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絵画的な俳句を詠みたくなる『百句燦燦』

アンソロジー句集『百句燦燦』を手に入れた。

先日読んだ『愉しきかな、俳句』で、装幀家の間村俊一さんが、衝撃を受けた句集として挙げていたからだ。曰く、

  • 歌人の塚本邦雄さんの愛誦句集

  • 塚本さんの完璧な美意識と価値観で、選句されている

  • 独特な活版組の本文がイカれるくらいすごい

  • 余白も美しい。造本のすごさを味わうために持っておくといい

  • この原体験ゆえ、今でもコンピュータじゃなくて活版にこだわってしまう

  • テキストだけなら今でも文庫版で手に入るよ

である。ここまで言われて気にならないわけがない。というわけで文庫版の

を買った。痛恨だったのは、活版の方は流石に手に入らないだろうと思っていたが、今調べると普通に、

で売っていた 笑。いつか活版組の本文と余白を見てみたい。

ただ文庫版にもいいことはあって、作家の橋本治の素晴らしい解説がついていた。橋本治は2019年に70歳で亡くなったが、『ひらがな日本美術史』など、いくつかの著作に触れて「この人はすごい」と思っていた。

今回の解説もやっぱりすごかった。

  • 鑑賞文の文字の並びが、そのまま絵になって見える、、、

  • 私自身は短歌や俳句に、いつも「絵」を見ていた

  • 作者の心理や心境や心情などは、どうでもいい

  • 「絵」が見えず、いきなり「作者の生の声」が聞こえてくるようなものは、つまらない

  • 生の声は表現の奥に隠されてあるべきで、ストレートに声を聞かせたいのなら、そう仕組まれた表現であってしかるべき。例えば《転生を信じるなれば鹿などよし 下村槐太》のように

  • 『百句燦燦』に登場する句は、私にとって「文字で書かれた百点の近代絵画集」。すべてが「描かれなかった絵画達」である

  • 塚本邦雄は、各作品のありように従って、明確かつ明晰に作品のすべてを語る。そうしてただ「仰げ」と言う。「すごいと言って、煩悶せよ。閉じた矮小な世界が内側から開かれるまで」と言う

俳句でよく「説明じゃなくて描写を」と言われるが、描写の粋を尽くせばここまで言わしめるのか、と思う。

ただ、本書には一つ難しいポイントがあって、すべて正字体で書かれていることだ。塚本邦雄の文章自体は超難解というわけではないが、正字体によって、読みが逐一ストップする。

正字体だと、例えば「点」が「點」に、「転ぶ」が「轉ぶ」になったりする。たまにならいいのだけど、全文は流石にキツかった。根気のない僕は三割くらい読んで、あとは気になった句だけさらった。ごめんなさい、塚本先生。

愛誦句だけあって、本書には有名ではない句もふんだんに含まれている。一方、鑑賞文中で、同一作者の有名句との比較や、作者の経歴における句の位置付けの考察が豊富にあるので、作家論的な観点で勉強になる。

あとは何と言っても、塚本邦雄が本当に愛誦していることがうかがえて、読んでいるこちらにも「なぜこの句が好きなのか」が論理的に伝わってくる。ここまで「好き」が個別に体系だって説明された句集は他にないのではないだろうか。

そして解説にあったように「絵画的に」際立つような鑑賞が、各句の最初にくることが多い。以下、百句のうち気になった十五句と、塚本邦雄の印象的な鑑賞ポイントについて記載する。正字体ではなく新字体で。

子をちしながき一瞬天の蝉 秋元不死男

・ぶたれたのは子だが、父は返す拳で心をぶたれた
・息子に罪はなかったからこそ「ながき一瞬」が父を棒立ちにさせる
・蝉の音は父への無心の告発であり、父子への挽歌

山の冷猟男さつおの体躯同じ湯に 森澄雄

・猟師の男は壮年で赤顔、胸板広く、僧帽筋が発達しているだろう
・作中主体は、猟師の男を山霊の化身として畏れている
・二人は口を聞かず、樹々の葉擦れと鳥の声と水の滴りのみが聞こえる

緑蔭に三人の老婆笑へりき 西東三鬼

・鬱蒼とした木下蔭で、皺だらけの顔を老婆がよせあっている
・老婆は赤い舌をひらめかせ笑い続けるが、その声は誰にも聞こえない
・作中主体にのみ、妖婆の声が聞こえ、同じ異類として現世を冷笑している

無神の旅あかつき岬をマッチで燃し 金子兜太

・兜太の句の衝撃的な爽やかさは、句以前の力学的緊張によって生まれる
・言葉によって殴り殴られる快感を立証したのが兜太
・掲句は、兜太の暴力的な抽象性と、明快な行動性が伯仲している
・反神ではなく無神と指示するところに、作者の不屈の精神が躍如している

罌粟けしひらく髪の先まで寂しきとき 橋本多佳子

・鋭い誇張。誇張だが、多佳子の必死の表現が真を穿っている
・この句には感性以外の何もない。多佳子の句には冴えた感性だけで結晶を遂げたものがいくつかある
・塚本邦雄は時として橋本多佳子が歌人だったならばと夢想した。だが多佳子が、感性の跳梁を許さぬ俳諧の美を示したときに諦めがついた

父を嗅ぐ書斎に犀を幻想し 寺山修司

・(短編小説的に句が鑑賞されていた)

怒らぬから青野でしめる友の首 島津亮

・島津亮の句集では次の句が《炎天へ真紅な国へ逃げ転ぶ》で、連歌的に鑑賞する密かな愉しみを覚えてしまった
・友への愛情表現として首を絞めるのはやりすぎで、汗や熱した息遣いを感じる。彼らは日常社会から解き放たれて、禁断の領域である「真紅な国へ逃げ」かけているのではないか

釘箱から夕がほの種出してくる 飴山實

・埃まみれの重い釘箱の中の、錆びた蝶番やネジの合間に種を見つける
・ささやかな発見に心躍るも、何程のこともない
・この句には人間が不在。無駄な部分だけを残したことで詩が膨らむ
・そうした鈍色の世界を明らかにする、鈍色のフィルターが本句

ねむりても旅の花火の胸にひらく 大野林火

・「旅の、花火の、胸に、ひらく」の訴えるような呟きが甘美
・甘さを忌む俳諧のストイックさから逃れ得た、仄かな味わいが愛おしい
・こうした血を通わせた抒情句は、淡い色と匂いを以て意外に永く生き残る

鉛筆の遺書ならば忘れ易からむ 林田紀音夫

・鉛筆で遺書を書くのは遺された者への衝撃を軽くするための優しさだろう
・そして消えやすい鉛筆だからこそ、忘れ難い
・紀音夫は知らぬふりをしているだけで、本句は紀音夫の「鉛筆の遺書≒句」を書き続けるという意思表示ではないか

囀や海の平らを死者歩く 三橋鷹女

・海を歩くのはイエスではなく、不特定の死者。そして精霊流しのような季題ではなく、春に転じたことで鷹女の世界が現れる
・鷹女の後年の句には、魔女や巫女の呪詞としか思えないものがある
・囀とは生者の喘ぎ呻きではないだろうか

蝶堕ちて大音響の結氷期 富澤赤黄男

・完全な死の結晶として比類なく美しい
・こんな世界さえも、俳句的空間に密閉できたことを驚くべき
・ただ飽くまでも、歳時記に但し書きされる突然変異としての美しさであることを忘れてはならない

パンツ脱ぐ遠き少年泳ぐのか 山口誓子

・遠くから息を詰めて、少年が裸になるまでを凝視していた作者の目が潤んでいたことは間違いない
・「少年」は俳句の修羅として生きる誓子にとって、救済の象徴ではないか
・そう、誓子の心の館の裏には、ピーター・パンが住んでいる。仮面をつけた七十歳の醜い老人であるかもしれないが

娼婦の日傘黒死病ペストの町の千年後 馬場駿吉

・駿吉は典雅な言葉の地獄や、残忍な文字の迷宮に潜入する名手
・ペストが運命的な疫病であったとき、官能的な悦楽も極限にあった
・娼婦とはカエサルの裔かもしれない。そうした眩暈の領域を俊吉は紡ぐ

向日葵の蘂を見るとき海消えし 芝不器男

・この句の儚い光は最後の一音「し」に収斂する
・連体形のまま消え入るように終わるのは作中主体の甘さであり、優柔不断の性の露呈
・鋭く細い「し」は未練を残す。しかしもう紺青の海は復元されず、夏に灼かれた心を癒す機会はかえってこない

以上です!絵画的な鑑賞に堪えうるような句を、自分もいつか詠みたいと思った読書体験でした。

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