【EXHIBITION】内藤 礼「すべて動物は、世界の内にちょうど水の中に水があるように存在している」

2022年11月17日
@神奈川県立近代美術館 葉山館
(展示の詳細を含む展覧会レポートです)

晴れているが雲が多い11月、14時頃。
バスから見えた海と山並みが、柔らかく青や灰色の間をぼんやりと埋めるように見えていた。

少しだけ窓のある、小さな展示室、一室での展示。室内は14時でも薄暗く、はじめに目に入るのは天井から大きく垂れ下がっている一本の紐のようなもの。

足元に注意を払いながら足を踏み入れる。小さなガラス板、四角形の角をとった形が2枚重ねられている。しゃがんで、近づいて、見つめる。

部屋の中央に弛んでいる紐は、暗さの中で、小さな動物の脊椎のようにも見えた。光と影を共に孕んでいる。目を凝らすとそれは透明なビーズの連なりだった。

窓の前、すでに午後の光のわずかに差し込む場所にはビンが置かれている。台に乗っている作品はなく、全て床の上に在る。ほんの少し、日光は瓶をから外れて、あともう少し早ければ、あるいはあともう少し時間が経ったなら、光が当たっている様が見れたのではないか。ひとつの瓶は伏せて置いてあり、その上に同じ底の大きさの瓶が重ねられ、上の瓶には水が並々と入っている。

壁に、小さな花柄の、布?紙?小さな折り紙のようなものが、ぺらっと貼り付けられている。近づいて、目で、見ようとしている自分に気がつく。この些細なものたちを、熱心に目で見ることに何があるのだろうという思いが過ぎる。

目線を外して、窓の外を見る。身体で空間を感じようとする。空気を吸う。

振り返ると、壁の高い場所に小さな鏡。足元に小さな家、家の上に風船が浮かんでいる。様々な大きな声、大きな音、大きな物に溢れている世界の袋をひっくり返したようなこの奥行きのある空間で、私は何をしているのだろうと思った。いま着ているものを全て脱ぎ捨てて、裸で泣き出したい気持ちになった。それは悲しさではなくて、この身体がこのようにしてあることの私という存在がこの世界にあることの祝福のような、うれしさのようなものが込み上げてきたのだった。

内藤礼さんの作品のテーマは文章で知っていたが、あらかじめもっていたものからこの気持ちが喚起されたというよりも、もう本当に湧き上がったというほかない。はじめに、泣きたくなって、服を脱ぎたくなって、それはなんだろう、この感情はどこからくるのだろうと思った時、このテーマであることに気がつき、驚いた。

どうして、この小さな作品たちを前にして、こんな気持ちになるのだろう。

壁のボタンふたつ、柔らかい光に照らされた薄暗い壁には、いままで数々の作品が展示されては、パテ埋めをされてきた跡が見える。小さな家のような模型の前に、長い髪の毛が落ちている。私の他にもう一人いた、展示を見ていた人の咳払いが部屋に響く。

作品が空間と呼応している。作品が大きな声をあげていないから、周りの存在も立ち上がってくる。しかしそれらは、作品がなくては気に留められるものではなかった。作品の存在が、周囲の小さな変化に目を向かせる意識を生んでいた。

吊り下げられた風船の口がゆらゆらとこちらを向いたり、あちらを向いたりしているのを眺めていて、人の存在とは本来、こんなふうに、常に揺れ動き、軽やかで、そして儚いと感じる。

作品の素材はどれもが身近に感じる物で、あたりまえのもので、私たちの生活の中に一体どれだけこんな瞬間が溢れているのだろうと思う。

世界は刺激に対して麻痺してきていて、速さ、強さ、大きさ、重さはもう私たちの喜びを満たしてくれるものではなく、満たしてくれるものだと思い込んだまま、しかし頭の隅ではもう違うと感じながらも享受して、私たちを現在に、過去に、留めようとしているように思える。そこに善悪はないけれど、その重みの中で不足感に足を掻いているのならば、少し反転させた空間にはこんなに豊かな世界があって、そして、そこに充足感はあっても欠乏感はないという発見があった。本当に少しの、小さな、物があるだけなのだ。

新しさ、豊かさ、意外さは、私たちの身近に常に満ち溢れていて、私たちがその内側に意識を向けた時、それらは立ち上がってくる。そして、私と世界とを分断することなく、そのままで在ることを肯定も否定もしない。あるがままでいないことの方がむしろ恥ずかしいような、エゴやプライドを身につけているのはその世界で自分だけのような、そんな気持ちになって、裸になりたくなった。

窓の外のぼやけた山と海と連なる空間で私はこんなふうに感じて、また違う光や時間の中では違う風に感じるのだろうかと思った。

光は移動し、瓶の中の水に当たって、床に小さな虹が見えた。それが見れたことがうれしかったが、同時に、もしかしたら、と期待していた中で見た虚しさもあり、虹が見えても見えなくてもそれらは等しく尊いものである気がした。ドラマチックなことが何もなくても、粒子の総量は世界に等しく存在しているというようなことを思った。

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