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In the middle of blues

字幕がなければ理解不能なほどの、冒頭の強い訛りの語り。
続いて登場する、コカコーラの看板を掲げた地元の商店。車窓の外に見える路地の風景。

どれも見覚え聞き覚えのある風景だなぁと思いながら、ふと愕然とする。もしかしたら自分は、30年前に知らないうちになんと貴重な体験をしていたのだろうと、今更ながら気づいたからだ。

アマプラで“I AM THE BLUES”を観た。

本作は、アメリカ南部のミシシッピ・デルタやルイジアナ・バイユーの大御所ブルース・ミュージシャンたちを追いながらブルースの栄光と衰退を描いたドキュメンタリー。主に80年代に活躍し、今も南部に暮らしチトリン・サーキットを続ける彼らにフォーカスし、観客をルイジアナ・バイユーの沼地からミシシッピデルタのジューク・ジョイント、ノース・ミシシッピ・ヒル・カントリーのムーンシャイン・バーベキューへと続く音楽の旅へと誘います。

(Amazon Primeより)

自分が30年前に滞在したのはミシシッピでもルイジアナでもないので、実際はここまで日常にブルースが入り込んでいなかったかもしれないが、人々の顔つき、暮らしぶり、文化などは映画で見られるそれとほぼ同じだった。スペイン苔が垂れ下がった大木や、それが広々とした庭に生えている平屋建ての家を、移動中の車の中から何度も見た。お世話になったホストファミリー宅の中学生の男の子は、自宅周りに誰も遊び相手がおらず、仕方なく自転車をよく乗り回して遊んでいた。平屋建ての家の玄関先や、街はずれのフリーウェイの分岐点近くの商店の店先には、昼間からおじいちゃん達が椅子に座って何をするでもなくぼんやりしていた。

お祝い事など人が集まるパーティとなれば、庭先に即席コンロを設置して、どこかで釣ってきた魚をコーングリッツをまぶしてそのコンロで揚げ(deep-fried)、揚げたてをみんなで食べる。
日曜日になると、普段は穴の空いたTシャツでダルダルな格好をしている人達がシュッとした正装をして、帽子まで被って教会を訪れる。そこでは文字通りソウルフルな祈りが捧げられる。初めて見た時はそのトランス状態に正直引くほどだった。そこで歌われていたのは、確かにブルースではなくゴスペルだったのだが、映画の中で牧師がコメントしていたように、重なる部分があるのだろう。歌い方一つなのだ。

80年代に活躍したという本作の登場人物達、その独創性は印象深いものばかり。チューニングがずれていようがお構いなしだったり、自分一人しか奏法を知らないので自分が亡き後は廃れるだけと言い放ったり。一夜だけを共にした相手のことを歌った歌をヒットさせた後、その相手と再会を果たすも、その後すぐ相手が亡くなってしまったり。エピソードには事欠かない。

公民権運動以前から音楽活動している彼らが、その活動の中でやはり人種差別を受けたとコメントする場面がある。今とは違うと言う彼らだが、表面的には無くなったように見える現在でも実際はまだ根強く残っている。それを感じさせる話をしていた、ホストファミリー宅の近所に住んでいた男性を思い出す。「奴らは職場では普通に会話するけど、一旦職場を出たら一切口をきかねえ。街で会っても知らんぷり。関わりたくないとでも言わんばかりに」なんてことを言ってた。

30年前、半年ほどそのコミュニティに暮らし、今考えればあれも自分への差別だったのかもと振り返る出来事もあるけれど、数百年にわたる歴史がそのDNAに刻ませた魂からの叫びに比べれば、当時私が受けた気持ちなんて遠く及ばない。コロナでギターとブルースに思いがけず出会い、その魅力にハマり3年、どんなに頑張ってコピーしようとしても、ホンモノである彼らには近づくことさえできない。このドキュメンタリーを観ながら、ブルースへの憧れがますます募るのに反比例するように、いつまでも「第三者」の地位からは脱することができないのだと思う寂しさを感じた。

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