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「あの夢の余韻」



 久しぶりに足を挫いた。こんなにもちゃんと足を挫いたのはいつ以来だろうか。
 こうして右足首から迫り上がってくる久しぶりの痛みに、哀愁を帯びた懐かしさまで感じている。
 歩いてる途中にちょっと足を捻ったぐらいであればわざわざこうして文章にすることはない。サッカーの試合中に、ファール覚悟の殺人スライディングを食らった時ぐらい足首を挫いたのである。

 その日はお酒を飲んで気分が良くなっていた。先輩に誘われまずは4人でカウンターだけの鮨屋で日本酒や焼酎を嗜み、そこからBARに移動して、ウィスキーやジンなどを6杯ほど飲んだ。
 象徴的に飾られた店のシャンデリアが、酔った瞳には滲んで映り幻想的な輝きを放っている。店内にクリスマスソングが流れ始めると、皆が自然と鼻歌でそれを口ずさんでいた。同じように酔った先輩がそんな僕らを眺めながら、「ちょっとカラオケでも行ってから帰ろか」と嬉しい提案をしてくれた。

 お酒も美味しくカラオケもできる店が、すぐ近くにあったはずだという先輩の記憶を頼りにスマートフォンで調べてみると、BARから5分ほど歩いた場所にその店を発見した。会計を済ませ外へ出ると、僕が地図アプリを見ながら案内するという流れになり、僕の後ろをフラフラとついて来る先輩達に「こっちですよ」と声をかけながら進んでいた。経路の確認と道案内という二つの作業を酔った頭でこなすのは少し難しく、僕は歩きながら、アスファルトの少し盛り上がった部分に足を取られバランスを崩してしまった。
 いつもならそこから体勢を立て直せるのだが、色んなことに気を取られた上に酔っ払っていた僕は、まるで世界が突然反転したような感覚に陥り、そのまま右足を捻りながらアスファルトに体を叩きつけた。

 皆は豪快にすっ転んだその姿に爆笑していたが、僕は一瞬、右足首がねじ切れたかと思った。確認するとちゃんと繋がっていたが、何してんだよと皆にツッコまれながら照れ笑いで体を起こそうとすると右足首に激痛が走り、経験からくる感覚で「あっ折れてるかも」と思った。実際に「すいません、右足折れたかもしれません」とも声に出してみたが、転けた時よりも大きな笑いが巻き起こっただけであった。酔っ払った皆は、その後もゾンビぐらい足を引き摺って歩く僕の姿にケタケタと笑い声をあげ、負傷して足を引き摺った男が、何故か先頭に立って道案内をするというおかしな状況になっていた。

 何とか無事に店までの案内を終えたが、店の扉までにある三段ほどのちょっとした段差が、僕には途方もなく険しい道のりに感じた。手すりを持ち慎重にゆっくりと下りている僕を抜かして、皆はさっさと扉を開けて入っていった。
 先輩が行ったことのあるお店というだけあり、扉を開けるとラグジュアリーな空間が広がっていた。店員の接客も流石の一言で、個室に入った僕等に花のようないい香りがするおしぼりを持って来たかと思うと「足を痛めている方がお一人いらっしゃったようなので…」と、氷の摘まったビニール袋まで一緒に持ってきてくれたのだ。

 …恥ずかしいわ、こんなラグジュアリーな空間で。皆んなおしぼりめっちゃいい匂いする〜とか言うて盛り上がってるのに、なんで俺だけ素足になって右足首のアイシングしてんねん。もう最初に入って来た時点で噂なってたんやろな。おい、なんか遅れてめっちゃ足痛めてる奴が入って来たぞ!みたいな感じで。受付のカウンターに三人ぐらい店員おったけど、一人ぐらいは「いや今日はもう家帰れや!」ってツッコんでたんちゃう?

 お酒と共にフルーツの盛り合わせが出てくるんや。誰かが小腹すいて頼んだステーキとパスタも運ばれて来たけど、肉は分厚いしパスタにはオマール海老入ってるやん。なんで俺こんなとこで右足首アイシングしてんの。どんどん腫れてきた、足首無くなってるわ。
 デンモク回ってきたけど、足首をアイシングしながら歌ってる奴の曲なんか誰か聞いてくれんのかな。ほんまはしっとりしたバラードを歌いたい気分やってんけど、今はパンクロックしか歌われへんな。この右足首の痛みと引き摺る姿を、カウンターカルチャーの体現として捉えてもらうしかないよな。

 ビニール袋の氷が完全に溶けて水に変わる頃に、カラオケはお開きとなった。店の扉を開けると、現実を突きつけるように朝日が僕等の顔を差した。一人、また一人とタクシーに乗り込み、昨日という夢から抜け出すように今日という光の中に消えていった。
 あれから三日ほど経ったが、未だに僕だけがあの夜から抜け出せずにいるようだ。ずっと夢の余韻を引き摺りながら歩いている男を憐れみ、「病院行きや」と先輩は言った。

 


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