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「BAR HOPE」

③アイリッシュコーヒー〜


 マイルス・デイヴィスのトランペットに呼応するように、雨粒が優しく窓を叩いている。今日は朝からずっと雨で、いつもは艶があって軽やかなマダムの銀髪も曇天の空みたいにしっとりと大人しい。カウンターの中に入れた小さなパイプ椅子に座り子供のように体を揺らしながら、ライムをカットする僕と目が合うとフーッと煙草の煙を吹きかけてみせた。

「別に無理して店にいなくても、退屈なら帰ってテレビでも見たらどうですか?」

「強がるんじゃないよ、客が来るまであんたが一人で可哀想だからこうして一緒に居てあげてるんじゃないか」

「ありがとうございますね。あっそうだ、今日さくらんぼ買ったんですけど味見します?」

「ちゃんとあんたがあ〜んしてくれるんだったら食べてやってもかまわないよ」

「そうやって近くに誘き寄せた僕を、丸呑みにするつもりかも知れないので止めときます」

「私は妖怪じゃないよ」

 雨粒の音はソロパートを迎えたように大きくなっていき、建物全体の輪郭を浮かび上がらせる。それは今僕が店の中に存在するという実感を伴ない、こうしてちゃんと守られている心地よさと懐かしさに安堵する。

 店の重い扉がゆっくりと開き、薄い膜を破るように白く華奢な手が入ってきた。僕がこんばんわと声をかけると、そぼ降る雨に濡れた若い女性が申し訳なさそうに顔を出した。

「すいません、濡れてしまっているんですけどいいですか?」

 マダムに不器用すぎると言われる笑顔で、僕が「どうぞ」と答えると、女性はカウンターを見渡し左端の椅子に座った。おしぼりと一緒にタオルを手渡すと、女性はマダムに注意されそうな笑顔を少しだけ見せた。
「なにか飲まれますか?」と尋ねると、女性は少し悩み「温かい物があれば・・」とだけ言った。

「珈琲か紅茶か、お酒を飲まれるならホットカクテルも出来ますけど?」

「じゃあ珈琲で、、あっでもやっぱりアルコールの入った物で・・」

 もう少し明確に注文を聞くべきか迷ったが、今の彼女はきっと曖昧なままでいることを望んでいる気がして僕は何も言わずに頷いた。

「アイリッシュコーヒーです」

 温めた耐熱グラスにブラウンシュガーを入れ、ベースとなるアイリッシュウィスキーを40m注ぐ。そこにエスプレッソを注ぎ入れ最後にホイップした生クリームをフロートする。アイリッシュコーヒーは1940年代はじめにアイルランドの水上飛行場のレストラン・バーで考案された。飛行艇の給油が終わり飛び立つまでの間、体の冷えた乗客達のためにこの暖かいカクテルは振るまわれた。雨に濡れた体を温めるに、この優しいカクテルはぴったりな気がした。
 彼女はゆっくりとグラスを口に運び、液体が喉を通って胃に落ちていく様を意識するようにそっと目を閉じた。彼女の冷たく硬いままの何かがほんの少しほぐれたような気がした。

「どうだい、その子の作った酒は美味しいかい?」

 彼女の皮膚に染み入るような声でマダムは聞いた。

「はい、とっても美味しいです」

「そりゃよかった。この子は特別な事なんか何もしちゃいないんだ。ただ丁寧に慈しむ様に酒を作っているだけさ。もしあんたが心から美味しいと感じたなら、どんな事情があるかは知らないが、それはこの子がちゃんとあんたの気持ちに寄り添えてるっていうことさ」

 また勝手なこと言うマダムには困ったけど、そんな僕の表情を見て彼女は優しく微笑んでくれた。

「今日、とても大事にしていたものを手放してきました。失うことが怖くて、自分が無くなってしまうのが怖くて、必死で握りしめていたものです。それが自分の使命だと執着することで盲目になることができた。でもそれはずっと目を向けずにいただけで、次第にいくつもの傷がつき、ひび割れていくことに変わりはなかった。ふとこの先を考えた時に不安を感じてしまった。情けなくて、恥ずかしかった。結局私には覚悟もなく、揺るぎのない何かも持ち得てはいなかった。ただ依存して、すがりついて、最後には全てを自分以外のせいにして朽ちていく気がした。
 だから手放して、ちゃんと生きていかなければと思ったんです。手放してみたら意外に呆気なくて、私の身体は今より軽くなるかも知れない。でもそれはただ呆気ないだけで、何一つ軽くなることはなかった。今までよりも私は深く沈み込んでしまった」

「今はそれでいいじゃないか、手放したからってすぐに消えるもんじゃない。その重みはあんたの中にちゃんと残っているし、手放して初めて本当の重みに気づくこともある。他人が決めるもんじゃない、どれだけくだらなくて馬鹿げて見えるもんでも、今あんたが感じてる重みだけが真実なのさ。深く沈み込んでればその内苦しくなってあんたは自分で浮上する。もがいて、足掻いて、必死に水面を目指して、顔が出ればめいいっぱい息を吸い込むんだ。その時に広がる景色はきっと素晴らしくて、今度はちゃんと自分を大事にできる」

 マダムはそう言うと、天窓の外に広がる夜空に向かって煙草の煙をゆっくりと吐いた。僕は二人の話を聞きながら少し安心していた。彼女が手放したものにちゃんと価値があって、深く沈み込めたことに。本当にそれが簡単に手放せて軽くなれるものだったのなら、あまりにもやりきれなくて今までの彼女がかわいそうだから。アイリッシュコーヒーを飲む彼女は、飛行艇を待つ乗客達と同じように思えた。冷えた体を温め飛び立つその時を待っているのだ。いつかは彼女自身がその翼を広げ羽ばたいていく。店に流れるマイルス・デイヴィスのトランペットのように高く鮮明に昇っていく。


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