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新館2階、視聴覚室の映画館

高校生のとき、現代文の授業の時間に映画を観ていた。

って言ったらサボり魔だったと思われそう。
そうではなく、現代文の担当の先生が浪人生時代に映画館に入り浸っていたという映画Loverな人で、教科書の1単元が終わるたびにその次からの授業の時間を使って、教材の内容とは何の関わりもない映画を1本、観せてくれていたのだった。

授業1コマが45分くらいだから、1週間分の3コマを使えば2時間程度の作品が観られる。ただ、ふだん使っている教室にはプロジェクターやスクリーンが無くて、高校棟→本館→中学棟→新館の順に渡り廊下だけで接続された無計画な構造の校舎を毎回、高校棟にある自分たちの教室から新館にある視聴覚室まで、はるばる移動しなければならなかった。現代文の時間の、希少な移動教室。

それまでにも映画を観たことや映画館に行ったことがもちろんないわけではなかったけれど、とはいえ映画を身近に感じるほどでもなかったティーンは、不朽の名作と呼ばれる作品たちとも、その視聴覚室の映画館ではじめましての挨拶を交わした。

たとえばLife is Beautiful、ショーシャンクの空に、Jim Carreyが主演のあれこれ、ラフマニノフのピアノコンチェルトが出てくる作品は何だったっけ。(何ですか……?)

現代文の先生の一任で開かれたその映画館は、生徒である私たちの興味や作品を受け止められるだけのキャパシティとは無関係に、知らない人の人生を覗かされ知らなかった世界をバンバン見せつけられていく場所でもあった。心の準備をしないからこその高まりや驚きも上乗せされる。

思えば特に大切だったのが、ひとつの作品を観終わると、任意で先生に感想を提出して良いシステムになっていたこと。そして提出した感想は、後日先生がお返事を書いて返却してくれる。私が書いていたのはルーズリーフ半分くらいの短い感想で、「このシーンの伏線回収が爽快だった」とか「ハッピーエンドっぽく終わったけどハッピーエンドじゃないと思う」とか、本当に大したことのない自由気ままな言葉だったと思うけれど、その1ターンの感想戦も含めて、「高校のときに観た映画」として記憶している。

「おうちに帰るまでが遠足」の如く、「感想文を往復するまでが映画」だったので、上映中から暗闇ノールックで手を動かしていたし(読めない文字になっていてもよくてメモを書く行為自体が大事)、上映後は観たものを思い出しながら湧いてきた感情を反芻し、少しであっても考えて文字にする癖がついた。

……と、20年近く前のことをいきなりブワァ〜っと思い出したのは、映画を観て救われた〜と感じたある日の帰り道。

誰かの物語にひとりで立ち会って、何かを感じ取って持って帰ってくる。
そのやり方を自分なりに習得したのが、視聴覚室の映画館だったのだと思う。

今の私も相変わらずものすごく頻繁に映画を観ているわけではなく、その道に詳しい人になったわけでもないのだけれど、視聴覚室の映画館を体験していなかったら映画館に助けを求めて駆け込んだりする社会人になることもきっと無かったのだろうと思うと、私にとっての現代文の先生みたいに、映画との良い出会いのドアを作ろうとしている人がいたら全力で応援したくなってしまう。

そして感想書きグセが今も全然やめられない。映画館ではいつもペンと小さなメモ帳を握りしめ、帰りの電車の中ではスマホのメモ帳アプリに浮かんだ言葉を書き留めている。ただ、上映中のメモはやっぱり机のある視聴覚室のほうが書きやすかった。ちっちゃくても良いから、もし机が付いている映画館があったら絶対行きたいです。




* おまけ *
この記事は、上にリンクを張った記事を書いていたときに余ったぶんの下書きを材料にして書きました。公開するつもりなく熟成していたのですが、noteさん(with WOWOWさん)がちょうど良いお題を出されていたのを見つけて公開しました。お題タグ、ありがとうございます。
ちなみにこの「現代文の講義の時間だけど脈絡なく映画観せてくるよオジサン」との出会いの数年後、大学院生になった私の目の前には「建築の講義の時間だけど脈絡なく映画観せてくるよオジサン」が待ち構えていました。引きが強い。


さいごまでお読みくださり、ありがとうございます。