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俳筋力の鍛えやすさとは 〜道後俳句塾2022の学び〜

道後俳句塾2022に参加した。

学びしかなかった、と言いたいところだが、俳句1年目の自分が、すべてを消化するには難易度が高かった。それくらい圧倒的な質と量の教えがあった。

今回の俳句塾は、宇多喜代子先生、黒田杏子先生、松本勇二先生、夏井いつき先生の4人の先生方が講師だ。そうして、

  • 1日目:事前投句した2句について、4人の先生全員が「どちらがいい句か?」を判定、講評する。参加者115名。各先生が特選五句、入選十句の選も行う

  • 2日目:1時間30分の吟行で2句投句する。その2句について1日目同様に、先生方が「どちらがいい句か?」を判定、講評する。参加者80名。各先生がグランプリ一句、特選四句、入選十句の選も行う

という形で進行した。今年は宇多先生と黒田先生は当日来られず、1日目は両先生の講評ノートを松本先生と夏井先生が代読くださった。2日目は松本先生と夏井先生のみが講評してくださった。

1日目の状況を簡単に書くと。

講評の時間は4時間で、115人の句が一気に講評される。つまり1人あたり2分間だ。その2分の間に、「4人の先生それぞれが、どちらをいい句と判定したか」が端的に語られる。

猛スピードの鑑賞。
猛スピードの評価。
猛スピードの俳句論。

句会に出たことのある人ならわかるだろう。我々が選評するとき、いかに長々と喋ってしまうかを。そこを先生方は、バッサバッサと評を展開する。

ちなみに俳句としての出来がよろしくないと、

「平凡」
「感想」
「報告」
「よかったですね」

という評を得ることになる。「寸鉄人を刺す」という言葉を久々に思い出した。(※実際には夏井先生と松本先生が寄り添って伝えてくれました)

そんな感じで230句への、4人の高名な先生の講評が猛スピードで飛び交うので、メモするのに精一杯である。ありがたいことに、大きな清記集を配って頂けたので、話を聞いて書き込んでいるうちに、4時間が終わった。(※印象的だった先生のお言葉については、記事の最後に箇条書きしましたのでご参考ください)

当然それを見返すだけで、勉強になる。

勉強になるのだが、個別に講評を見返すだけでは、選評集や俳句学習本を読むのと、さほど変わらない。やはりどうせなら、この俳句塾だからこその意義を見出したいと思う。

僕にとって、道後俳句塾特有の学びは何だったのだろうか?

道後俳句塾だからこその学び

それは、「先生方の評の揺れ」から考えることができると思う。

4人の先生全員の「どちらの句がいいか?」が一致することは少ない。115人のうち、全員の選択が一致したのは、2割くらいだった。

僕の感覚値だが、先生方の講評を聞いた感じの内訳としては、

1. どの先生が見ても、片方の句が優れているor劣っている(選が一致する):2割
2. どの先生が見ても、甲乙つけがたい
 A. どちらの句もよろしい:1割
 B. どちらの句も並:3割
 C. どちらの句もよろしくない:1割
3. ある先生は片方の句を優れていると見なしているが、別の先生にとってはそうでもない:3割

のようだったと思う。

「2.どの先生が見ても、甲乙つけがたい」の場合、2つの句のどのポイントを、積極的もしくは消極的に評価するかによって、先生方は選択を行う。

この選択は、句風や句柄の好み、挑戦の評価、ポテンシャルの評価などを踏まえて、ある種「エイヤ!」で決めることになる。そのため、先生方の選択は基本的に一致しない。
(俳句甲子園のイメージで言うと、作品点が同点で、先生方がディベートしているのに近い)

で、面白かったのは、「3. ある先生は片方の句を優れていると見なしているが、別の先生にとってはそうでもない」のケースだ。つまり評価の是非が揺れるケースだ。

このケースが何によって発生するのか、メモを頼りにまとめてみると…

■ 先生によって、評価の揺れることがある4つの是非
・言葉のバランス感の是非
例)季語と措辞の言葉の重みのバランスが釣り合っているか、いないか?
・描写の解像度の是非
例)曖昧な描写が、景を大きくするために効いているか、いないか?
・経験、感覚に依拠する描写の是非
例)共感や興味、郷愁を誘うか、誘わないか?
例)五感を新鮮に刺激するか、しないか?
・言わずもがなの是非
例)言わなくても自然と連想されるのか、読み手を誘導すべきか?

この4つの是非は、先生方でも揺れるケースが生じやすかったと思う。これが「是」と見なされると、その句は評価を得やすい。

逆に言うと…

■ 先生によって、評価が揺れない是非
・季語の取り合わせの是非(不即不離の距離感の是非)
・展開、着地の是非

などは、先生方の是非の評価が異なることは少なかった。特に、季語の取り合わせの是非に関しては、ほぼ完全に一致していた気がする。

こうした是非が揺れにくいものは、俳句に向き合っていけば、着実に習得しやすいと思う。鍛えた俳筋力を、鍛えた分だけ直接作品に反映させやすい部分だろう。

一方、評価が揺れやすい4つの是非は、上手くいけば高評価を得られる、挑戦しがいのあるポイントとも言える。事実今回、是非が揺れた句の中で、特選句となった句も多い。

こうした是非の揺れやすい部分は、扱いが難しい。一度うまくいっても再現性を担保しにくく、定評ある句を真似しても火傷しやすい。投句先によっても評価が異なりやすい。フィードバックに幅があるため、俳筋力の鍛え方を迷いやすい部分だろう。

ただし、救いなのは。
そうした場合でも、努力や企む姿勢は、先生方に伝わるということだ。

今回の塾で、評価が揺れる部分に関して先生方が「どんどんやったらええと思う」「挑戦は認める」「勇気は買う」「このポイントを積極的に評価するかどうかによって選が分かれる」と、コメントするケースが何度かあった。

翻って自身のことを考えると。

渾身の一句として提出する句は、是非の揺れやすい部分を伴いやすい。確信がないために時間をかけてしまうし、それゆえに期待もしてしまう。

だから、成果に結びつかないと落胆しやすいが、今回の俳句塾で分かったのは、そうした不確実性こそが、自身の俳句を高めるきっかけになりうるということだ。

だから、黙々と挑戦と失敗を重ねていけばいいのだと思う。自分にとって道後俳句塾2022最大の収穫は、「目に見えて鍛えやすい俳筋力と、そうじゃない俳筋力がある」とわかったことだ。

なんて偉そうなことを言ってしまったが、自分はまだ、鍛えやすい俳筋力を鍛える段階にある。

ただ、そういう俳筋力の領域があるとわかったのは、今後に向けて心構えをする上でもよかった。鍛える領域に応じて、鍛え方や、マインドを変えて、俳句に取り組んでいきたい。

そして何より、先生方の講評する現場に立ち会えたことで、情熱や俳人の魂に感応することができました。

最後になりますが、宇多先生、黒田先生、松本先生、夏井先生、たくさんの丹念な講評をありがとうございました!俳句の楽しさ、奥深さを味わうことができました。

そしてイベントを主催くださった子規記念博物館の皆さま、スムーズな運営をありがとうございました!吟行後の印刷までの速さと、資料の正確さ便利さに驚嘆しておりました。

おかげさまで、また松山&道後に行きたい気持ちでいっぱいになりました。心より御礼申し上げます!

(付録)心に残った先生方の言葉

  • 句で遊ぶときは、読み手も遊べなきゃダメ

  • もし仮にこの景色を見る吟行があったら、こういう句が1つ2つ出てきそう。そういう意味で類想

  • 自分が面白いと思うことや楽しいことに、案外人はついてこない

  • 下五の展開や季語によって、句が細ることもあれば、爆発的に太ることもある

  • 五感の精度を上げる。そういうものが、詩

  • 詩の純度をもっと上げられるはず

  • 「に」が来ると案外キツくなることが多い

  • 理屈をこねるときは季語を薄くすればよい

  • 言葉の優先順位をつけて自分のこだわりを発見するといい

  • 自分のことを書くときは、相当力のある言葉が必要

  • しっかり見て、言いとめる

  • 50%の人がわかる言葉なら、共通言語として使っていい(金子兜太先生のお言葉らしいです)

  • 俳句で残るのは定型だけ(金子兜太先生のお言葉らしいです)

  • イコールはダメ(説明という意味で)

  • この人の取り合わせの感覚は明るい方向に向いている

  • 実生活すぎる。浮こうとしていない

  • 俳句が蠢いているか、いないか

  • これは、本人も書きたいことがわからなかった句。本人のイメージがまだ言葉になっていない

  • 嘘を書いてそこに実感があればいい

  • 大きな嘘は、大きな季語に収斂させるといい

  • これは現場証明、という展開になっている

  • 対義語にした方が面白くないか?

  • 吟行は、俳句の頭に持っていくのが難しい。そういうときは自分の過去のいい句を反芻したりしてスイッチを入れるといい。そして感性を信じる

  • 吟行で時間軸を移すのもあり

  • 吟行は焦るから、出てきた順に書いてしまいがち。1回、引き出しに入れた方が良い

  • においは、悲しいとか寂しいと一緒。「におい」と直接書いていいかどうかはケースバイケース

  • 句を単なる写真的描写から文芸に押し上げるのは、そこに血が通っているかどうか(池之端モルトさんに教えて頂きました。感謝!)

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