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透明なまなざし、ときの贅沢(映画 #ippo のこと)

追い詰められてしおれたり、がんじがらめになってちぢこまったりしているとき、こんなにも自覚できるものかと思うほどに私は物理的迷子になりやすい。道に対する勘が少しもはたらかない。散歩ができない。慣れている道ですらも右と左を間違える。

お家に帰れなくなる前に(切実)、いざ現実逃避!(賢明)と、まず活動拠点の候補に挙がるのが映画館。思い立って駆け込んでも何かしらの作品が出迎えてくれるし、目の前のことだけに集中できる環境が整っている。そもそも形態としてある程度の規格があるので、無意識のうちに時間とお財布が溶けて無くなったりしないという点においても安全。

暗闇で物語に没入すれば、終わる頃には絡まっていたものがちょっと解けたりすることもある。現実逃避とはまさにこのことで、あくせくした気持ちを夜風に晒してなだらかにするような行動そのものにこそ防衛と回復の効能があるのだと思っていた。

でも先日の逃避活動の際に巡り合った映画には、冷ますとかなだめるなんて通り越し、全身ストレッチしたみたいに、ぽかぽかしてぎゅるんぎゅるんに漲ってくる力をもらってしまった。





映画『ippo』は、それぞれ「ふたり」を中心に描かれる3作品からなる短編集。「ふたり」がいる時間を、一緒になって淡々と過ごしていくような物語だった。

いわゆる元気もらえる系のストーリーではないどころか、「ふたり」の間では生産的な会話が弾むわけでもない。それぞれ感情は揺れるものの同期して盛り上がる雰囲気ではないし、互いにいつも向き合って噛み合っているとも限らないし、何なら気まずい沈黙にも溢れている。

だから意味のやりとりを追って内容を理解していくという普通のことすら早々に諦めて、
このふたりの関係は?
どうしてそこにいるの?
本当は何を思っているの?
と、リアルタイムに浮かぶ「?」に身を委ねるしかないのだけれど、そうしているうちに「ふたり」の間に流れる空気がスクリーンをスゥーっと浸み出してきて、気づけば自分も取り込まれていた。

そうやって「ふたり」の間に侵入する感覚は他人の家の匂いに触れるみたいで、じめじめしていて煩わしいから素通りできない。気まずいものはちゃんと気まずいし、退屈なものはちゃんと退屈。「ふたり」の関係性に特別なものは何もなく至って身近だからこそ余計に、その空気は生ぬるくて親しみがあった。

えっ、これ何か違うんですけど何が違うんですか???

と語彙力を見失っていたら、演劇戯曲(もともと4本からなるうちの3本)を映画にしたものだと知ってすべてに納得した。
演劇の、視点と質感が乗り移っているのだと。
(事前に調べていればわかることでした。予習ゼロすぎた。)



ところで「20歳の自分に受けさせたい文章講義」という古賀史健さんの名著に、「文章のカメラワークを考える」というお話が載っている。

読者を迷子にせずスムーズに読んでもらいたいビジネス文書などで使われる「序論・本論・結論」の3部構成。これをイメージするのに、映画やテレビドラマなどの映像表現を参考にする、というもの。

「いまから何が始まるか?」の説明となる導入部分には客観(俯瞰)のカメラ、物語の本編には登場人物たちを捉えた主観のカメラ、物語の終わり、結末を咀嚼していくエンディングにはもう一度客観(俯瞰)のカメラ、というように、視点を切り替えることで、映画やドラマでは観客・視聴者の理解を促すという。これを文章の構成でも意識する。

 カメラはいまどこに置かれ、どんな順番で、なにをとらえているのか。対象との距離感はどれくらいなのか。同じ距離、同じアングルばかりが続いていないか。場面(論)が転換する際に、それを知らせる遠景のショットは挿入したか。
 カメラを意識するようになると、文章と文章のあるべき順番も理解しやすくなる。文章の説得力も増してくる。
 そしてもちろん、文章全体にメリハリがついて、リズムもよくなってくる。

古賀史健『20歳の自分に受けさせたい文章講義』, 星海社, 2012年, p.119


浅薄にも喩えのカメラワークを本当のカメラワークに照らして映画『ippo』のことを思えば、戯曲という境界条件が効くせいか、そんなふうに理解を促すようなカメラの存在が全く思い出せない。(あったらごめんなさい。)

理解しやすさ → 要らない
説得力 → 要らない
メリハリ、リズム → なくても困らない

論理の柱が完璧に隠された代わりに残るのは、物語の世界の中に溶け込み透明になって登場人物たちを至近距離から見つめる目線、目線、目線。それらがスクリーンに運ばれて私(観客)の目に折り重なれば、私自身が登場人物たちを至近距離から見つめていた、つまり同じ空気の中にいたという記憶になる。
(論理で届けないものを届ける届け方が極めて論理的に選びとられる美しさよ……)



論理の隠蔽は、展開とか心象風景といったお決まりのものさしで測られる“必要な”場面を繋ぎ合わせていく過程そのものを抹消することでもあるのだと思う。

分けられない、わからない出来事や感情や関係性が、必要 or 不要、有用 or 無駄、有意義 or 無意義、みたいなラベルを無理矢理に貼られることなく、捻じ曲げられてそれっぽい箱に突っ込まれることもなく、どれにもはまらないからって捨てられることもなく、何もかも大切に温存される。

演劇だったら固定された客席から一方向に見ていたであろう景色にも、映画なら背後に回ったり、身体の一部にもっと近づいていったり、登場人物の視界そのものの風景を切り取ったり、あらゆる方向から手(というか目)を伸ばせるから、等分割だったはずの一瞬もあらゆる角度から掬い上げられ、引き伸ばされて印象の質量をもつ。

名付けようのない出来事や感情や関係の詰まった時間が、もれなく光を当てられてありのままにきらきら満ちていく。

そんな空気に丸呑みにされたら、何物でもない豊満な時間たちが、物語の中にあるだけじゃなくて私のものにもなった。

いまここにあるこの時間、贅沢してるな〜、と思った。



人の気持ちってバネみたいで、プラスに引っ張られていても動力になるけどマイナスに引っ張られていても同じように動力になる。

平穏無事なときよりも、たとえば数週間前から溜め込まれていたものの上にもっとどうしようもないものがトッピングされて私のほうこそどうしようもなくなっちゃいそうな感じの日(たとえてない)に観るほうが、前のめりに映画と向き合えるし沁み込んでくることもある。

上映時間、たったの76分間だったのに。そこに詰め込まれたはちきれんばかりの贅沢を全身で受け止めたら、重たいものはとっくにどこかへ飛んで行き、心がポワンと隙だらけになっていた。

映画って、そこにある時間をどれだけ贅沢に使えるかという創作なのでは。
……なんて根拠なしに思えてしまうくらい、は〜〜助かった〜〜〜という目先の歓喜のその先も、末長くお守りになってくれそうな大正解を享受した気すらした。

だから映画館の階段を降りる頃にはフワッフワの無重力な足取りに、無敵の心持ち。方向感覚も無事帰還し、映画館から渋谷駅までの道程にGoogleマップなど不要。

これほどの贅沢を知っていてご機嫌をお裾分けできる方々に、とても慄きながらとても憧れた。


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