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季語の力とは

「季語の力を信じる」や「季語を立てる」というフレーズが『プレバト!!』でたまに出てくる。

いち視聴者としては「だよなぁ〜わかるぜなっちゃん!」と思う。
やっぱ季語を主役にしなくちゃダメだよな。

だが、ぞんざいに季語を扱っている自句のなんと多いことか。季語以外のテーマで俳句を詠むときなんて、歳時記からちょうどいい字数の、相性良さそうな季語を探してくっつけるという所業さえする。

もはや画数だけで決めるキラキラネーム。
あるいは選択肢100個のマークシート試験。

俳句を始めた頃ならまだしも、そろそろ半年が経つ。さすがにこれ以上、当てずっぽうな季語探しを繰り返すのはもったいない。ここで一度、考えをまとめておこうと思う。

そもそも、季語の力とは何か。

信じるも何も、季語の力を知らなければ、どうしようもないではないか。
前回の「いい俳句とは?」に続き、今回は「季語の力とは?」について考察してみる。

例によって、俳句初心者が句作用に頭を整理するために、壮大なテーマを語る。

だからこれから書くことは、ひどい誤解あるいは狭量すぎる見方かもしれない。それでも万が一、世の中の誰かの何かの参考になったら幸甚である。

季語と、季語以外の違い

まずは権威に頼ろう。手元の歳時記の序文を読む。

季語には、日本文化のエッセンスが詰まっている。俳句がたった十七音で大きな世界を詠むことができるのは、背後にある日本文化全般が季語という装置によって呼び起こされるからである。

『合本俳句歳時記 第五版』(角川書店、2019年)

また最近読んだ本では、以下のように書かれていた。

・季語ははじめから想像力の賜物であり、現実とは別のもの
・朝顔は初秋の朝、露をいっぱい浴びて開くというような約束、これが季語の「本意」
・すべての季語にこの本意がある
・本意に従うにしろ背くにしろ、俳句を詠む以上、本意を踏まなければならない

長谷川 櫂『決定版 一億人の俳句入門』(講談社現代新書、2009年)p.116-119

以上から読み取れることが4つある。

  • 季語は一般用語と字面は同じだが、意味は異なる罠じゃん

  • 季語はフィクション。季語としての意味を本意という。マジかよ

  • 本意に基づいて季語を使えば、日本文化全般を呼び起こすことができる魔法かよ

  • つまり、本意を知らなければ、俳句を正しく読むことも季語を使うこともできない最初に教えてくれよ

何ということだろう。僕はこれまで季語とは「季語として認定された一般単語」だと思っていた。そうではなく別の概念として存在していたのだ。これは、勘違いしている日本人が一定数いるのではないだろうか。

日常での「ニンニク」と、ラーメン二郎で唱える「ニンニク」の意味が違うように、一般用語としての単語と季語は意味が違ったのだ。

では、本意はどう捉えればよいのか?

本意の捉え方

例えば紫陽花で考えてみよう。うちの歳時記だと、以下のように解説されている。例句も3つだけ記載した。

【紫陽花 あぢさゐ】 四葩、七変化
梅雨時を代表するユキノシタ科の落葉低木の花。額紫陽花を母種とし、日本原産と言われる。「四葩」の名は、花びらのように見える四枚の萼の中心に細かい粒のような花をつけることから。花色は酸性土では青、アルカリ性土では赤紫色となる。色が次第に変化することから「七変化」ともいう。

あぢさゐや仕舞のつかぬ昼の酒   乙ニ
紫陽花の末一色となりにけり    一茶
あぢさいの藍をつくして了りけり  安住 敦

『合本俳句歳時記 第五版』(角川書店、2019年)p.433

ここで厄介なのは、歳時記の季語の解説が本意なのかどうかは、うちの歳時記には明記されていないことだ。夏井先生のブログを見る限り、歳時記によっては、本意が記されているケースとそうじゃないケースがあるらしい。

ただ、この歳時記には「例句は、季語の本意を活かしていることを第一条件とした」とあったので、解説にも本意を記述するスタンスを取っていると推察される。なので、ここでは、歳時記の季語の解説 = 季語の本意が含まれる、と見なして話を進める。

さて。この解説をどう読めばいいのか。

普通に読んでも、正直、紫陽花のスペックが書かれているだけのように見える。名だたる俳人の方であれば、これを本意として腹落ちさせられると思うが、初心者には難しい。

なので、脳内補強した方がわかりやすいのではないだろうか。テンションが高くなってきたので、ラップ調で補強してみる。言いたいのは黒太字の部分だ。a.k.a は also known as の略です。

オレたちのDNA。何十年、何百年前の記憶を投影。
紫陽花について話そう。そう、あの梅雨時を代表する花。
ユキノシタ科、君は見たか? 落葉低木の花。
母種は額紫陽花、一切合切、日本原産。

花びらのように見える四枚の萼。全方角に美学。
中心に細かい粒のような花。手放す気ハナからない。
わかるだろ? a.k.a 四葩。

花色は酸性土で青、青賛成。
花色はアルカリ性土で赤紫色、あらカリスマ性。
色は次第に変化する、紫陽花マジ最高。
わかるだろ? a.k.a 七変化。

ごめんなさい、ラップについては、アニメ『オッドタクシー』の矢野でしか知りません

まあ、ほとんどそのままだ。だが、重要なのは、

  • 歳時記に記載されている意味を、

  • 何十年、何百年と培われてきた情緒的な経験として尊重すること

  • その経験は万人がわかると信じること

だと思う。

とはいえ、解説だけから実感を伴って季語の本意を捉えるのは難しい。そこで例句が活躍する。例えば、

あぢさゐや仕舞のつかぬ昼の酒:梅雨時という特徴から、ダラダラ感を。
紫陽花の末一色となりにけり:色が変化するという特徴で、時の移ろいを。
あぢさゐの藍をつくして了りけり:日本原産という特徴で、藍らしさを。

詠んでいるように思える。それぞれ、他の季語ではなく紫陽花だからこそ発揮される意味である。例句を読むことで、殿堂入りした「ぼくのかんがえたさいきょうの紫陽花がある情景」を知ることができる。

ロミオとジュリエットだって筋書きは等しくとも、何度も上演される。あるいは、ウエスト・サイド・ストーリーのようになる。比較的最近誕生した、ゴジラやウルトラマンですら、シン版が誕生する。

季語も、さまざまな角度から、各自の季語像がリバイバルされる。その季語像の骨格となる「これがなくちゃ始まらないよね」というポイントが、本意ではないだろうか。

ロミオとジュリエットは敵味方に別れた陣営にいなればならない。
ウルトラマンは変身できなければならない。
紫陽花は色が変化して、花びらっぽい萼4枚があって、梅雨時の主役でなければならない。

将来品種改良されて、色が変化しない紫陽花が主流になったとしても、紫陽花の本意は色が変化することから生まれる。現実的に存続するかどうはさておき、色が変化する紫陽花こそ、モチーフとして愛され、たくさん詠み込まれ、名句を生んできた紫陽花なのだ。

もちろん、本意も歳時記の編集にあたって、見直しの議論がされていると思う。だが、歴史的名句が生まれ、我々にとって大事な心象風景を形成するようになった季語については、そう易々と本意は変わらないのではないか。

そういうものとして本意をとらえると、歳時記の説明も読み応えがあるし、例句の尊さが何倍にもなる。

僕はもっと、歳時記を読み込むべきだった。

本意の重みを感じ取りながら解説を読むのは、正直気合が必要だ。例句だって腰を据えなきゃ読めない。だが僕はまず、そこから始めなければならない。

ただ、最後に1つ疑問が残る。
なぜ季語は本意を活かす必要があるのか?
本意ではない季語の特徴を詠んでも、ダメなのか?

季語の力

結論、基本的には本意を活用しないと厳しいと思う。
本意を活かさずに、名句を詠むのは難易度がめちゃくちゃ高いと思う。
(ワンチャン、新しい本意の糧になるくらいの何かがあればイケるかもしれない)

と言うのは、季語がフィクションだからだ。
例えば、映画やアニメを観て号泣したあとは、BGMだけで泣ける。

僕の想像だが、これと同じで。

季語の本意が活用された句を俳人が読むと、季語を取り巻く様々なイメージが想起され、もののあはれに満ちたいとおかしなヤバい情緒が押し寄せる。そして血がキレイになる。

本意でないと、この季語スイッチが発動しない。なぜなら、過去の名句の多くは本意に基づいて詠まれているからだ。

芭蕉や蕪村や子規の力を召喚するには、彼らと同じように本意で季語を用いて、「ああ、そう言われれば、あんなことも、こんなこともあった!そこにお前の句は、こう乗っかってくるのか!」と想起させなければならない。

本意ではない、紫陽花の葉っぱのギザギザさで詠んでも、そうした効果は生まれない。だが紫陽花の色変化ならば、上手くいけば、一茶が力を貸してくれる。(ちなみに僕は1ヶ月前に、ギザギザな紫陽花俳句を詠んだ)

つまり本意は、本意単独としての意味が伝統的で強固なだけではない。名句によって培われたフィクショナルなイメージを連想させるという、チート級の力を秘めている。

うちの歳時記はそのフィクショナルなイメージを「日本文化全般」と呼んでいる。僕が好きな村上春樹なら「集合的無意識」と呼ぶかもしれない。いずれにしても、その季語にまつわる過去の分厚い情緒的経験のことだ。

図に表すとこんな感じだ。

季語は氷山の一角で、その下には本意から入るとたどり着けます

17音という音数で、豊かな情景を伝えるには、この本意によるイメージ召喚を使わない手はない。

村上春樹もこう言っていた。

本当のリアリティっていうのは、リアリティを超えたものなんです。事実をリアルに書いただけでは、本当のリアリティにはならない。もう一段差し込みのあるリアリティにしなくちゃいけない。それがフィクションです。

川上 未映子、村上 春樹『みみずくは黄昏に飛びたつ』(新潮社、2017年)p.37

俳句は読むことと詠むことが両輪、と言われるが、その本質はフィクションを扱う力を高めることにあるのではないだろうか。

著名な俳人の方々が名句をスラスラ言えるのは、知識を得るために勉強したからではない気がする。季語から連想して読む力と、連想を生むように詠む力の両方を高めるために、必然的に名句を体得したのだと思う。

今後の句作に向けて

前回の「いい俳句とは?」の記事で、「季語で道を開く」や「季語と呼応する」、「季語と繋がる措辞を見つける」といったフレーズを僕は使った。だが、具体的にどうすればいいのか、迷子になるケースが多かった。

そこで1回、季語をどう使えばよいのかについて、自分なりに考察してみた。やはりこのすべてが妄想かもしれないが、とりあえずは、歳時記を読み込みながら、季語の本意を踏まえた投句をして検証していきたいと思う。

今回もボリューミーな記事になってしまいました。最後まで読んでくださった方いらっしゃいましたら、誠にありがとうございました!またどこかでお会いしましょう。


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