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food skole 第9回目のメモ

第9回目の講師は、法政大学人間環境学部教授の湯澤 規子さん。
9回目のテーマは「食べものとウンコのはなし。」

湯澤先生は「下(しも)から目線」で、すぐそばにある小さな歴史、小さな事象から「今」「自分」「社会」を考える研究を日々続けられています。元々はウンコの専門家ではなく、地域調査を行う地理学がご専門だったとのこと。湯澤先生ついてはこちらの記事をご覧ください。ご著書も多数ですが、最近の著書は「ウンコはどこから来て、どこへ行くのか」(筑摩書房)。

実は、湯澤先生のことは2021年2月にオンラインで行われた農文協・パルシステム共同企画『かんがえるタネ』“世界が転換する時代の「台所サバイバル」”で姿をお見かけしておりました(魚柄仁之助氏の本が大好きな私、たまたま参加したら湯澤先生もご出演されていた)。

生涯、これだけ「ウンコ」を連発した時間はありませんでした。今回は、食と農とウンコの関係について日本の歴史を踏まえて知りながら、「ウンコで未来は語れるだろうか」を考えます。以下は講義のお話を聞きながら、思ったことや考えたことを中心にまとめています。

臭いものにしてきた「蓋」を開ける「ウン小話」

私は家族に介護職がいるためか、ウンコ(排泄)の大切さについては日常よく話を聞いていた。「生きる上で大切なことは?」という質問に、ほとんどの人は「食べること」と答える。しかし、私の家族は「出すことだ」という。「出せなくなると、人ってすぐに死んじゃうから」と。

私の家では毎日「ウンチ出た?」という会話が行われる。これは私だけではなく、参加者の中にもいらっしゃった。関西ではウンコのことを「ウンちゃん」と呼ぶ(飴ちゃん、ウンちゃん、同じ感覚?)らしい。「うんこをする」という表現も、「会議に行ってくる」「お花摘みに行く」「鷹狩りに行く」など様々にあるらしい。調べてみたら、「最大手に行く」「雉撃ちに行く」「御不浄へいく」「録音してくる」「一服してくる」など。

他にも星空の下でのウンコ、野糞40年以上の井沢さん、巻きグソへの憧れ、probiotics・prebioticを利用した便秘克服の経験など。ウン小話の後、参加者の皆さんはみんな笑顔だった。

ウンコが宝物だった時代

食べ物の生産と消費に関してはこれまでも議論されているが、ここにどうウンコが関わるか。生産ー消費に「分解・発酵」という概念を入れるだけで、ウンコを巻き込みながら循環するサイクルが見えてくる。

日本には実はその実績が既にある。
ウンコを漢字で書くと「便(便り、手紙、くつろぐ)」「糞(畑に両手でまく、肥え)」「屎(米の屍)」など。今日はこの「糞」に焦点を当てる。

糞の概念は日本語だけではなく外国語にも。
肥料にあたる元々の英語は「manure」といった。この語幹のmanu(manus)=hand(手)。つまり、手で土を耕す、手で糞をまく、土地を耕す。16世紀に「土地を耕す」に集約されてfertilizerになる。また、肥料にあたるドイツ語はDung=糞が語源。

江戸時代、糞=宝物。糞を肥え壺(野壺)で発酵させ、下肥に。当時は「肥」を「育」と当てはめて書いていた。農民は肥料を単なる「もの」としてではなく、精神的な関わりを感じていた証拠。糞は値段がついていて、野菜などと物々交換で引き取られる。野壺で発酵して「天地の化育を助ける糞壌」として肥料になり、畑で撒かれた。

「天地の化育」を科学的に説明すると「窒素」「リン酸」「カリウム」をいかに大地に戻して回していくか。日本は世界的にみても珍しい「黒ボク土」と呼ばれる火山灰土が多い。黒ボク土はリン酸をどんどん吸収してしまう土。作物と土がリン酸を取り合い、作物が負ける。

この黒ボク土でいかに作物を育てるか、リン酸を増やしつつ土壌を肥して作物を作り続けるか、その知恵が江戸時代以降ずっと蓄積されてきた。野壺は1948年頃まで使われていた=230年以上も形を変えずに引き継がれた。

近代まではウンコは今よりもずっと高い位置付けで、大切にされてきた。産業が発達した近代でも糞の売買は行われ、大正時代の「下肥」という書籍にも人糞尿は科学的に使用するべきだ、と書かれている。「江戸時代はエコな時代」と言われるが、当時の人たちの意識は環境のためではなく、「糞=ビッグ・ビジネス」。

途中で示された資料「農稼肥培論(大蔵永常)」が気になって調べてみたら、こんな論文を見つけた

論文によれば、江戸時代日本の農書に書かれていた農業の根本的な考え方を示す言葉として「天の道を用い、地の利に因り、人の事を尽くす」という、中国の天・地・人の三才思想がある。興味深かったのは、(おそらく人口増加と江戸の都市化が原因だと思うけど)江戸時代も「天道>地理>人事」と「天道<地理<人事」という考えが対立していることだった。なるほど。江戸時代からすでに規模は小さいながらも「工業化」VS「自然(ジネン)」の揺り戻しは起こっていたわけだ。

ウンコが汚いものとして格下げになった件

近代になり、清掃、衛生行政、化学も日本に入ってくるが、これにコレラの流行も重なり、衛生という概念が一般的に導入され、宝物だったウンコが「汚いもの」として公言されるようになる。

この頃の人口増加も関係する。人口の増加=食料は大量に必要=ウンコも増大。都市でウンコを処理しきれなくなる。1930年(昭和5年)に汚物掃除法でウンコも汚物に含めて処理されるようになる。

さらに拍車をかけたのは、戦後の生野菜を食べる風習。食文化が変わると衛生面も変わる。GHQの「清浄野菜」の指導。清浄野菜とは化学肥料でできた野菜のこと。これによって下肥による野菜生産が難しくなった。処理しきれない屎尿は海洋投棄(黄害)。こうして、人々もウンコからどんどん遠ざかる事になる。

水洗トイレの普及で日本は「クールジャパン・トイレ」として世界的に有名に。一方で、汚泥は焼却処理へ。水分を多く含んだ屎尿の焼却処理には莫大な手間とコストがかかり、産業廃棄物としても莫大な量なのだが、これはあまり知られていない。

現在、ウンコは最終的には埋立地、また建築で使われるセメントの中へ。緑地農地利用もあるがあまり進んでいない。以前は宝物として土に還っていたウンコが、今は土に還るのはほとんどなく、産業廃棄物として無理くり処理している現状。

文明転換をウンコから考える

世界で最も進んだ近代的なパリでの暮らしで生きる実感を得られなくなったゴーギャン、タヒチで土の上で自然に暮らす人々との生活の中で、生きる実感を取り戻していく。ゴーギャンはここで文明転換を唱えた。

文明転換 → 土と共に生きる=ウンコと親しむ。

今、私たちは文明転換の帰路に立っている。この文明転換を、ウンコから考える。

なぜ私たちはウンコの話をしないのか?ウンコの話をする機会が少ないのはなぜ?
ウンコは「汚い」と言われているから。
では、ウンコは汚いのだろうか?
なぜ汚いのか、何が汚いのか?

私たちが「汚い」と言っているだけなのではないだろうか?ウンコを「汚い」と客体的に名付けているだけではないだろうか?と話す湯澤先生。

人間、食べたことがない人はいないように、ウンコをしたことがない人もいない。世界のどの地域の人でも何かを食べている、世界のどの地域の人でもウンコをしている。世界の人と対等に話ができる共通のテーマでもある。

江戸時代の人だって、全員が「ウンコ=宝」とは思っていない。清濁併せ持つ、不浄。うんこ=絶対悪ではない、嫌なものだけど、役に立つ、という今よりももっとずっと多面的、もっと複雑、相反する考えを持っていたそうだ。

衛生=生を守る、汚れも受け止める、文明転換。汚すことが身を守る、完璧に潔癖で生は守れない。大事なインフラであるにも関わらず、カスタマイズ、利用法について思考停止しているのでは?との意見も。

ウンコで未来は語れるのか 〜環境教育の可能性〜

ウンコを食べ物に繋ぐことはできるのか?
その鍵になるものの一つに「ビストロ下水道」@鶴岡市。

下水道でやりたいことがたくさんある。嫌気式のタンク=無料のエネルギーが発生するので熱を売る、さらに余剰熱でハウス栽培。鶴岡コンポスト(大量の籾殻を混ぜて)として販売。

処理水を田圃に入れる試み。タンパク質豊富な水は資料米の栽培にピッタリ。栄養たっぷりな処理水であゆを育てる試み(山形大学農学部研究が協力)。アンモニアを吸収するクレソンやバジルを水耕栽培し、井戸水で希釈してあゆを育てる。

うまく行っている自治体は全国にありながら、関東圏はゼロ=全て燃やすから。海外でも緑地農地への動き。イングランドでは汚泥の緑地利用60%に。日本は取り残されている感満載。

ここで。湯澤先生が問題提起したように、果たして「食育」だけでいいのか、という疑問を私も持った。「食べる=出す」は人間として生きていく上で欠かせないことなのに、片方だけに強烈なスポットライトが当たっている現状。

生物は土から生まれて土に還っていくべきものなのかもしれないが、人間だけが排泄も死体も土に還らない今のサイクル。ウンコや循環について考えるべき時期に来ているのではないか。うんこや循環について、もっと考えてみよう!

湯澤先生が対談されたイタリアの環境教育実践家からの情報で、イタリアでは2020年9月から「環境教育」が幼稚園から高校まで義務教育化されたらしい。

ものすごく気になって早速調べてみたら、結構大きなニュースだったみたいですね。英語版の記事はかなりたくさん見つかりました。が、肝心の教育内容が見えてこない。さらにイタリアの環境教育について調べてみると、やっとこさ資料が見つかった(イタリア語ですが、DeepL様様です)。

イタリアにはもともと「Civic Education 市民教育」という科目があったのだろうか。2020年9月以降、Civic Educationは、就学前から高等学校まで、すべての学校レベルをカバーする教科横断的な科目となった模様。

指導は3つの主要なテーマに沿って行われ、「CONSTITUTION(憲法)、法律(国内および国際)、合法性と連帯感」「SUSTAINABLE DEVELOPMENT(持続可能な開発)、環境教育、知識、遺産と地域の保護」「DIGITAL CITIZENSHIP デジタル市民」がそのテーマ。

こちらはそのテーマ例と実践例の紹介、らしい。

環境教育として、循環はとても大切なテーマ=ウンコを取り上げることも可能かも。なんとか、イタリアのコアカリキュラム的なものが手に入らないかなぁ… 

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