「HOPE」
いつからあきらめることに慣れてしまったんだろう。いつから負けることを悔しいと感じなくなってしまったんだろう。いつからそうやって、自分を騙すようになってしまったんだろう。
きっと私に才能なんてものは全然なくて、今はただそれを隠すことだけに毎日必死になっている。そんなことを考えながら、私は今日も「HOPE」までの道のりを歩いている。
そのお店は名前に似つかわしくない古びたBARで、木で作られた扉は地獄の門のように重いから、私はいつも両手で力一杯ドアノブを引っ張って開ける。大きなカウンターだけの店内をアンティークの照明が優しく包み込んでいて、なんだか何処か知らない外国にいるみたいな気分になる。もちろん私は外国に行ったことなんてないけれど。
「いらっしゃい」と言ってカクテル用のライムをカットしながら、パピーは笑顔で迎えてくれる。私はパピーの笑顔が好きだ。優しくて、それでいてちょっと寂しそうな笑顔。
私はカウンターの右奥に座って、今度はパピーの綺麗な横顔を眺める。パピーの横顔はずっと見ていても飽きないのだ。
「今日は早いね?」
パピーがずっと見られてることに気づいて、恥ずかしそうに聞いてくる。
「うん、今日オーディションだったんだよ。ねぇ、マダムは?」
パピーはあんまり自分のことを喋らないから分からないけど、私は勝手に、自分と同じ二六歳だと思って接している。
「もうすぐ来ると思うよ、いつもちょうど仕込みが終わる頃にやってくるんだ」
マダムは「HOPE」の女店主で、艶々した銀髪をいつもなびかせている。
お客さんにママと呼ばれるのを嫌っていて、ここに来るお客さんはみんなマダムと呼んでいる。ママってのは威厳がなくて軽すぎるし、そもそも小さな子供が使う幼児言葉なんだそうだ。
パピーに注文したジントニックが私の前に置かれた直後、地獄の門が開き、マダムが茶色い紙袋を下げてやってきた。どこで買ってくるのか分からないけど、いつもマダムが出してくれるとっても美味しいチョコレートが入っている紙袋だ。
「なんだいあんた、今日はずいぶん早いじゃないか」
マダムは荷物をパピーに預けると、いつものようにカウンターの中に置いた椅子に腰掛け、煙草に火をつける。換気扇のある壁の真下に椅子は置かれていて、丁度マダムと私はカウンター越しに向かい合わせになる。
「今日オーディションだったんだ」と言うと「そうかい」と言ってマダムは煙をはいた。ゆらゆらと揺れながら上がる煙草の煙はまるで私の心のようで、ちょっとだけ情けない気分になる。
高校を卒業して女優になると決心をして、当時付き合っていた恋人とも別れ、田舎から上京してきた。養成所でレッスンを一年間受けてなんとかギリギリ事務所にも残れて、そこから未来が開けて行くんだと信じていた。
でも年月が経つにつれて、何も変わらない景色に疲れていき、決意も覚悟も生活の中に埋もれていった。酔っぱらって恋人に電話までしたけど、もう好きな人がいると電話を切られた。
「やっぱり、夢って叶わないのかなぁ」
気づいたら、私は独り言みたいに呟いてた。
「なんだいそれは」
「ほら、よく言うでしょ。夢は叶わないから夢なんだって」
マダムは、煙草の煙をゆっくりはいてから私を見据えた。
「いいかい、そんなのは夢を叶えることが出来なかった者達の迷信さ」
「どいうい意味?」
「この世には夢を叶える者より、破れる者の方が圧倒的に多いからね。でもだからって人は絶望してばかりいられないだろ、生きて行かなけりゃならないから。夢が叶わないなんてのは、夢を叶えられなかった大人達が、それでも生きていく為の言い訳さ」
マダムのその言葉は、少しだけ私を苦しくした。
「夢はあきらめなければきっと叶う。信じ続ければ必ず到達できるんだ。
私みたいな年寄りは、そう断言しなけりゃいけない。でもね、もし夢を叶えることができなかったとしても、人は幸せに生きていけるんだよ」
マダムは顔をしわくちゃにして笑った。なんだか体がじんわり温かくなって、パピーの作ったジントニックを一口飲むと、喉から胃にとろりと落ちていくのが分かった。パピーのお酒はいつだって優しい。丁寧に、慈しむように、失ってしまわないように作るから。なんだか私は、パピーが今までがどう生きてきたのかを知りたくなった。
「パピーはどうしてここで働いているの?何か理由があったりするの?」
「あの子は、その理由を知るためにここにいるのさ」
マダムは、ロックグラスにウィスキーを注ぎながらゆっくり喋り始めた。
「あんたには言ったことはないけどね、パピーてのは子犬って意味なんだよ。
あの子と初めて出会ったのは大雨の夜でね、傘も差さないで、店の前にまるで捨てられた子犬のように佇んでいたのさ。ぼーっと店のネオンサインを見上げてね。三年前の、あの子がまだ二九歳だった頃の話だよ」
パピーは私が思っていたよりずっと年上だった。
「とりあえず店に入れて事情を聞いても、あの子は何も話そうとしなかった。全てに絶望したようで、それでも雨に濡れた瞳だけは、ガラス玉みたいに綺麗だった」
「何も話したくないなら無理に聞かないけどね、死ぬなんて馬鹿な考えだけはやめておくれよ」
「僕には生きる理由がとくにないんです。死に憧れはしないけど、生きることに執着もない。ただこの体と魂がゆっくりと消えていけばいいのに」
「じゃあなんであんたは、店の前で立ち止まってたんだい」
「分からない」
「だったらそれが分かるまでは、あんたは生きなきゃならないね。あんたの体が通り過ぎることを許さなかったんだよ。あんたの魂が、HOPEから目を逸らすことを拒んだんだよ。
あんたには本当のあんたを知る義務がある」
マダムの話はまるでおとぎ話のようだったけど、パピーがここにいる理由としてはぴったりのように思えた。
「それで、あれからなにか答えは見つかったのかい」
パピーはグラスを拭く手をとめると、また少し寂しそうに微笑んだ。
「僕は、ずっと世界に馴染めず生きてきた。何をしていても、誰と話していても、いつも薄い膜で隔てられてるようで、伝わることもなく、伝えることもできなかった。まるで僕一人だけ世界の外側に立ってるようだったんだ。
でも、そんな僕を救ってくれた女性がいた。彼女はそんなのお構いなしに腕を伸ばして、膜なんて突き破って僕の手を握ったんだ。そのまま僕を内側に引きずり込んで、ほら世界はこんなにも素晴らしいでしょって笑ってね。
僕は相変わらず上手く生きれなかったけど、彼女はそんな僕を面白がって楽しそうにしてるから、なんだか僕まで楽しい気分になってきて、この世界でも生きていけるような気がしたんだ」
「それで、その人はどうしちゃったの?」
そう聞きながら、私の心臓はどきどきしていた。
「死んじゃったよ。その日の天気予報は晴れだったんだ。でも突然大雨が降ってきてね、僕は駅で彼女が傘を持ってきてくれるのを待っていた。でも彼女は来なかった。雨でスリップした車に巻き込まれたんだよ。
彼女が死んでしまったことは胸を八つ裂きにされるほど苦しかったけど、もう会えないと考えたら地獄に堕ちるように怖かったけど、僕はね、彼女の葬儀で涙を流すことができなかったんだ。
みんな悲しみに暮くれているのに、僕のせいで彼女は死んだのに、僕だけが涙を流していなかったんだよ。彼女が可哀想だと、未来を絶たれた彼女は不幸だと誰もが嘆いたけど、それでも僕は、彼女の人生を信じたかった。
僕の抱える悲しみと彼女の死を、ごちゃ混ぜにしちゃいけないように感じたんだ。
とても短かったかもしれないし、本当は素晴らしい未来が待っていたかもしれない。
でも僕は、彼女が全力で生きていたことを知っている。惜しむことなく、毎日を振り絞るよう生きていた。この世界は素晴らしいと彼女だけが僕に教えてくれた。彼女だけが僕を見捨てず愛してくれた。そんな彼女の人生は紛れもなく幸福だったんだと肯定してやりたかった。
どんなに苦しくても、彼女の前では笑っていてあげたかったんだ。
でも、そんな行為は許されなかった。
お前のせいで死んだのに、よく平気な顔していられるなって遺族に言われたよ。
結局僕は、世界の外側にいることしかできなかったんだ」
そうやって話すパピーの瞳は、ガラス玉のように綺麗だった。
「なに言ってんだい」
マダムの声はいつもより大きくて、ほんの少しだけ震えていた。
「あんたは世界の外側になんていやしない。あんたは最初から、誰よりも世界の真ん中にいるじゃないか」
マダムの言葉を聞いた途端、私は込み上げる感情を抑えきれず泣いてしまった。
「あんたも本当はそれに気づいてる、でもずっと見て見ぬ振りして生きてきたんだね。
そうしないと生きていけないから、狂っていると思った方が楽だから。あんたはやっぱりちゃんと生きていかなきゃならないよ。彼女のためにも幸せになるべきだ、彼女を亡霊にしちゃいけない」
「でも僕は、この先も彼女を忘れることはないと思います」
「別にそれでかまわないじゃないか。生きてようが死んでようが、とことんまで愛してやればいい。忘れる必要なんてない。あんたはいつか、ちゃんと心の中に彼女の置き場所を見つけることができるさ」
それは夜空に浮かんだ月のように優しい言葉で、パピーはまるで月を見上げるようにして笑った。
それはいつもとはちょっと違う、ただ優しいだけの笑顔だった。
なんだかとっても長く感じた時間も、時計を見れば一時間ほどしか経ってなかった。
私はその日以来、一人で考えていた。今までの生き方や、上手くやろうとしていた自分の弱さについて。もう一度ちゃんとしようと思った。情けなくても格好悪くてもさらけ出そうと決めた。いや、今までの自分の方がよっぽど情けなくて格好悪いじゃないか。
演技が終わると監督から「駄目だね」とはっきり言われた。スタッフは次のオーディション受験者を呼ぼうとしたけど私は一つだけ質問をした。
「あのぉ、駄目ってどれくらい駄目でした?ちゃんと全力で駄目でした?」
「うん。全力で駄目だったね」
「良かった、ありがとうございます」
監督は大笑いして、控え室に下がろうとする私を呼び止めた。
「何がよかったの?全力で駄目なんだよ?」
「はい、でも全力だったのは伝わったんですよね。今はそれで十分です。やっとちゃんと前に進めた気がしたから」
「ふ〜んおもしろいね、やっぱり君はもう合格でいいや」
なんだか日本語を聞いてるはずなのに、私は言葉の意味が理解できなくて五秒ぐらい黙っていた。
「全力で駄目だったんですよね?」
「うん、でも別に僕はここに演技が上手い人を探しに来た訳じゃないからね。もちろん一つの重要な要素であるのは間違いないけど、大切なのはこの人と一緒に仕事がしたいと思えるかどうかだよ」
私がもらったのは、喫茶店でちょっと怖い人にコーヒーをこぼしてしまうウェイトレスの役だった。
通路で怒鳴られて殴られそうになったところに、「邪魔だからどけ」と言って男の人が助けに入ってくれ、私がお礼を言うと「お前も邪魔だ」と言って顔面を殴られるという内容だった。
本当に私と仕事がしたかったのだろうかと疑ったけど、殴られて通路に倒れた直後に、思わず「嘘つき!」叫んだら、監督は笑って採用してくれた。
マダムはこの話をどんな顔で聞いてくれるだろう。馬鹿だねぇって笑うだろうか。勇気を出して誘ったら、パピーは私と一緒に、完成した映画を観に行ってくれるだろうか。
そんなことを考えながら、私は今日も「HOPE」までの道のりを歩いている。
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