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「BAR HOPE」


②ジャックダニエル〜

 カウンターの中に置いた木製のスツールに腰掛けて夜空を眺めていると、店の古い電話が鳴った。僕は慌てずに、約束の5コール目までたっぷりと待ってから受話器を取る。

「今日は席空いてるかい?」

 受話器からはいつも通り本間さんの声がして、空いてますよと僕が返事をしたら、今から二人で向かうとだけ言って、本間さんはさっさと電話を切ってしまう。この店の電話は本間さんの為にあるようなものだ。わざわざ空席の確認をする人なんてこの店には他にいないし、常連のお客さんは何か用事があれば僕の携帯に直接連絡をくれる。マダムでさえ何度か僕の携帯に電話をかけて繋がらなければようやく店の電話を鳴らすのに、本間さんだけが毎回こうして、律儀に電話をよこしてから店にやって来るのだ。

 本間さん曰く、それは情緒や風情という類のものらしい。女性と食事を楽しみ、その余韻に浸ったまま店に電話を入れる。古めかしい電話機がジリジリと音を立てる店内を想像しながら、5コール目に僕が受話器を取るのを待つ。そうして電話に出た僕の声と、その後ろから洩れるレコードの音に耳を傾けることで、余韻は冷めぬまま店の空気と混ざり合い、時間は途切れることなく繋がって行くのだという。「もう一杯行こうか」なんて台詞を口にするのは野暮であって、優しく流れる夜風と共に、そっと女性をエスコートするのが粋なのだと、本間さんは教えてくれた。

 電話を切ってから10分ほどで、ほろ酔いの本間さんと絵里さんが店にやって来た。本間さんはカウンターの椅子に座るとすぐに煙草を吸い、絵里さんはカウンターに両肘をついて、笑顔で僕を見つめている。
 本間さんは45歳で、いくつか飲食店を経営しているらしい。若い女の子が好きで、絵里さん以外にも4人ほど店に連れてくる女性がいる。ちなみに結婚していて、奥さんと二人の子供がいる。絵里さんはたしか24歳で、どこか大きな企業で受付の仕事をしている。いつも笑顔で、お酒をたくさん飲み、本間さんのことが大好きで、少女のような無邪気さを纏った女性だ。もちろん本間さんが結婚していることは知っているが、娘に嫌われない為にどうしたらいいかという本間さんの相談に、娘の視点からアドバイスを送ったり、家族で行ったキャンプの失敗談をなどを聞いては大笑いしている。
 絵里さんだけじゃなく、本間さんがこの店に連れてくる女性は皆そうなのだ。何かを望んでいる訳ではなく、ただ他の誰と過ごすよりも、本間さんと過ごす時間が楽しいから側にいるだけであり、誕生日が近くなって本間さんがプレゼントの話を切り出すと、口を揃えたように何もいらないと皆が断ってしまう。今はお金持ちだが、田舎の山奥で野生児みたいな幼少期を過ごしていた本間さんの話は、いつも漫画の主人公みたいで笑ってしまうし、暖かな家庭の中で、慈しむように育てられた彼女達にとっては、きっとそんな突拍子もない本間さんに、どうしようもなく魅了されてしまうのだろう。

 本間さんは酔っぱらうとすぐに女性の名前を間違えるし、辻褄の合わない話をしては焦って一人で言い訳をしているけど、どこか憎めない優しさを持っている。
「俺に飽きたら言ってくれよ」とか「2回連絡を無視してくれたら、ちゃんともう連絡しないから」とか「彼氏が出来ても、困ったことがあったら絶対に助けるから言ってこい」とか、しつこいくらい繰り返し言うくせに、彼女達が「分かりましたよ、ちゃんとそうしますから」なんて言うと、少しだけ寂しそうな表情を見せたりするのだ。

 そんな本間さんも、店に一度だけ一人で飲みに来たことがある。

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