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food skole 第3回目のメモ

*なぜ、この写真にしたかは、記事を読んでいただければわかっていただけると思います。1976年(昭和51年)当時の給食の1シーン。

第3回目の講師は、株式会社ポケットマルシェ代表の高橋博之さん。
テーマは「市場、ポケマルとスーパーのちがい。」

高橋さんについて色々と書くよりも、高橋さん自身の言葉に直接触れた方がいいと思いました。色々と記事はありますが、私自身が一番読み応えがあった記事はこちら。

今回は、講義全体の記録は諦めました。長くなりすぎるし私の頭もパンクしそう。講義中、強く心に引っかかった言葉をあげていく形で、自分が思ったことや考えたことをメモにまとめました。

誰が国産の食材を作るのか。

お店で手に取る商品の多くは、値段、見た目、カロリー、原材料といった情報が表示されている。

そこに決定的にかけているもの。それは、その商品を作った「生身の生産者」と「自然の存在」だ、と高橋さんは言う。

限られた情報しか書かれていないから、消費者はそれを頼りに買うしかない。その結果、「値段」が最も重要な情報となる。安ければ安い方がいい。実入りがどんどん少なくなる。こんな仕事、子どもに継がせられない。

今は、ほとんどの人が、仕事で稼いだお金で「生活」を買っている。私たちは、「お金」そのものを食べることなんて、できない。誰かが作ってくれた食材を、お金を使って手に入れて、口に入れる。

では、誰がその食材を作っているか

自分は関係ない、誰かがやってくれる、他人任せにしているのではないか。消費と生産があまりにも離れ過ぎてしまって、お互いによくわからなくなってしまった状態。

消費者の行動は、ブーメランのように自分たちに跳ね返ってくる。国産は安心、安全だと言われている。実際に私もそう思っている。今まで国産の食材を作ってくれていたその「誰か」がいなくなったとしたら。

日本で育った野菜が、魚が、肉が、果物が、食べられなくなる。

そういう危機感は十分わかる。

でも、「じゃ、私が代わりに作ります」と言わない自分。私自身、よくわかっている。誰かが作らなくてはいけない。でも、それはきっと、自分ではない。という、なんとも言えない後味の悪さ。

でも、他人事ではない焦りと危機感はすごく持っている。それは私が、教育もほぼ第一次産業だと思っているからなのだと思う。子どもという自然に働きかけ、その本来の成長を見守るのが教師だから。

工業化された現代の教育システムが、ミシミシと音を立て始めた今、子どもたちの本来の自然(ジネン)をもう一度見直すためにも、今の学校現場を離れる訳にはいかないという、自分勝手な使命感があることは事実。

そういうジレンマだった私に、高橋さんがあるヒントの言葉をくれた。

プロシューマー

プロシューマーとは「プロデューサー」(Producer:生産者)と「コンシューマー」(Consumer:消費者)からなる造語。

高橋さんのお話の中で何度も登場した。かつての農耕社会では、ほとんどの人間が生きるためにプロシューマーとして自給自足の生活をしていた。

都会の人は、ただの消費者「コンシューマー」が多かった。主体的に環境に関わって、生活を豊かにしていくという考えすら起きなかった。買うものは全てお金で解決。

一方で、仕事と生活が密接に関わっている地方では、今でもプロシューマーがたくさんいる。主体的に環境に関わって、生活を豊かにしている人たちがいる

これだけモノが溢れ、ただの消費に飽きた人たちが、だんだん気がつき始めた。生産現場がどうなっているのか、肌で感じたい人が多くなっている。消費で得られる刹那的な喜びではなく、時間がかかったとしても、生産で得られる喜びを求めている。

消費の前の「ワクワク感」と消費の後の「余韻」。それを伝えたときの「生産者の喜び」。
生産者と消費者の間にコミュニケーションが起きる

消費者としての参加の形が多様化した。消費者として生産に参加していく=プロシューマーが今後の鍵。プロシューマーは消費と生産の距離を縮める存在。そして、それを「関係人口」と高橋さんは言ったのだと思う。私も、プロシューマーとして生産者と一緒に活動することならできると思った。

プロセスに価値がある第一次産業

農家には農家の、漁師には漁師の、それぞれの哲学、教育方針がある。本来はそのプロセスが大事なのに、それは消費者には全く伝わらず、結果だけが勝負の対象。

世の中が効率化を求めて、工業的な「結果重視」になった。そしてこの場合の「結果」とは、「見た目」「値段」のこと。どう作ったか、どう獲ったかは関係ない。とにかく見た目が良くて安いものが売れる。

あまりに教育とシンクロするもので、思わず苦笑い。世の中があまりにも効率化を求めて「結果重視」になった。そしてこの場合の「結果」とは、「偏差値」「受験合格」のこと。どう学んだか、どんな学校生活を過ごしたかよりも、とにかくテストの点と大学への合格。

プロセスにこそ価値があるのだというお話、同じことは教育にも言える。子どもたちの学びのプロセスに価値があるのだと信じて、小学校で授業をしている。この学びのプロセスをどうにかして「見える化」できないか、と日々試行錯誤している。

この「プロセス」とは、言い換えれば「物語」なのだと思う。第1回目の聡子さんとペオさん、第2回目の酒井さん、そして今回の高橋さん。みんなに共通しているのは、とにかく「物語」を大事にしていて、「物語」を伝えようと日々奮闘しておられること。

今後の世の中を動かすのは、この「物語」だと強く感じている。

工業的食事は豚舎と同じ

食べることは、ただの栄養補給ではない。

そもそも、食は単に生命維持のためだけにあるのではない。そうであるなら、スマホの充電と何が変わろう。本来、人間の食事は栄養補給以外に、人間が人間らしく、文化的に生きる上で不可欠な関係性を育む場であり、そこにかけがえのない幸せがあった。その関係性の意味を因数分解すると、食とは、農業という形での人間と自然のあいだの関係性であり、農産物を生産する生産者とそれをいただく消費者のあいだの関係性であり、家族ないし共食関係という枠のなかでの世代を超えたつながりであり、過去の食慣習を現代に活かし未来に伝えるという意味での時間を超えた関係性であり、調理と食事というかたちでの知性と官能の結びつきなのである。この関係性が重層的である食ほど、記憶に残る幸せな時間となる。 
REIWA47キャラバン 高橋さんの言葉から引用

他者とともに食事を挟んで、時を一緒に豊かに過ごせるのは人間だけ。

ある牛丼チェーン店で。
機械でチケットを買い、座席に座り、目の前に出てきた丼を食し、終わったら店を出る。一切会話はないし店員にも興味がない。会話も交流も何もない。興味があるのは目の前の丼とスマホだけ。これは、豚舎と同じではないか、という高橋さん。

食に興味がない子どもたちの話になった。好き嫌いが激しい。とても少食。そもそも、食に興味がない。でも、その子どもが、そうなりたくてなったわけではない。様々な原因があるし、子ども一人ひとりの特徴もあると思うし、好き嫌いなくいっぱい食べるのがいい、とは言えないケースもたくさんあることを知っている。

食べられるものや量が限られているとしても、せめて、子どもが食べるその食卓は、ハッピーで豊かな時間であってほしいな、と思う。「食べること」がとても楽しくて豊かだったら、子どもたちの気持ちも行動も変わる。

そこで、また大きなジレンマ。それは、給食の時間。

小学校で給食の時間を経験したことがある人だったら、とても信じられないような光景が、毎日学校の教室で起きている。

それが、黙食。

食事中は一切会話は無し。みんなで前を向いて、ひたすらに箸で食べ物を口に運ぶ。おしゃべりはいけない。笑ってもいけない。

班で机をくっ付けて、向かい合って、変な顔して、笑ってしまって牛乳を吹き出す、という、昔だったらよくあった光景は、今では信じられない。

子どもたちはルールに従って、黙々と食事をする。工業的食事、と言われてしまったら、反論できない。

なんという食事を、私たち大人は子どもたちにさせてしまっているのだろう。

コロナ禍で仕方がないのかもしれないけれども、それでも、どうにかならないものかと、今、脳みそを絞っている最中。

子どもたちを現地に

高橋さんの話で、困窮家庭を手助けしたい農家や漁師の方々が子ども食堂へ食材を提供している話を聞いた。

私も直接お手伝いはできないけれど、寄付は続けている。でも、今の私はお金を出しているだけで、どんな人がどの様に作って、どの子が何を食べているかまで気が回ったことはなかった。お金を出して満足していた。

高橋さんも話していたけれど、この子どもたちに、夏休みにでも現地に連れて行って、現地の人たちに直接会わせてあげたい。そして、子どもたちなりに、自分ができることは何か、感じたり考える機会を作りたい。

それが「お手伝い」なのかどうかはわからないけれど、きっと子どもたちの中から自然に湧き上がってきた「自分ができること」は、農家や漁師の方々のお邪魔には、決してならないと思う。

周りの大人が準備できるのは、実際に会うための計画と予算。あとは、子どもたちと現地の方々のことだから、手を出したり口を出したりしない方がいいのだと思う。お互いに自然でいいのだと思う。

何かが起きるのかもしれないし、何も起きないのかもしれない。でもそんなこと、農家や漁師の方々が一番よく知っている。だって、毎日自然と向き合っているのだから。

SDGsの問題。あと10年間しかない、時間がないとわかっている大人。でも子どもたちに実感は多分ないし、させるのもどうなのかなと思うし、子どもたちはの将来は10年先もずっとあるわけだし、絶望よりかは希望を見せたいし。

フードスコーレに参加するまで、SDGsと聞く時、いつも何か、しっくりこない感じがしていたのだけれど、今日、それが少しわかった気がした。いつも、話題の中に、子どもとの関係を探していたのだと思う。将来、その地球でメインで活躍していくはずの子どもたちが、なんだかその話題には不在な感覚。

地球規模の問題解決を色々とプロジェクト化する場に、子どもたちへの体験や学びを両立させることも、とても大切で、必要なのではとますます思うようになった。

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