だと気づいて「ココアもありますよ」と補足した。僕はココアを頼んだ。店主がコーヒーの他にココアの選択肢を出してくれたのは、僕がコーヒーを飲めるか判断に迷ったからだと思った。

子ども扱いするなよ。ココアを頼んでおいて僕は身勝手にそんなことを思った。子ども扱いが嫌なら我慢してコーヒーを飲めばいいだけだ。でもそれは嫌だった。だってコーヒーは苦いから。子ども扱いをされるのは嫌なくせに僕はココアを頼む。矛盾している。初めて矛盾という言葉を使ってみた。これはこの間国語の授業で習った「矛盾」で合っているのだろうか。

 店主は自分に淹れたコーヒーを飲んで一息ついていた。僕はここに来た当初の目的を思い出した。なにから切り出せばいいのだろう。ヒントをください、とでも言えばいいのか。ココアを飲んで間を埋めようかと思ったが猫舌はこういう時に困る。

 すると店主は僕のソワソワした様子に気がついてコーヒーをソーサーに戻した。

「初めての方なので、簡単にこの店の説明をしますね。私は、ヒント屋の北見と申します。この店は、たくさんのヒントを扱っているヒント屋です。ヒントとは、問題や悩みを解決するための手がかりや手助けをするものだと思ってください。

 ここでは、まず、相談者様にご自身の悩みを話してもらいます。その悩みを聞いた私が相談者様にヒントを差し上げております。私が差し上げるヒントは、アドバイスのような助言ではありません。店内に置いてある、【物】をヒントとしてお渡ししております。

 相談者様からはヒントのお代は頂いておりません。ですが、私が出したヒントに相談者様がご満足していただけましたら、お金の代わりに相談者様からもヒントを頂いております。相談者様がお持ち頂くヒントも、あくまでも形ある【物】としてお持ちください。相談者様が大切にされている物や、趣味などで使われている物。使わなくなった物でもかまいません。読まなくなった本や、着なくなった服、人からもらったけれど使わない、しかし捨てるのは心苦しい物など。なんでも結構です。あなたが大切にしている物はもちろんのこと、あなたにとって不必要な物でも誰かにとっては大事なヒントになりますので。ちなみに店内にある物は全て、元々相談された方々から頂いたヒントです」

 今まで何度も説明したことがあるのだろう。店主は慣れた口調で一気に説明した。店主は説明を終えると、こちらの質問を待つようにゆっくりとコーヒーを飲んだ。

 僕は店主から聞いた説明を頭の中でもう一度整理した。店主の話によると、ここのヒント屋には僕のように悩みを抱えた相談者たちが悩みを解決するためにヒントをもらいにやってくる。そして相談者たちは店主に悩みを打ち明けて店主からヒントをもらう。しかし、そのヒントはアドバイスのような言葉ではなく、この店にある【物】がヒントとして渡される。そして、そのヒントで悩みが解決できたならお金を支払う代わりに自分のヒントを店主に渡す。そのヒントはなんでもいい。けれど渡すヒントも【物】でなれければならない。

 説明を整理してから僕は一番気になったことを店主に確認した。

「本当にお金は払わなくていいんですか?」

「はい、結構です。お金に代えられない物が大事なヒントになりますので」

「それなら、あれもヒントになるってことですか?」

 さっきから気になっていた、僕の斜め後ろにある左側の棚を指差した。片目が取れかかっている犬や片方しかないイヤホンが置かれている棚だ。店主も左の棚に目を向けて「はい」と小さく笑った。

「あんな物、誰がほしいんだろうと思いますでしょう? けれど不良品と思われる物でも意外な物がヒントになることがあります」

 不思議ですよねぇ、と店主が呑気に話している側で僕はヒント屋のルールを必死に理解しようと努めた。

 ココアを見ると表面が湯葉のように膜を張っていた。

「つまり、僕がもらうヒントは相談者だった誰かがくれたヒントで、僕があげるヒントはこれから相談にくる誰かのヒントになるということですか?」

「そうです。ここのヒント屋のシステムはリサイクルショップのように思ってもらえればわかりやすいかと思います」

「でも、僕、人にあげられるようなヒントなんてないですよ」

「みなさん最初そうおっしゃいます。先程もお伝えした通り、意外な物が誰かのヒントになるのです。何が、誰のヒントになるかは分かりません。なので、あなたがあげたい物をヒントとして持ってきてくれるだけでいいのです。相談者様からお悩みを聞いて、その悩みのヒントを選んでお渡しする。みなさんがお持ち頂いたヒントと相談者様を繋ぐのが私の仕事です」

「なるほど」

 僕は相槌を打つとココアの膜を指で突いた。ココアの膜はしっかり張られていて突いても破れなかった。多分、もう熱くない。

「お金を払わなくて済むのは正直助かるけど、僕が誰かを助けるヒントなんて持っているのかな」

 店主は僕に笑顔を向けた。

「渡すヒントのことは一旦忘れてください。まずはご自身の悩みを解消しましょう」

「確かにその通りですね」

 膜が口に入らないように僕はゆっくりココアを飲んだ。

「それと、もうひとつ聞いてもいいですか?」

 ココアが熱くないことに安心したのか、もう一つ気になったことを僕は店主に聞いた。

「相談者からお金をもらわないのに、どうやってこのお店は成り立っているんですか?」

 店主は一度手元のコーヒーに視線を落とした。

「実は、私の実家がお金持ちなんです。ドラ息子の道楽ですよ」

 そう言って、少し寂しそうに店主は笑った。

「ドラ息子……」

 僕は店主の言葉をそのまま繰り返した。ドラ息子の意味が僕にはよく分からなかった。

 

 ❇

 

 僕、田島章一と洋ちゃんは小さい頃からの幼なじみだ。幼稚園も小学校も同じだった。家も近所で小学生の頃は一緒に登下校していた。放課後はお互いの家に行き来して一緒に遊んだりした。

 中学に入学して洋ちゃんはバスケ部に入った。昔から洋ちゃんは運動が得意だったから中学は運動部のどれかに入ると言っていた。僕は美術部に入った。別に運動が嫌いなわけではないけれど絵を描いたり、本や漫画を読んでいる方が好きだった。

「章ちゃんは幼稚園の頃から絵を描くの、上手だもんな」

 美術部に入ると言った僕に洋ちゃんは笑顔でそう言った。バスケ部は朝練があるから中学生になってからは自然と洋ちゃんと一緒に登下校をしなくなった。

 1年生の夏休み前のテスト期間中、洋ちゃんと一緒に帰ったことがあった。

「章ちゃーん」

 僕が一人で歩いていると後ろから洋ちゃんが僕の名前を呼んだ。

「一緒に帰るの、久しぶりだな」

 洋ちゃんは僕に追いつくと、そう言った。僕らは小学生の頃のように横に並んで一緒に歩いた。洋ちゃんの背が少し高くなったことに僕は気がついた。久しぶりに洋ちゃんと喋る気がした。バスケ部は休みの日も部活があるから、その頃は僕と洋ちゃんはお互いの家を行き来することもなくなっていた。

 数日後のテストについて話が終わると僕は部活のことを洋ちゃんに聞いた。

「洋ちゃん、バスケ部、楽しい?」

「楽しい! 俺、バスケ部に本当に入ってよかった」

 洋ちゃんは楽しそうにバスケ部について話し始めた。

「俺さ、この前、練習試合に出たんだよ。1年生はまだほとんど試合なんて出られないのに」

「へぇ、そうなんだ。すごいね」

「そういえば、小学校一緒だった山本って、いるだろ?」

「山本って確か三中に行ったんだよね?」

「そう。あいつ、三中でバスケ部なんだって」

「そうなんだ」

「だから今度、一緒にスリーオンスリーすることになったんだ」

「……そうなんだ」

「今さ、バスケ部の3年生がみんなナイキのエアジョーダン履いててさ。俺も欲しいんだよなー」

「……そうなんだ」

 気づくと僕は洋ちゃんの話に「そうなんだ」と、ばかり言っていた。僕が知らないバスケットボール選手の名前が出ても僕が知らないバスケ部の先輩の名前が出ても僕が知らない単語が出ても、それが何か詳しく洋ちゃんに聞かなかった。

「そうなんだ」

 僕は洋ちゃんの話を聞き流していた。僕は洋ちゃんの話に洋ちゃんと同じテンションで会話をすることができなかった。でもそれは洋ちゃんも同じだった。僕が興味のある話をしても洋ちゃんの反応は薄かった。同じ美術部の矢島から聞いた都市伝説を話しても「そうなんだ」としか言われなかった。誰が悪いとかじゃない。それぞれ向いている方向が違うんだと感じた。

「じゃあな」

 洋ちゃんは僕に軽く手を振った。いつものところで右に曲がった。洋ちゃんの後ろ姿を見た。洋ちゃんのカバンには洋ちゃんの好きな色の水色と青で編まれたミサンガが付いていた。バスケ部の奴らとお揃いのミサンガだ。

 小学生の頃、僕も洋ちゃんみたいになりたくて洋ちゃんの真似をして水色や青のキーホルダーを身に付けたことがあった。洋ちゃんのミサンガを見て、そんなことを思い出した。

 あのミサンガはどこで買った物だろう。近所のショピングモールに入っているエスニック系の雑貨屋だろうか。そこの店の前を何度か通ったことがある。来週、その店に行ってみようかな、なんて思った。でもすぐに思い直した。

「買っても付ける所なんて無いか」

 洋ちゃんの真似をして買ったミサンガなんて今の僕には付ける場所がどこにもなかった。洋ちゃんみたいになれないことはわかっている。右に曲がった洋ちゃんの後ろ姿は、もう見えなくなっていた。

 

「田島、これ」

 振り向くと洋ちゃんが立っていた。放課後、廊下を歩いていると久しぶりに洋ちゃんに声をかけられた。差し出された紙袋の中を覗くと本が2冊入っていた。

「母ちゃんが渡してって」

「あ、うん。わかった」

 2年生になってから初めて洋ちゃんと喋った。一瞬のやり取りだった。でも僕らの間にぎこちなさが残る。

 僕の母さんと洋ちゃんのお母さんは仲が良い。母さんたちは僕らが小学生の頃からたまに僕らを配達代わりに使っていた。母親同士は今も僕らが小学生の頃のように無邪気に仲が良いと思っているのだろう。

「洋介、部活行こうぜ」

 洋ちゃんと同じバスケ部の北原が洋ちゃんを呼んだ。

 北原は中学1年の時、僕と同じクラスだった。北原は僕らとは別の小学校から来た奴だった。運動が得意で、背が高くて、かっこいい。女子にも人気がある。洋ちゃんと同じグループの人だ。

 洋ちゃんは僕に背を向け、北原と廊下を歩いて行った。二人とも背が高くて並ぶと存在感があった。

「洋介、田島と仲良いの?」

「親が仲良いから」

 茶化すように聞いた北原に、素っ気なく洋ちゃんは答えた。

 僕は洋ちゃんから受け取った本を紙袋ごとカバンに入れる。聞こえない振りをする。北原が振り返って僕を見ているのがわかった。わざとゆっくりカバンを閉めた。カバンから視線をあげるともう二人の姿はなかった。

 さっき本を受け取った時、洋ちゃんから知らない香水の匂いがした。

 

 ❇

 

 冷めたココアを飲んだ。店主は時折メモを取りながら僕の話を聞いていた。メモを見つめ店主は少し考えている。

「少々お待ちください」

 店主はカウンターの外に出た。そして左の棚の前に立った。僕はココアを置くと、店主がカウンターに戻るのを待たずに話を続けた。

「洋ちゃんは目立つグループの人だし、地味な僕と友達だと思われたのが恥ずかしかったんだと思います。親が仲良いからって言ったのも、親同士が仲良いだけで俺とあいつは仲良くないって意味でしょ。別に洋ちゃんと小学生の時みたいに仲良くなりたいとか、そういうことじゃなくて。小学生の頃は何にも考えずに仲良くしていたけど中学生になると目立つグループと地味なグループに自然と分かれる。昔のようにはならなくなるんですよ」

 事実を話しているだけなのに、なぜか言い訳をしている気分になる。僕にだって友達はいる。洋ちゃんだけじゃない。同じ美術部の矢島とは漫画や音楽の趣味も合う。話をしていると楽しい。なら、どうして僕は言い訳をしているのだろう。

 ヴヴ。

 スマホがまた小さく震えた。画面を見なくても相手が誰かすぐにわかった。多分、矢島だ。店の壁に掛かっている時計を見ると部活の時間はとっくに過ぎていた。今日部活をサボった僕に矢島が連絡してきたのだろう。

「お待たせしました」

 スマホを手に取ると店主がカウンターに戻ってきたので、僕は画面を見ることなくそのままスマホをズボンのポケットにしまった。

「お待たせして申し訳ございません。ヒントを選ぶのに少し時間が掛かってしまいました」

 店主は僕のココアをずらして場所を開ける。僕は姿勢を正して椅子に座り直した。

「今回、私が差し上げるヒントは、こちらになります」

 店主は僕の前に色鉛筆ケースを置いた。24の文字が目に入った。

「色鉛筆、ですか?」

 色鉛筆なんて小学生以来で懐かしい。アルミのケースには馴染みがあった。けれどケースを見る限りでは新品の色鉛筆ではなく使い込まれた中古の色鉛筆のようだった。ケースの表面はきれいに汚れを拭き取った形跡はあるが表面の凹み具合が使い込まれた中古品を物語っていた。

 僕はケースの蓋を開けた。蓋を開ける僕に合わせて店主は説明を加えた。

「こちらのヒントは【不揃いの色鉛筆】です。本来は24色入りですが、中身は6色しかありません」

「本当だ。6本しかない。黒、白、赤、オレンジ、黄緑、ピンク」

 僕は左から順番に色鉛筆の色を声に出した。

「ここでは、ヒントに期限などはございません。じっくりヒントと向き合ってみてください。ヒントの色鉛筆をどうするかは、あなたの自由です。このヒントであなたが何を思うか、何を考えるか、それもあなたの自由です。この不揃いの色鉛筆が、章一さんのヒントになることを私は心から願っております。モヤモヤが解消されましたら、またお店に遊びにきてください。その時は、章一さんのヒントも一緒にお持ち下さると幸いです」

 店主は話を終えると自分の仕事は終わったかのようにコーヒーを飲み始めた。僕も店主に合わせて、ついココアに手が伸びてしまった。

 マグカップ越しに店主の顔を見た。僕の胸にはいくつかの疑問が残る。なんで色鉛筆は24色入りなのに6色しか残っていないんだろう。どうして店主は僕の悩みを聞いてこの不揃いの色鉛筆をヒントに選んだのだろう。ヒントの説明や解説があまりも無さすぎる。

「もうちょっと詳しく説明をしてもら……」

「私からは以上です」

 僕の言葉を遮るように店主は笑った。店主はカウンターの下から灰色のビニール袋を取り出して色鉛筆を入れてくれた。店主の一連の動作を見て、もうこれ以上何を聞いても答えてくれないのだとわかった。僕は仕方なく色鉛筆を塾のカバンにしまった。

 ヒントってもっと分かりやすい物を期待していた。それがまさか中古の色鉛筆だとは思わなかった。けれど一応ヒントとして色鉛筆はもらったので僕は店主にお礼を言った。

 壁の時計を見ると塾の時間が迫っていた。

「そろそろ塾なのでもう行きます」

 僕は椅子から立ち上がった。空になったマグカップを見るとココアの跡がマグカップの内側で模様になっていた。蜘蛛の巣みたいで綺麗な模様だった。

 

 ❇

 

 朝、学校に着くと矢島が下駄箱で上履きに履き替えていた。

「おはよう」

 僕が声をかけると小動物のように矢島は振り向いた。

「オールド、昨日部活サボってどこ行ってた!」

「ヒント屋だよ」

「ヒント屋? 何だよ、それ?」

「ヒントをくれる店だよ。それより、矢島が前話してた漫画、やっぱ貸して」

 矢島の質問を軽く流してから、僕は矢島が薦める漫画の話に話題を変えた。

「いいよ。ついに読む気になったか」

 矢島は自分が薦めた漫画について楽しそうに喋り出した。

 矢島は北原と同じ小学校から来た奴で僕らは同じ美術部に入部して仲良くなった。

「今日からお前は、オールド田島だ」

 ある日突然、僕は矢島にあだ名を付けられた。オールド田島になった理由を聞くと矢島は英語の教科書を僕に見せた。

「田島の髪型に似てるだろ」

 ビートルズの写真を見せながら矢島は言った。

「それならビートル田島の方がいいんじゃないの?」と僕が提案すると「ビートルはカブトムシだろ。ダセーよ」と矢島は笑った。それから矢島は説明を続けた。

「田島の髪型は今どきのマッシュルームヘアーっていうより、古くさいキノコ頭って感じだからオールドの方が合ってるんだよ」

 ド直球の悪口に驚いた。すると矢島は僕を真っ直ぐ見つめて言い切った。

「ディスってない。むしろ、リスペクトだ」

 矢島はオールドと呼ばれることの素晴らしさを真剣に捲し立てた。なぜ、カブトムシはダサくてオールドがかっこいいのか、矢島の説明は半分くらいしか理解できなかった。

 矢島の言っていることはいつもよくわからない。矢島は普段から突拍子もないことを言うので周りから誤解されやすかった。変な奴だと矢島を嫌う人もいた。でも僕は矢島のこういうところが嫌いじゃなかった。

「まぁ、いいけど」

 その日を境に僕は矢島からオールドと呼ばれるようになった。

 

「オールド、コンクールで何書くか決めたか?」

「まだ」

「俺も。昨日、田所先生がなるべく早く決めろって言ってたぞ。準備しなきゃいけないからって」

「もう、コンクールの時期か」

「そういえば、来週のデッサンのモデル、山口先輩が来るらしいぞ」

「まじ? 山口先輩って進学校の女子校に行った、あの山口先輩?」

「そうそう。橋本先輩と付き合ってた噂あったよな。もう別れたのかな?」

 矢島は意外にゴシップ好きだ。僕も興味なんてなさそうな顔をして、根掘り葉掘り矢島に聞いてしまう。

 階段を上がり矢島と別れ、それぞれの教室に入って行った。

 僕は自分の席に着くと、昨日数学の宿題があったことを思い出した。数学の授業は2時間目だ。今からやれば間に合うだろう。僕は数学のノートを開き、カチカチとシャーペンを2回押した。

 昨日はヒント屋を出た後そのまま塾に行った。塾から帰ってくると、ご飯と風呂を済ませてすぐ寝てしまった。なんだかすごく疲れていた。

 昨日ヒント屋でもらった色鉛筆は勉強机の上に置いたままだ。色鉛筆はもらったけど、どうすればいいのかわからない。もらった色鉛筆で何かを描けばモヤモヤは晴れるのだろうか。それも期待はできないな、と思っている。だって24色入りの色鉛筆なのに6色しかないのだから描けるものも制限されてしまう。6色で何を描けっていうんだ。

 それに正直なことを言うと昨日ヒント屋の店主に洋ちゃんのことを話したら少しスッキリした。モヤモヤは人に話すと楽になる。洋ちゃんとはきっと卒業までこのままの関係だろう。モヤモヤすることもまた起こると思う。でもモヤモヤしたらまた誰かに話せばいい。その繰り返しでもいいかな、なんて思った。

 

「今年も夏休み明けに児童画コンクールが始まります。今年のテーマは【空】。サイズはA2で、画材は自由。水彩、版画、クレヨン、貼り絵。何でもオッケー。画材はこっちで準備するから早めに……おい!」

 部員が一斉に後ろのドアに注目した。運動部の男子たちが、ふざけてドアの隙間から美術室を覗いていた。

「お前ら、早く部活行け!」

 田所先生は廊下に出ると、大声で男子生徒たちを怒鳴った。注意された男子たちは騒がしく廊下を走って行った。笑い声が小さくなっていく。

「橋本、悪い。ドア閉めて」

 教室に戻った先生は後ろの席に座っている3年生にドアを閉めるよう指示をした。ドアが閉まるのを待って、先生は説明を続けた。

「とりあえず、夏休みに入るまでにコンクールの空のテーマでどういうものを描くか決めること。夏休みは集中して作品作りを進められるように。あと、なるべく早めに画材をどうするかも決めて。それと、3年生は受験との兼ね合いも考えて活動をすること。3年生で夏休みの部活のことで相談がある人は来るように。……あと、毎年コンクールで何を描くかギリギリまで決まらない奴いるけど、自分がおもしろいと思ったものを描けばいいから。パッションだよ、パッション」

 そう言って、田所先生は自分の胸を軽く叩いた。部員たちが笑う。

 美術部の顧問の田所先生はいつも授業や部活で「自分がおもしろいと思うものを描けばいい」と口癖のように言う。生徒の作品を褒める時に、おもしろいと表現するのも田所先生の口癖だ。

「今日の部活もテーマの資料探しの時間にあてるから。図書室に行きたい奴は行ってもいいし、描ける奴はガンガン作品作りに取り掛かって。1年生は初めてのコンクールでわからないこともあると思うので、質問がある人は俺のところに来てください。はい、じゃあ始めー」

 部員が動き始める。教室が一気に賑やかになった。

「図書室、行ってきまーす」

 3年生の何人かの男子部員が教室を飛び出した。

「お前ら、遊ぶんじゃねーぞ」

 田所先生が一喝した。その側で1年生の女子数人が田所先生に質問をしに近づいていく。

 田所先生はジャージを脱いでTシャツになっていた。田所先生のTシャツには洗っても落ちない絵の具の跡が付いていた。田所先生のヨレヨレのTシャツ姿を見て、僕は去年の新入生歓迎会をふと思い出した。

 

 僕が1年生の時、美術部に入部すると美術部恒例の新入生歓迎会が行われた。校舎裏の人通りが少ない場所に1年生は集められた。汚れてもいい服で来いと言われたから、何か創作するのだろうと思った。僕は汚れてもいい服が半袖しかなくて、4月に半袖はまだ寒かった。

 集合場所に着くと田所先生と当時の3年生の数人が先に来て準備をしていた。真っ白な画用紙が7枚並べられていた。高さと横幅が2メートルくらいある、大きな正方形の画用紙だった。薄い板に画用紙を貼り付けて立てられるようになっていた。地面にはペンキを塗るような刷毛と絵の具の入った缶が置いてあった。

「これから何をするんですか?」

 1年生からの質問に田所先生はニヤリと笑った。

「美術部の洗礼だ」

 田所先生の言葉に僕たちは首を傾げた。

 集合場所に来た順から地べたに座り待っていた。僕は体育座りをして足で砂を寄せ集めていると、矢島にどこの小学校から来たのか話しかけられた。

 2年生、3年生の他の部員たちも全員集まると、田所先生は改めて、僕ら1年生の新入部員に歓迎の言葉をくれた。

「今日はこれからペインティングをします」

 そう言うと、先生は今日の歓迎会の説明を始めた。学年ごとに2グループずつに分かれて、この巨大な画用紙に好きなものを好きなように描いてほしいと言った。グループでテーマを決めて描いてもいいし、個人が好きなようにそれぞれ描いてもいい。

「固く考えず、とにかく楽しみましょう」

 田所先生はパンっと両手を合わせた。すると、先生はくるりと僕らに背を向けた。先生は地面にあった刷毛を拾い、黄色の絵の具の缶に躊躇なく刷毛を突っ込んだ。屈んで拾ったボールを投げるように勢いよく刷毛を画用紙に当てた。パンっと黄色が弾けた。最前列に座っていた一年生の肩がビクッと動いた。

 次に緑色の缶に刷毛を突っ込んだ。ドンと、力強く刷毛を画用紙に押し当てる。フッと力を抜き、刷毛を右に流す。流れるように刷毛を捨てた。画用紙の上の黄色と緑がスーッと線のように垂れていく。

 それから先生は刷毛を使わず、両手で描き始めた。画用紙の上で黄色と緑が混ざり次第に曲線が描かれていった。先生の手が上下に動く。先生の肘に絵の具が付いた。でも先生は気にしなかった。肘に絵の具が付くことを気にしている方が格好悪いことのように、先生は気にしていなかった。

 僕には先生が何を描いているのか、何を描こうとしているのかわからなかった。背中を丸めて座っている人のようにも見えた。でもやっぱり何を描いているのかわからなかった。僕は画用紙よりも先生の真剣な横顔ばかり見つめていた。絵を描いている先生はすごくかっこよかった。

 突然のことに圧倒される僕ら1年生を先輩の2年生や3年生はどこか誇らしげな顔で見ていた。

「と、まぁこんな感じで」

 先生は手を擦りながら振り向いた。両手に付いた絵の具を自分の白Tシャツで拭いていた。ハンカチを持っていなくてトイレから出てきた子どものようにお腹と腰を撫でていた。

「じゃあ、みんなも始めようか」

 田所先生の合図と同時に2年生、3年生はサッと立ち上がり、お尻の砂を払った。

 1年生はまずグループ分けからすることになった。当然のように1年生のグループ分けは自然と男女で分かれた。僕は矢島と同じグループになった。

 2年生や3年生の方を見るとグループごとにテーマをどうするか、絵の具は何色を使うか話し合っていた。

「……テーマとかどうする?」

 先輩たちの会話を盗み聞きして僕は遠慮がちにメンバーに聞いた。

「自由にしようぜ」

 矢島がそう言った。

「自由って、みんなが自由に描くってこと?」

「違う。テーマが【自由】ってこと」

 そう言って矢島は「フリーダム」と叫んだ。そして矢島は刷毛を手に取って、真っ白な画用紙に大きく温泉マークを描いた。僕を含めた他のメンバーも意味がわからなくて呆然としていた。矢島にとって自由とは温泉なのか。そんなことよりも、こんなに躊躇なく画用紙を汚せる矢島をすごいと思った。

「変な奴」

 これが僕の矢島の第一印象だった。だけど矢島が突然訳がわからないことをしてくれたおかげで他のメンバーも僕も刷毛を手に取ることができた。

 はじめ僕は服が汚れることを躊躇しながら描いていた。でも途中からどうでも良くなった。大きな物に大きく描く。体を使って何かを描くという経験がなかった僕にとって美術部の洗礼はすごく新鮮で楽しかった。さっきまで半袖で寒かったのに今はもう寒くなかった。

 田所先生の方を見ると、さっきの絵の続きを描いていた。画用紙が7枚あったのは先生の分だったのか。先生は何を描くのだろう。

 田所先生はしばらくすると部員たちの様子を見に回った。僕たちのグループの所に来て矢島が描いた温泉マークを見て先生は笑った。テーマは自由だと僕が教えると、先生は声に出して笑った。

 最後片付けの時、田所先生はお調子者の3年生の所へ静かに近づいて行った。先生はカーペットの埃を取るコロコロのようなローラーを隠しながら男子部員の背後に立った。男子部員が先生の気配に気づく前に先生は彼の背中にコロコロをした。男子部員の背中にはオレンジの絵の具が付いた。ワッと弾けるような笑いが起きた。コロコロされた男子部員も負けずと先生の背中に手形を付ける。そしてまた笑いが起こった。

「お前、ふざけんなよー」

 田所先生はずっと楽しそうだった。楽しそうな先生を見ていると、僕までワクワクしてくる。大人が楽しそうだと、なぜこんなにワクワクするのだろう。楽しそうな大人を初めてかっこいいと思った。中学生になって初めて好きになった先生は田所先生だった。

 

 美術室を見渡すと部員の半分も残っていなかった。ほとんどの人が図書室に行ったのか、説明だけ聞いて今日は帰ってしまったのか。

 矢島を見るとまだ教室に残っていた。塾の宿題でもまたやっているのか、矢島は机で何やらノートに書いていた。

「今年のコンクールのテーマは空か」

 考えるのが面倒だな、と僕は憂鬱になった。テーマが抽象的で壮大だと解釈が広がるから苦手だった。たくさんの解釈があるということは、それだけ選択肢がたくさんあるということだ。選択肢が多いのは時に厄介だった。何を描けばいいのかわからなくなってしまう。

 選択肢の多さに困る場面は普段の生活にもある。メニューがやたらと多い定食屋は困る。はじめ生姜焼きが食べたかったのに他のメニューに誘惑される。結局、生姜焼きと全く違う海鮮丼を頼んだりしてしまって食べ終わってから本当は生姜焼きが食べたかったのに、と後悔するのだ。

「アイデアでも探しに行くか」

 僕が席を立つと矢島が後ろから駆け寄ってきた。

「オールド。聞いて、聞いて。俺めちゃくちゃ良いこと思い付いたんだ。今年のコンクールのテーマは空だろ? 俺、題名を先に決めたんだ。題名は【そら】。でも宇宙と書いて「そら」と読むんだよ。だから空というテーマで俺は宇宙を描くんだ!」

 そう言うと、矢島はノートを僕に見せてきた。【宇宙】の漢字の上に「そら」とルビが振られていた。

「本気と書いてガチと読む、みたいな?」

 僕がそう言うと、矢島は一瞬止まって僕が言ったことを無視して自分の話を続けた。

「空ってテーマで宇宙を描くなんて普通そんな発想できないよな。俺、天才かもしれない。パクるなよ、オールド」

「パクらねーよ」

 矢島は肩を揺らしながら笑っていた。つられて僕も笑ってしまった。矢島も宇宙図鑑を探しに行くと言うので一緒に図書室へ向かった。

「俺、絶好調!」

 矢島は大声で絶好調と繰り返しながら廊下を歩いた。

「矢島、声」

 その度、僕は矢島の声のボリュームを指摘する。

 自分が絶好調の時に「絶好調」と言えてしまう矢島の真っ直ぐさに救われる時がある。でも、その真っ直ぐさが時々すごく鬱陶しい。鬱陶しいと思うのは多分羨ましいからだ。僕は矢島のようにできない。だから羨ましい。でも羨ましいから鬱陶しいんだ。

 図書室には美術部の部員しかいなかった。遊ぶなと言われていた3年生たちは、予想通りふざけて遊んでいた。

 矢島は図書室に入ると一目散に図鑑コーナーに向かって行った。僕は適当に目に入った本を手に取り、パラパラ、ページをめくった。

「自分がおもしろいと思うものを描けばいい」

 田所先生の言葉が頭に過ぎる。本を開いていても内容が頭に入ってこない。

 自分がおもしろいと思うものが他の人がおもしろいと思わなかったら? 自分が良いと思うものが他の人には良いとは思われなかったら?

 本を元の場所に戻した。

「なんで、これを描いたの?」

 そう聞かれた時の言い訳をつい考えてしまう。僕はいつだって描きたいものに自信が持てない。

 本をまた手に取った。本を手に取っては眺め、元の位置に戻す。また本を手に取っては眺め、また元の位置に戻す。今日の僕は図書室でそれを繰り返すだけだった。

 僕は時折、矢島の姿を探した。矢島は図書室では静かだった。宇宙図鑑を読む矢島の横顔は真剣だった。なぜか、その横顔に話しかけることができなかった。今日の矢島は鬱陶しいな、と僕は思った。

 

 ❇

 

 コンコン。

 職員室のドアを2回ノックする。

「失礼しまーす」

 声を添えながらドアを開けた。コーヒーの香りが充満している。ひんやりした空気が肌に触れた。

 田所先生の席は椅子に掛かっているアディダスのジャージが目印だ。ジャージは椅子に掛かっているが田所先生は席にはいなかった。

「田所先生?」

 ドアの近くに座っている数学の先生が僕に気付いて振り向いた。僕が頷くと喫煙所だと教えてくれた。すると、ちょうど田所先生が反対のドアから職員室に戻ってきた。数学の先生は田所先生の姿を確認すると、自分の役目は終わったかのように僕に二度頷くと手元のパソコンに視線を戻した。

 僕はアディダスのジャージに向かって職員室の中へ入って行った。

「おぉ、田島。どうした? お前、焼けたなー。夏休み、エンジョイしてるみたいだな」

 田所先生は日焼けした僕を椅子に座って見上げた。お盆休みはどこか行ったのかと聞かれた。先生からほんのりタバコの匂いがした。

「家族でキャンプに行きました」

 僕がそう答えると、田所先生は心底羨ましそうな顔をした。

「今年の夏休みはキャンプに行こう」

 7月の梅雨明け前、まだジメジメする時期に父さんが突然言い出した。

 小学生の頃、夏はよく家族でキャンプに行っていた。そういえば、ここ何年かは家族でキャンプに行ってなかったな、と僕は思った。

「いいね! 来年は章一が受験で行けるかわからないし、せっかくだから行こうよ」

 母さんも乗り気だった。

「キャンプか、いいなー。田島はキャンプで何か作った?」

 田所先生は聞いた。

「キャンプと言えば、やっぱりカレーなんで、カレーと言いたいところですが……」

 僕がよくあるメニューを挙げると僕の話を最後まで聞かず、キャンプにカレーは欠かせないな、と田所先生は頷いた。

「俺はキャンプと言ったら、あんかけ焼きそばだな」

 先生が意外なメニューを言うので僕は驚いた。

「キャンプの終盤になると、使い切らなかった具材が余ったりするだろ? そういう時は、あんかけ焼きそばにするんだよ。余った具材を鍋に全部ぶち込んで炒めて、適当に味付けしてから片栗粉を溶いて、あんを作る。鉄板に油を多めに引いてプレーンの焼きそばに少し焼き目を付けて、あとは焼きそばにあんをかければ完成だ。焼きそばがない時はご飯にすれば中華丼にもなる」

 意外に簡単だよ、と先生は言った。

「キャンプで食うからうまいんだよなー」

 キャンプで食べると何でも美味しく感じられるのは確かに不思議だと僕も思う。

「で、何だっけ? 田島の用件は」

 先生は思い出すように僕に聞いた。僕は一つ呼吸を置いて話を切り出した。

「田所先生、今からコンクールに出す絵、変更してもいいですか?」

 先生は言葉の意味を考えるように椅子の背もたれに背中を預けた。

「田島、もう夏休み終わるぞ。今描いている絵、しっくりこないのか」

「時間がないのは、わかっています」

 さっきまで笑顔だった先生の顔が曇った。先生は腕を組んでから自分の頭を掻いた。僕はなぜか申し訳ない気持ちになった。だけど、どう説明をすればいいかわからず僕は黙ってしまった。

 夏休みに入る前、僕はコンクールで描きたいものがなかなか決まらなかった。去年は矢島が何を描くか決められなかったのに今年は宇宙を描くと決めると矢島はあっという間に作品作りに没頭していった。去年とは対照的な矢島に僕は焦りを感じていた。

 今年の夏はキャンプに行こうと父さんから言われた時、僕は思い立った。アルバムから小学生の頃キャンプで撮った写真を引っ張り出した。真っ青な空の下、父さんとカメラに向かってピースをして笑っている僕がいた。

「これなら、いいか」

 写真を見て、晴天の空とキャンプなら言い訳ができそうだなと思った。ホッとした。ホッとしたのは描きたいものが決まったからではない。みんなに遅れを取らなくて済む、安堵だった。

 

 職員室のドアが開いて僕は反射的にドアの方を見た。いつの間にか数学の先生が席にいなかった。そういえば、あの先生も喫煙者だったことをふと思い出した。

 黙ってしまった僕に田所先生は少し困った様子で聞いた。

「なにか理由があるんだろ。こういうこと田島は思い付きで言わないだろうからさ」

 矢島なら言いそうだけどな、と先生は苦笑いしながら付け加えた。

「えっと……」

 僕は自分の頭を触った。

「今描いている絵でもいいかなと、思うんですけど……。今の絵は描きたくて描いているというよりは、テーマで何を描くか決められずに何もしていない状況から抜け出したくて描いている感じだったんです」

「てことは、今は描きたいものがあるってことか?」

「はい」

「ちなみに何を描きたいと思ったの?」

「夕焼けです」

「夕焼け?」

 田所先生は天井を見上げながら、また椅子の背もたれに背中を預けた。

「なんで? 別に、夕焼けが悪いとかじゃなくて。なんで夕焼けを描きたいと思ったの?」

「夕焼けしか描けないと思ったんで」

 先生は首を傾げると、もっとわかりやすく説明して、と眉間を寄せた。

「えっと、何というか、6色しかない色鉛筆を持っていて。元々、僕の物じゃないんですけど、ある人から色鉛筆をもらったんです。本当は24色入りなんですけど、6色しか残っていない色鉛筆をもらったんです。その色鉛筆を使って何か描きたいなと思って。色が少ない中で、僕が描ける絵ってなんだろうって考えたんです。で、残っている6色で描けそうなものを考えたら、夕焼けなら描けるかもと思って。それを描いてみたいと思ったんです。……そんな感じです」

 先生は僕の説明を一生懸命理解しようと目をつぶりながら話をまとめた。

「なるほどね。つまり、自由に色が使える状況で描くんじゃなくて、限られた色の中で自分が描けそうなものを田島は描きたいって思ったわけね。で、その描けそうなものっていうのが、夕焼けだったわけか」

「そうです、その通りです。本当は、こんなこと、やる意味ないのかもしれないんですけど初めて描いてみたいって僕思ったんです。全部揃ってない、未完成の物で何かを描いてみたいって思ったんです。限られた色の中で描くってことに意味があるというか、そこに答えがありそうな気がするんです。どこまで自分は描けるのかなって、試してみたいんです」

 先生は腕を組んで僕をじっと見つめていた。先生は僕から何かを汲み取ろうとしている表情だった。僕は視線を外した。

「試してみたい、か」

 手のひらで顎を擦りながら先生は反芻した。聞こえないくらいの小さい声で僕は頷いた。先生は腕を組み、何かを想像をするように考えると「うん」と頷いた。

「限られた色で描くって、案外おもしろいかもな。色が限られてくると工夫するのが大変だけど、それが逆に作品の面白味にもなると思うし。でも、相当大変だぞ。かなり田島の腕が試される」

 途中で投げ出すことを許さないような顔で先生は僕を見つめた。一瞬怯んだが僕は覚悟を決めてコクンと頷いた。すると先生は優しい笑顔に変わって「それに、アレだろ?」と話を続けた。

「田島が言う、試してみたいは、デッサン力とか画力の腕を試すって意味だけじゃないんだろ。自分の気持ちを試すみたいな、そういう意味もあるんだろ? よくわかんねーけど」

 なんとなくわかるよ、と先生は微笑んだ。

 僕は少しだけ恥ずかしくなって俯いた。でも僕が言いたいことが田所先生にはなんとなく伝わっていて嬉しかった。今はまだ、なんとなくでいいんだ。僕だってまだ、なんとなくしかわからないのだから。

「それにな、田島」

 田所先生は真剣な顔に戻ると口調を強めた。

「描きたいものがあるならそっちを描いた方が良いに決まってる。意外に描きたいものって簡単に見つからないもんなんだよ。無難なものを選ぶのはよくあることだ。だから描きたいものが見つかるってすごいことだと俺は思うよ。まぁそれが夏休み前ならもっとよかったけど。田島、夏休みの宿題は? 終わったのか? 宿題に支障が出るようなら俺は考えるけど」

「ほぼ、終わっています。あとは生活記録と英語の単語ノート、数学の問題集2ページだけです」

「美術の宿題は?」

「終わっています」

「よし!」

 田所先生は応援するように親指をグッと立てた。

 2年生は夏休みの美術の宿題で選挙啓発ポスターを提出しなければならない。これもコンクールに出される作品だ。美術部以外の生徒は選出された生徒のみがコンクールに応募されるが美術部の生徒は全員参加となっている。これにも田所先生の厳しいチェックが入る。だからこちらの作品も手が抜けなかった。

 でも僕は宿題のポスターの方が描いていて楽だった。テーマが抽象的で壮大なものよりも決められた文言や具体的な設定の方が描きやすい。

 ドアの方を見ると数学の先生はまだ席を外していた。喫煙所に行ったのではなくテニス部の様子を見に行っているのかもしれない。

「もし、宿題がやばそうだったら矢島に助けてもらいます」

「そうだな」

 矢島の名前が出て先生と僕は笑った。

「矢島って、ああ見えて結構いい奴なんです」

 僕はさっき美術室で矢島に言われたことを田所先生に教えた。

「これからコンクールの作品を描き直そうと思う」

 そう、僕は矢島に伝えた。

「なら夏休みの宿題、見せてやるよ」

 矢島は特に驚いた様子もなく、そう言った。

「そこかよ」

「明日、宿題持ってくるから」

 矢島は何でもないような言い草だった。作品の手伝いをするのではなく夏休みの宿題のサポートをしようとするところが矢島なりのエールだと僕は知っている。僕は学校の宿題はほとんど終わっているから塾の宿題を手伝ってほしいと矢島に頼んだ。

「いい奴だな」

 田所先生は僕の話に頷いた。

「矢島って、ああ見えて意外に頭いいよな」

 今度は田所先生が僕に同意を求めた。

「そうなんです。矢島、この前数検3級に合格して、今、準2級の勉強しているんですよ。あいつ、塾の友達とどっちが早く準2級取れるか勝負しているみたいで」

「すげーな」

 田所先生が感心しているのが何だか嬉しくて僕は自分のことのように矢島の話をした。

「田島も矢島と同じ塾だっけ?」

「いえ」

 僕は首を横に振った。

「あいつの塾かなりレベル高いんで」

 僕は訂正する。

 塾の宿題で解けない問題が出された時、僕はいつも矢島に頼る。時々、僕が矢島でも苦戦する問題を持ち込むと矢島は楽しそうにシャーペンを走らせた。そんな矢島を見ていると僕は少しだけ嬉しかった。僕の塾よりも矢島が通っている塾の方が何倍も頭がいい。けれど僕の塾だって矢島が簡単に解けない数学の問題をやっているんだ。なんて、誇らしい気持ちになって嬉しかった。それはきっと僕の小さなプライドだ。

「賢いのは良いことだけど、矢島は学校で気の合う奴とかいるのか?」

 田所先生は笑って聞いた。

「矢島はそういうこと、あんまり気にしないんじゃないですかね」

「そっか、田島もいるしな。いや田島が矢島に振り回されたりしてなきゃ良いんだけどさ。大丈夫か?」

 田所先生は冗談っぽく聞いているけれど僕や矢島のことを気にかけて言っているのだと僕にはわかった。矢島が変な奴だというのは周知の事実だ。でもそれ以上に矢島のことをよくわかっていない人が多いのも事実だと僕は思う。

「オールド、俺さ、学校の奴らより塾の奴らと話している方が楽しいんだ。自分でいられる気がする」

 前に、ふと矢島がそんなことを漏らしていたことを僕は思い出した。普段、学校では矢島は自由奔放に振る舞っているように見えた。言いたいことも言っているように見えた。周りから変な奴と言われることなんか全然気にしていないと思っていた。でも案外矢島も何かと戦っているのかもしれない、と僕は思う。

「でも僕は、矢島の変なとこ嫌いじゃないです」

 先生の問いに少し考えたふりをして僕は笑って答えた。「俺も」と、田所先生も優しく同意してくれた。

 僕は矢島がいない所で矢島のことをつい人に話してしまう。それはきっと矢島がそういう奴だからだ。

「今日の部活、誰が来てる?」

 話がひと段落して、田所先生は部活の様子を聞いた。さっき美術室にいた部員の名前を僕は伝えた。

「あとで様子見に行く」

 そう言うと先生は僕の腕をポンと軽く触れた。僕も軽く頭を下げてドアへ向かった。

「失礼しましたー」

 声を添えて僕は職員室のドアを閉めた。

「あれ、田島くん?」

 振り返ると同じクラスの飯塚さんが立っていた。飯塚さんは体操着姿にストップウォッチの紐を5個くらい腕に通して持っていた。

「田島くん、今日登校日だっけ?」

「違うよ」

「え? じゃあ夏休みの宿題で質問に来たの?」

「ううん、部活だよ」

「えー? 美術部も夏休み、部活あるの?」

「うん、毎年あるよ」

「へぇ。結構、ガチでやってるんだね。てか、田島くん焼けたね。……いや、あたしの方が黒いか」

 飯塚さんは自分の腕を見ながら自分の言葉に自分で豪快に笑った。

「田島くん、じゃね。バイバーイ」

 飯塚さんはストップウォッチを持っている方の手を振った。プラスチックがぶつかる音が響く。僕も小さく手を振った。

「しつれーしまぁす」

 僕の後ろから飯塚さんのよく通る声が廊下に響いた。

 

 ❇

 

「夏季大会が終わり、3年生は本格的に受験に向けて準備を始めることになりますが……」

 壇上の校長先生から視線を外し、キョロキョロと周りを見渡してから僕は最後裕也くんの後頭部に視線を着地させた。僕の前には美術部の先輩の裕也くんが立っている。いつもは同じクラスの早川の後頭部を見ているからか今日はなんか変な感じだ。

 裕也くんは僕と同じ小学校出身で、家も近所だから昔からよく遊んでもらった。小学生の頃から裕也くんのことは「裕也くん」と僕は呼んでいる。それは中学生になっても変わっていない。

「描きたいものが決まらない時、裕也くんならどうする?」

 裕也くんのつむじを見ていると前に裕也くんと一緒に帰った時のことを僕は思い出した。

 夏休みに入る前の部活終わりに裕也くんと一緒に帰ったことがあった。僕は、ずっと裕也くんに聞いてみたかった質問をした。横に並ぶ裕也くんの顔を僕は覗いた。裕也くんは僕の質問の意味がよく理解できない様子で顔にハテナが付いていた。

「描きたくない時は、絵なんて描かないだろ」

 裕也くんは、そう答えた。僕は黙って前を向いた。今度は僕が裕也くんの回答に、よく理解できない顔で考えてしまった。僕は絵を描きたくない訳ではなかった。描きたい気持ちはある。けれど何を描けばいいのか悩むこととは別だった。裕也くんの回答は僕が聞いた質問と少し意味が違うように思えた。それでも裕也くんらしい答えだな、と僕は思った。

「裕也くんって大人みたい」

「そうかぁ?」

 僕が独り言のように呟いた言葉に裕也くんはちゃんと反応してくれた。

 

「……全員、気をつけ」

 条件反射で、背筋を軽く伸ばす。

「……礼」

 教頭先生の合図で全校生徒が礼をした。校長先生の話が終わると僕は少し緊張してきて体が揺れているのがわかった。

「続いて、今季の大会及び、コンクールの表彰式を行います。名前を呼ばれた生徒は壇上へ上がってください」

 マイクのキーンと音がスピーカーから割れた。生徒が少し騒つく。けれど、教頭先生は何も動じず進行する。

「陸上部。女子100メートル」

 僕の斜め前に同じクラスの飯塚さんが並んでいた。陸上部の女子部員の名前が呼ばれた。その中に飯塚さなえの名前も入っていた。

 

「橋本と田島、ちょっといいか」

 先週の金曜日の部活終わり、僕と裕也くんは田所先生に声をかけられた。来週の月曜日、朝礼の後に表彰式が行われると知らされた。

「橋本と田島は校長先生から賞状をもらうから、学年の列には並ばずに体育館の一番右に並ぶように。いいな?」

「そうだ。まだ、学校でも表彰式があるんだった」

 裕也くんは思い出したように呟いた。僕は裕也くんが言っていることがよくわからなかったので説明を促すように裕也くんの方を見た。

「俺たち、今年のコンクールで賞を取っただろ? コンクール会場での表彰式は終わったけど、学校でもまた表彰式をやるんだよ。運動部の夏季大会の表彰も合わせて」

 裕也くんは表彰式の常連なので慣れている様子で教えてくれた。

「まぁ、大会やコンクールで成績を残した生徒のお披露目会ってやつだ」

 田所先生は簡単に話をまとめた。

 毎年夏服から冬服に制服が変わる衣替えの時期に、夏期の大会やコンクールで賞をもらった生徒たちに学校で表彰式が行われる。今年のコンクールで、僕は2年生の部で佳作を獲った。僕の前に並ぶ裕也くんは3年生の部で審査員特別賞を獲ったのだ。

「続きまして、テニス部男子、シングル3位。3年 山本樹」

 テニス部の女子生徒が賞状を手にして壇上の階段を降りていた。テニス部の男子生徒が壇上で賞状をもらっている。運動部の表彰がもうすぐ終わりそうだった。美術部の番が近づく。鼓動が速くなる。そんな僕に気づいたのか、裕也くんは体を揺らしながら後ろの僕に振り返った。僕と目が合うと裕也くんは歯を見せずに笑った。その顔は「大丈夫だ」と励ましているように見えた。でも歯を見せずに笑ったその顔は「緊張なんかしてんの?」と茶化しているようにも思える。どちらにせよ、先輩の裕也くんが後輩の僕を気にかけてくれたことに変わりはなかった。

「続いて、美術部の表彰です。児童画コンクール、3年生の部。審査員特別賞、橋本裕也」

「はいっ」

 裕也くんは名前を呼ばれると真っ直ぐ前を向いて返事をした。

「2年生の部……」

 教頭先生の声がどこか遠くの方で聞こえる。僕の鼓動は一気に早くなった。

 

 朝礼と表彰式が終わり、生徒たちが教室に向かう。体育館を出る前に、田所先生に一旦賞状を預かってもらった。

「おめでとう」

 田所先生は僕の肩に手を置いた。

 体育館を出ると矢島は生徒の群れの中から僕を探し、近寄ってきた。

「オールド、おめでとう。賞状は?」

「田所先生に渡した」

「そうか。それにしても、まさかオールドが今年賞を取るとは。やっぱり、あのジンクスは本当なのかも」

「ジンクス?」

「そう。締め切りが近いのに作品を描き直した人が、コンクールで賞を取るって噂があるんだよ」

「でも、裕也くんは去年も今年も賞もらったけど、描き直しなんてしてないよ」

「橋本先輩は特別だよ。あの人はすごいからジンクスとか関係ないんだよ」

「ふーん」

 説得力のない説明に僕は頷いた。

 矢島が言っているジンクスとは、おそらく去年のコンクールのことだろう。去年のコンクールで締め切り直前に完成した作品をやっぱり辞めると言い出した先輩がいた。その先輩はみんなに反対されながらも一から違う作品を描き直した。結果、3年生の部で最優秀作品賞を取った。この話は長らく美術部の伝説として引き継がれることになると田所先生も言っていた。

「でも、橋本先輩、今年でコンクール最後なのに審査員特別賞なのは悔しいよな」

 矢島は自分のことのように悔しがった。

「裕也くんは、賞とかそういうのにこだわってないと思うけどね」

 僕はそう言うと、今年のコンクールで見た裕也くんの絵が僕の頭に蘇った。

 今年のコンクール会場で裕也くんの空の絵を見た時、僕は息をするのを忘れるほど、裕也くんの絵に釘付けになった。多分、息を呑むってこういう瞬間のことを言うんだと思った。

【3年 橋本裕也 題名 青空】

 そこには、小さな空があった。ビルとビルの隙間から見上げた、狭くて小さな空があった。黄色と茶色とグレーを混ぜたようなコンクリートのビルの隙間から力強い小さな青空が描かれていた。

 裕也くんの絵の前で僕はしばらく動くことができなかった。スッと、体が絵の中に吸い込まれていくような不思議な感覚になった。自分がまるで本当にビルの隙間からこの青空を見上げているような感覚だった。

 僕はふと想像した。もしこれから先、裕也くんが描いたこの青空が現実に僕の前に現れたとしたら僕はどんな気持ちでこの空を見上げているんだろう。ビルの隙間からこの小さな青空を見上げた僕は何を思うのだろう。ビルの隙間から見える狭くて窮屈な青空を狭くて窮屈な社会と重ね合わせ、自分はこんな所からしか青空を見ることができないのかと嘆くのだろうか。それとも迷い込んだ道でふと見上げると、こんな所にも青空があったのかと目の前の小さな青空に希望を抱くのか。裕也くんはどんな気持ちでこの空を描いたのだろう。この青空は絶望か。それとも希望なのか。

「でも、やっぱり」

 僕は大きな空が見たいな、なんて全然関係のないことを思った。

 空と聞いて大概の人はどこまでも続く壮大な空を想像するだろう。むしろ空というものは大きくて壮大なものの象徴でもある。なのに、裕也くんは空と聞いてビルの隙間の狭くて小さな青空を描いた。きっと裕也くんはこの作品をコンクールに出しても最優秀作品賞は取れないことをわかっていたと思う。でも裕也くんは、裕也くんが描きたいものを描いたんだ。描きたいものを描く。それだけのことが、どんなにすごいことか。

「裕也くんは、やっぱり大人だ」

 僕は静かに裕也くんの絵の前から立ち去った。なぜか僕は涙が溢れそうになった。涙の代わりに僕は鼻を擦った。強く、強く、鼻を擦った。この敗北感を本当はずっと前からわかっていた。年齢や技術だけではどうにもならないことに本当はとっくに気づいていた。なのに、なんで僕は認められないんだろう。矢島のように裕也くんを素直に認めたかった。でもそんなことをしたら僕は本当に裕也くんの才能を認めてしまうことになる。それが嫌だった。この期に及んで僕はまだ何を守っているのだろうか。

 

「すいませんっ」

 忘れ物をしたのか、逆方向に朝礼が終わった体育館に向かう一年生の男子が僕に振り返り謝った。ぶつかった腕を押さえて僕は軽く頷いた。僕と矢島の前を一年生の女子たちが駆け抜けて行く。体育館から校舎に続く渡り廊下を僕は矢島と歩いた。

 衣替えの期間だからか、夏服と冬服の生徒はまばらだった。女子には冬服のセーラー服の方が人気なのか、早くから冬服仕様の女子が多い。矢島と僕はまだ夏服のままだった。

「矢島の題名と同じ人、コンクールに何人かいたね。宇宙と書いて【そら】と読むやつ」

「本気と書いてガチと読む奴は、意外と多かったってことだな」

「矢島みたいな天才は意外に多いってことだ」

 僕がおどけて笑うと矢島も仕方なしに笑った。

 校舎に入ると廊下が急に暗くなった。でもすぐに自然光から蛍光灯の光に目が慣れた。階段を上がる時、北原の後ろ姿が目に入った。きっと、横には洋ちゃんがいるはずだ。

「普通の題名だったらいいけど、ちょっと捻ったアイデアが被る時が一番恥ずかしいんだよな」

 矢島は自分の恥ずかしいエピソードを恥ずかしげもなく話す。

「俺の題名も被っていたけど、【青天の霹靂】って題名も多かったぞ。俺が数えただけでも5人はいた。まぁ、だいたいの作品は題名負けしていたけどな」

「5人って、数えたのかよ」

 僕は矢島の話に思わず笑った。コンクール会場で同じ題名の作品をきちんと指折り数えていた矢島を想像すると、なんだかすごく可笑しかった。

 校舎に入ると生徒の数が減っていく。2年生の教室は4階にあった。階段を登るごとに2年生しか残らなくなっていく。僕たちは2階の踊り場を通り過ぎた。

「オールドが佳作を取った夕焼けの絵って、あれ色鉛筆6色で描いたんだろ? 6色だけってすごいよな。俺も来年は6色で描いてみようかな」

「えー。人にはパクるなって言うくせに、自分はパクるのかよ」

 へへ、と矢島は笑った。そして、何かを思い付いたように矢島は僕に顔を向けた。

「良いことを思いついた。今日からお前は、ニューオールド田島だ」

 突然、矢島が言い出した。また変なあだ名を命名されるのか、と僕は嫌な予感がした。

「なんで、ニューオールド田島なの?」

 僕は一応聞いてみる。

「オールド、いいか。普通は、色鉛筆6色で絵を描くとか無理だろ。でも、無理なことに挑戦するのは新しいことだと俺は思う。だから、もうオールドはただのオールドじゃない。ニューなんだよ。ニューオールドなんだよ。今日からお前は、ニューオールド田島なんだよ」

 僕は黙って矢島の話の続きを待った。矢島は、自分の発見に興奮するようにニューオールド田島の説明をした。それはインドの話に繋がっていた。

「インドの首都はニューデリーって授業で教わっただろ? でも、本当は、デリーって中に、オールドデリーとニューデリーがあるんだよ。それはお前も同じで、オールドの中にもオールドオールドとニューオールドがあるんだよ。で、今回の斬新な発想はニューだから、ニューオールド田島になるわけ」

 矢島はずっと意味のわからないことを言っていた。僕は矢島の説明について考えるのを早々に諦めた。

「それに、オールドよりニューオールドの方が響きもかっこいいだろ?」

「どっちも同じだよ」

 僕は鼻で笑ってやった。でも矢島が僕のことをニューオールドと呼ぶようになったら、僕がオールドからニューオールドに変わった理由をまた他の人に説明しなくちゃならない。なんで矢島にオールドと呼ばれているのか僕はこの質問をこれまでに何度もされてきた。その都度、僕はビートルズの髪型の説明をした。説明を聞いた人は、理解できない顔で僕のことを見るけれど、説明している僕だって理解できないのだから仕方ない。オールドがやっと定着されてきたのに、また振り出しに戻るのか。でも不思議と嫌な気分ではなかった。

 4階に着くと、矢島とは階段の前で別れた。矢島は自分の教室へ戻った。僕は教室には戻らず、担任の先生が来る前にトイレに行った。

 トイレのドアノブを掴むと、内側からドアが開いた。

「あ、ごめん」

 洋ちゃんが出てきた。洋ちゃんは外に人がいるとは思っていなかったようで少し驚いた顔をしていた。僕は洋ちゃんが通れるように道を開けた。僕らは入れ替わるように、すれ違った。

 さっきの朝礼でバスケ部の表彰はされなかった。今年の夏季大会はダメだったのか、と僕は察した。洋ちゃんは壇上の上で賞状をもらった僕に拍手をしてくれただろうか。

 用を済ませると鏡の前で僕はゆっくり手を洗った。

「なんで、夕焼けを描こうと思ったんだっけ」

 鏡の中の自分の顔を見つめながら、ふと思った。コンクールで佳作まで取ったのに夕焼けのアイデアを僕はすっかり思い出せなくなっていた。なんだっけ。斜め上を見つめて考える。夏のキャンプ場が頭に浮かんだ。そうだ。色鉛筆6色で夕焼けを描くアイデアは、今年の夏、家族でキャンプに行ったのがきっかけだったんだ。

「玉ねぎスープだ」

 田島家のカレー粉事件を思い出した。気づくと僕は声を出さずに笑っていた。

 今年の夏に行った久しぶりのキャンプは楽しかった。昼間はキャンプ場の近くの川でバーベキューをした。虫除けスプレーを何度もしているのに僕の足には蚊に刺された跡が残った。

 夕飯はキャンプ場の洗い場を借りて、家族でカレーを作ることにした。父さんは火起こし担当で僕と母さんは料理担当になった。玉ねぎの皮を剥いている僕の横で父さんは火起こしに苦戦していた。

「家なら簡単に火が着くのにキャンプだと火を起こすのも一苦労だね」

 僕は他人事のように父さんに言った。

「そうだな。でも、便利なことは良いことだけど不便もなかなか楽しいぞ」

 父さんは新聞紙をくしゃくしゃに丸めながら答えた。不便が楽しい、か。キャンプの醍醐味だな、と僕は思う。キャンプとはわざわざ不便を楽しみにいくものだ。

「カレー粉がない!」

 突然、母さんがハッと大声を出した。僕と父さんが驚いて母さんの方を見ると、母さんは保冷バッグや野菜が入っているビニール袋の中を勢いよく漁っていた。

「買ったはずなんだけど」

 何度もそう言いながら母さんは手当たり次第バッグの中を探していた。そんな母さんを見てカレーを作るのにカレー粉を忘れる人が本当にいるんだな、と僕は思った。

「母さんって、漫画に出てくる人みたいだね」

「何それ? どんな漫画よ」

 冷静に母さんに言い返された。

「カレーは諦めよ。家に居ればすぐスーパーに買いに行けるけど、ここじゃ無理だから。でも不便の中でどう工夫するかが大事よね」

 母さんはカレーを諦めると、さっき父さんと僕の会話を聞いていたのか不便という言葉を強調しながら自分で自分の言葉に納得していた。父さんは、母さんが漁ったバッグの中をもう一度念入りに探していた。でも本当にカレー粉が無いとわかると父さんも母さんと同じくあっさりカレーを諦めた。切り替えの早い2人だ。夕飯にカレーはやめて、違う料理を作ることにした。僕は玉ねぎだけ途中まで切っちゃったから、玉ねぎスープを作ると提案した。

「章、ナイスアイデア!」

 母さんはカレー粉を忘れたことなんてなかったかのように楽しげだった。

 僕が作った玉ねぎスープは思ったよりも美味しかった。キャンプで食べる物は不思議なことに家で食べる時よりも何倍も美味しく感じられる。玉ねぎスープは胡椒がよく効いていてご飯が進んだ。スープを飲み干すとスープの底に粗い胡椒が溜まっていた。胡椒の辛さを中和させるように僕は少し硬く炊けた白米を口の中に入れた。

 

 引っかかった言葉が頭の中でもう一度再生される。

「不便の中でどう工夫するかが大事よね」

 何かが繋がりそうだった。

「おもしろいと思ったものを描けばいい」

 24の文字が頭に浮かぶ。

「不便もなかなか楽しいぞ」

 そうだ。だから、僕は不揃いの色鉛筆で夕焼けを描こうと思ったんだ。鏡に視線を戻すと鏡の中には変わらず僕が一人映っていた。

「なんか、この絵オールドらしいな」

 矢島は完成した僕の絵を見るとそう言って作品を褒めた。矢島が言うように僕の作品は不揃いの色鉛筆6色だったからこそ描けた夕焼けだった。好きな色を使って描いていいと言われたら、きっとこの作品は生まれなかったと思う。

「僕らしい、か」

 僕の胸に何かが訴えてくる。僕らしいって何だ。洋ちゃんのミサンガ。図書室での矢島の横顔。裕也くんが描いた青空。不揃いの色鉛筆。今日からお前はニューオールド田島だ。

「おーい、田島?」

 キー、とトイレのドアが勢いよく開いた。僕は条件反射で声の方に顔を向けた。

「先生、来たぞ」

 学級委員長の早川が僕を覗き込む。

「ごめん。すぐ行く」

 僕は急いで手を拭いてトイレから飛び出した。立て付けの悪いドアが、またキーと音を鳴らしてドアが閉まった。

 

 ❇

 

 両手でマグカップを包み込む。ココアの熱がマグカップを熱くさせる。マグカップの熱が僕の手を温めてくれる。冷えた指先がジンジンする。

「外、寒いでしょう」

 そう言って、店主はまた僕にココアを出してくれた。ヒント屋の店主と話すのはこれで2度目だ。それなのに、懐かしい友達に会ったような親近感があった。

 僕はヒント屋のカウンターに座ると、店主にいろんな話をした。友達の矢島のこと。美術部の顧問の田所先生のこと。もうすぐ卒業する、先輩の裕也くんのこと。三年生になったら、矢島が美術部の部長をやりたいと言っていること。

 夏、家族でキャンプに行ったこと。母さんがキャンプにカレー粉を忘れたこと。カレーを諦めて玉ねぎスープを作ったこと。

 店主からもらった色鉛筆で、コンクールで作品を描いたこと。その作品がコンクールで佳作を獲ったこと。

 店主は丁寧に僕の話を聞いてくれた。僕は一通り話し終えると、見切り発車で話をしてしまったことに気がついた。そろそろ本題に入らないといけない。ぬるくなったココアは、もう指先を温めてはくれなかった。僕は頭の中で言葉を探す。

「本当は、もっと早くお店に来たかったんですが、もらったヒントの出来事を振り返っていたら頭の中がごちゃごちゃして、どう説明すればいいのかわからなくて。気づいたら季節が冬になっちゃいました。でも、僕、ちゃんとヒントと向き合いましたよ」

「はい」

 店主はゆっくりと頷いた。ココアで口を潤うと僕は口を開いた。

「夏、家族とキャンプに行って僕は毎日便利な生活をしているなと思いました。便利はいいことですよね。でも、それなら不便は悪いことなのかって聞かれたら、そうではないと思うんです。それなら、不便は何なのかって考えて、不便って限られていることかなって思ったんです。最初、不揃いの色鉛筆は、色鉛筆としては不便だと思いました。赤、オレンジ、黄緑、ピンク、あと白と黒。6色の色鉛筆だけで何を描くって、描ける絵が限られてくるじゃないですか。でも、キャンプでカレーを作るはずが、カレー粉を忘れて玉ねぎスープになったように、限られた中で工夫することは結構おもしろいことなんじゃないかと思い直したんです。工夫って、何かを生み出しそうだなって。

 店主は、空と聞いたら、どんな空を想像しますか? 僕は空を想像した時、パァと晴れた日の真っ青な空が思い浮かんだんです。でも、僕がもらった色鉛筆には、青とか水色がないんです。そうすると、青空を描きたくても無理ですよね。でも、オレンジや赤、ピンクがあるなら、夕焼けの空なら描けるかもって思いました。夕焼けって、赤やオレンジのイメージがありますけど、完全に赤やオレンジだけでは、できていないんですよ。夕焼けの空って、上の方はまだ空が青いんです。だから、青や水色を使わずに夕焼けを描くのは本当に難しかった。だから、持っている黒を混ぜて、夜に変わる前の夕焼けを描いてみようと思いました。1日が終わってしまうようで、ちょっと切なくて寂しい気持ちになる、そういう夕焼けの空なら描けるかもって思ったんです。

 それで、コンクールが終わって、しばらく経つと僕が描いた夕焼けの絵が戻ってきました。改めて僕が描いた夕焼けを見たら、なんだか僕らしい空だなって思ったんです。それに、不揃いの色鉛筆って、元々、僕みたい奴だったんだと気付きました。僕がもらった色鉛筆には、赤やオレンジしかなかったんです。青や水色はないんです。それなのに、僕は青や水色を持っている人にずっと憧れていた。青や水色で描かれた空がずっと羨ましかった。でも、空って青空だけが空じゃないですよね。夕焼けの空だって、空なんです。……えっと、何だっけ。何が言いたいかわからなくなってきた」

 僕は頭を触った。店主は僕の言葉をゆっくり待った。

「要は、」

 まとまらない話を僕は必死にまとめる。

「だから要は、みんな持っている色鉛筆は違うんです。みんな、それぞれ持っている色鉛筆が違うから、完成される絵もみんなそれぞれ違うんだと思ったんです。学校でも教科書でも、みんなそれぞれ人間は違う、そう教えてくれますよね。十人十色。でも、その言葉の意味を僕はどれだけ理解していたんだろう。僕は、本当の意味では理解していなかったと思うんです。本当は、みんな違う色なんです。矢島も洋ちゃんも、裕也くんも僕も。それなのに僕は青や水色ばっかりこだわっていた。僕は青空ばっかり描きたがった。僕は青も水色も持っていないのに、青空を描けない自分が嫌いだった。青空を描ける人ばかりを羨んだ。でも、青空じゃなくてもいいんです。今、僕は、僕が描いた赤やオレンジの夕焼けが好きです。そう思えるようになったら楽になりました。僕は、僕が持っている色で僕が描ける絵を描きたいと思いました」

 店主は頷いて、少し間を置いた。少しだけ沈黙が流れた。今度は店主が話す番のような気がして、僕は店主の言葉を待った。

「そうですね。人にはそれぞれ持っている色鉛筆があると、私も思います。中には、人より色鉛筆が少ない人もいれば、人より多くの色鉛筆に恵まれている人もいるでしょう。多くの色鉛筆を持つ人を羨ましいと妬んでしまうこともある。時に、自分にはない色鉛筆を持っている人を見て、勝手に自分を否定してしまう。その気持ちも痛いほどわかります。でも、みなさんが、それぞれ自分が持っている色鉛筆や自分の色鉛筆で描いた絵を好きになれたらいいですね。誰かの、ではなく、自分で自分の色鉛筆を愛せるように。世の中がカラフルで溢れるように」

 そう言って、店主はニッコリ僕に笑った。店主の言う通りだな、と僕も笑った。

 誰かのではなく、自分で自分の色鉛筆を愛せるように。

「僕もそう思います。いろんな色がある方がカラフルで、きっと楽しい」

 僕はそう言うと、自分の鼻を強く擦った。これ以上喋ると、泣いてしまいそうだった。でも僕は泣くのを我慢した。こういう時に素直に泣けるほど僕はまだ大人じゃなかった。だから、強く、強く、鼻を擦った。

 僕の悩みの正体は一体何だったんだろう。洋ちゃんとの仲が離れてしまったことが、悩みの正体だったんだろうか。いや、違う。気持ちのどっかで、僕はいつも自分で自分のことを認められなかった。多分、モヤモヤの正体はここにあったんだ。

 あれから、今も洋ちゃんとの関係は変わっていない。小学生の頃みたく仲良くなったわけでもないし、たまにモヤモヤすることだってある。でも、僕は今、すごく満たされていた。自分が満たされると不思議と他のモヤモヤが消えていく。自分が満たされると心がモヤモヤに立ち向かえる。本当、悩みって不思議だ。

 マグカップに口を付けた。冷めたココアは苦く感じる。体を温めるはずのココアが今度は体を冷やしていく。僕は飲むのを止めて、マグカップを置くと店主と目が合った。

「私が差し上げた不揃いの色鉛筆で、コンクールの作品を描いて下さったことは私にとっても光栄です。改めて、受賞おめでとうございます」

「こちらこそ。店主さんのヒントのおかげです。ありがとう」

 僕も改まって頭を下げた。店主も丁寧に頭を下げている。二人で頭を下げていることに笑えてきて二人とも顔を上げると笑った。

「僕ね、今回描いた作品がコンクールで賞を獲った時、ものすごく気持ちが良かったんです。だって、良いものを作ろうと思って描く以外に、もがきながら、何かに葛藤しながら描いた絵が誰かに評価されるなんて初めての経験だったから。もがいている僕を「これでいいんだよ」って言われた気がした。こんな気持ち初めてだった」

 店主には素直な部分をさらけ出せてしまう。誰にも言ったことがないことだった。コンクールで賞が欲しくて頑張るとか、誰かに認められたいから頑張る以外で、自分自身にもがきながら絵を描いたのが初めてだった。もがくって苦しいことだ。でも、新しい自分になるためには、もがくしかないと僕は思う。

「あ、忘れないうちに渡しておかないと。僕のヒント」

 僕はカバンからファイルを取り出すと、メモ帳を一枚店主に差し出した。

「これ、玉ねぎスープのレシピです。さっき話した、キャンプでカレーを作るはずが、玉ねぎスープになった時に参考にしたレシピです。普通のレシピなんだけど、玉ねぎスープからもヒントをもらえたから、僕からのヒントは玉ねぎスープのレシピにしました」

 店主はレシピが書かれたメモ帳を手に取ると、僕が描いたイラストを「かわいい」と褒めてくれた。材料や作り方の隣に玉ねぎや鍋の絵を描いてポップな仕上がりにした。

「いいヒントですね。大事なヒントをお持ち頂き、ありがとうございます」

「こんなヒントでいいんですか? なら、よかった」

「大切にお預かりします」

 店主はカウンターの下にレシピを置いた。

「また、ここに来てもいいですか?」

「もちろんです。いつでもお待ちしております」

「今度は、コーヒーを飲もうかな」

「ご用意します」

 僕は立ち上がり、椅子に置いたダウンジャケットを羽織った。楽しいお喋りが終わってしまった。僕はお礼を言って、出口に向かった。店のドアを開けると、頬に冷たい風が当たる。思わず上着のポケットに手を突っ込むと、指先にスマホが触れた。スマホを見ると、矢島から連絡が来ていた。

【タージマハル今家?】

【外】

 僕は反射的に返信した。一気に日常に戻されていく。スマホをカバンに入れて、両手を上着のポケットに突っ込んで僕は歩き出した。

「明日、学校か」

 そう、僕は呟く。矢島のことを思い出してフッと笑う。矢島は僕のことを、いつの間にか「タージマハル」と呼ぶようになった。あだ名の由来を僕はあえて聞かなかった。

 何かを察して僕は一度立ち止まった。振り返るとヒント屋の看板にライトが付いた。ずっと会うのを楽しみにしていた友達にしばらく会えなくなるような、寂しい気持ちが押し寄せた。ヒント屋の看板のライトが僕の背中を照らし、僕はまた歩き出した。


 悩みのヒントを差し上げます ヒント屋キタミ③へ続く

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?