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俳句というツールを磨きたくなる『愉しきかな、俳句』

9月に道後俳句塾に行く。西村和子先生に初めて句を見て頂く。

せっかくの機会なので、西村先生の著作を読んでおこうと思った。そうして新宿の紀伊國屋で出会ったのが『愉しきかな、俳句』である。各界の著名な俳句愛好者15名との対談集だ。

読み返したくなる言葉がたくさんあったので、抜き出してみます。
※一部、編集しているところもあります

洋菓子店当主の山本 道子さんと

西村 道子さんが好きな俳句を教えていただけますか。
山本 星野立子さんの〈いつの間にがらりと涼しチョコレート〉。ある季節にならないとおいしいと感じられない味ってありますよね。
西村 その句は私も大好き。味覚が季節と密着してますよね。その句が句会で出た時、お父さんの高浜虚子は「この下五にチョコレートを置き得たのは一体誰だろうと思った。あとで名乗りを聞いて、ああ、これはお前だったのか」と新鮮な感動を漏らしています。

p.71

歌人の永田 和宏さんと

西村 俳句はぱっと投げ出して、分かってくれる人に分かってもらえればいい、という潔さをもって作らないと、説明的になってしまうんです。
永田
 全くその通りです。短歌も完結させてはダメで、上の句と下の句の「間」を読んでくれという感じですね。僕は若い時、「問いと答えの合わせ鏡」ということを言ってるんです。上の句で問いを出す。下の句はそれに対する答え。だけど答えてしまったらダメで、答えはさらに問いになって上の句を問い返す。要するに上の句と下の句は合わせ鏡のようにお互いに照らし合わないと短歌ってダメだと。
 俳句の場合は五七五を作って、ドンと相手に投げる。どちらにしても、素人の人が失敗するのが答えを出してしまうこと。

p.89-90

居酒屋探訪家の太田 和彦さんと

西村 全部が志の高い、丈の高い俳句だけじゃなくていいんです。俳句は所詮、俗ですから。季語には蚤も虱もある。でも俗を品よく詠むのが格のある句です。
太田 「俗にありて高みを目指す」、それこそが私の目指す世界です。
西村 それを目指しましょう。詠みながら、飲みながら。

p.147-148

歌舞伎役者の坂東 三津五郎さんと

坂東 褒められたいとか、賛同を得たい、評価してもらいたい、そういう気持ちは、以前は絶対にあった。でも病気をしてからはそれがちょっとなくなって、評価を得ようという気持ちよりも、自分がこれまで培ってきたものを自分の中で、今できる範囲でうまく昇華させて提示するという感じですかね。「あとはご随意にご判断ください」みたいな。
 父母にしても、お師匠さんにしても、褒めてほしい人はもうこの世の中にいないんです。ですから舞台で報告をしているような気がするのです。こっちに対して見せるのではなく、「あの世に向けてやっている」。
西村 その話はとても共鳴を覚えます。私も「死者に向かって」という思いがあります。俳句の先生も、父も母も夫も亡くしました。自分がやっていることを考えると、先生に恥ずかしくないような仕事をしないといけないなと。

p.173-174

小児科医の細谷 亮太さんと

西村 辛いことも多かったでしょう〈どれほどの鬱ならやまひ花茗荷〉の頃ですね。
細谷 朝、車のハンドルを握って、病院に来ようと思うと涙が止まらなくなるとか、そういうことがありました。
西村 その頃の〈悲しき時のみ詩をたまふ神雁渡〉が大好きです。
細谷 そんな気分が実感としてあったということです。悲しい時に詩を作るということを日常にしてたんだと思う。
西村 それが日常とは、相当辛いですねえ。
細谷 暗い句が多いんです。
西村 子供の死を目の当たりにする日常はとても耐えられないと思う。でも、そういう時も俳句は手放さなかった。
細谷 俳句が救いになったと思いますよ。

p.189-190

マラソンランナーの増田 明美さんと

増田 黛まどかさんは食事会の時によく、その日に会った人を詠んだ俳句をコースターなんかにちょこちょこっと書いてくれるんですよ。私には〈ゴールして白詰草に倒れ込む〉その瞬間、「あ、俳句っていいな」と思いました。

p.235

西村 私は「作句帳のほかに、もう一冊清書用ノートを作って、句会で採られた句だけを清書しなさい」と指導しているんです。私自身もそうやってきました。初心者には「採られなかった理由をくよくよ考える暇があったら、どんどん新しい句を作った方がいい。清書用ノートを読んでいる方が、自分の目指す方向がおのずから分かってくる」と伝えています。

p.243

日本文学研究家のロバート キャンベルさんと

西村 忙しい現役の頃からセンスを磨こうと心がけていた人のほうが俳句を作り始めるとウワーッと出てくるんです。富安風生の〈街の雨鶯餅がもう出たか〉は、店のガラス戸の貼り紙に気が付いただけのことでしょう。何かに目を留め、足を止め、心に留める。ちょっといいからスマホに撮っておこうというような興味の持ち方が、俳句を作るセンスと非常に近く、響き合うと思いますね。

p.263

作家の川上 弘美さんと

西村 いちばん離れたところに行くには、コツコツ作っていくしかないんです。自己演出の上手な人は「これは天啓のように授かった句です」とか言うんですけど、あれは疑わしい(笑)。私は月並み句からシコシコ作っていくんです。大体最初のほうは捨てることが多くて、よくここまで到達したな、というところを大事にしたいと思っています。
川上 それは本当。散文も一緒ですよ。

p.280

川上 西村さんの句、〈虫籠に虫ゐる軽さゐぬ軽さ〉これも描写なんですけれど、描写だけじゃないですね。
西村 そうですね。
川上 世界の深部に踏み込んだ句だと思います。描写の末にこういうところまで行きたい、と俳句を作る人たちはみな思っていると思います。
 今SF小説を連載しているんですけれど、具体的な描写を重ねて「世界の不思議」を表現できたらなと。「不思議な世界」と「世界の不思議」は違うような気がするんです。「不思議な世界」は書けても「世界の不思議」はなかなか。
西村 「世界の不思議」は世界の真理に到達するものですね。
川上 そうです。世界の真理なので、いつかそこまで行けたらなと。

p.283-284

川上 見たこともないような新しいことを詠んでいるけれど表現的には無理があるという句と、表現としては完成されているけれどちょっと見たことがあるという句、どちらを採りますか?
西村 ちょっと見たことがあるという句は採らないです。
川上 やはり新しい視点がすごく大事なんですね。
西村 ええ。こんなことも言えるんだ、と言う新鮮な視点がある句はね。ただ新しがっているだけの句はその場限りだと思うんですが。

p.293

川上 俳句をお作りになる場合、読者に分かりやすくとか、そういうことは意識されますか。
西村 全然考えないですね。分かりやすくすると説明的になる。俳句は小説と違って、作品が売れないんです。だから、読者を意識することはない。句会でも、ほかの人は採らなかったけれど、先生だけが採ってくれた句や、信頼する仲間が採ってくれた句を大事にしたいです。
川上 それは、表現を自己の最高到達点まで切磋琢磨するということですね。
西村 ええ、そう志してます。

p.294

CMディレクターの中島 信也さんと

西村 「こんな新しいものができました」では情報の提供だけで、食いつきはいいかもしれないけれど、すぐ飽きが来ると思う。俳句作品も同じことが言えて、目新しさで人を驚かせても心までは届かなかったり、感心はするけど感動はしない句が結構あるんです。
中島 なるほど、近いですねえ。
西村 俳句とコマーシャル、意外なところに共通点があるものですね。 

p.307

中島 俳句の場合はカメラが自由に行き来できる点で、普段の仕事から解放される自由さを持っているわけです。
西村 それは耳が痛いですね。それだけ自由なカメラを持っているのに、私はなんと平凡な、ありきたりな視点からしか現実を見ていないんだろう。虚子は客観写生が大事だとあれだけ言ってますが、宇宙的な空想力を持っている人です。〈爛々と昼の星見え菌生え〉〈地球一万余回転冬日にこにこ〉とか、虚子の自由なカメラで見た句がいっぱいあるんです。「自由なカメラ」、それは一つのテーマですね。

p.316

落語家の古今亭 志ん輔さんと

西村 もっとたくさん作ってください。多作多捨ですよ。
志ん輔 よし、では今日から一日一句。
西村 あ、それはダメ。たとえば一ヶ月で三十句作る場合、一日一句で三十句作るのはあまりよくないんです。作り出したら、同じ題材でも、同じ季語でもいいから、五句、十句、まとめて作る。一日一句だと、車のエンジンをかけて吹かしただけで終わってしまう。
志ん輔 そうですね。理に詰んでいるものよりはバーっとパッションしたものがいい。
西村 それです。あの手この手でやってみると、志ん輔さんの中に潜んでいる部分がまだまだ出てくるんです。

p.342

詩人の高橋 睦郎さんと

高橋 表現には大事なことが二つあると思う。一つは「新しさ」もう一つは「懐かしさ」です。その「懐かしさ」は言い換えれば「自然」だということ。どんなに新しく前衛的なことを言っても、どこかで自然さがないとダメだと思う。
 僕が私淑して、よく遊びに行った小説家の稲垣足穂さん、彼が誰かのことをけなすときに、「懐かしいとこが全然あれへんやないか」と、よく言っていました。

p.350

高橋 僕は、表現は自己主張ではダメだと思う。自己主張は地獄です。みんながそれぞれに主張するから地獄が生まれるし、自己主張することによって自分自身に対しても地獄を作っているわけですよ。
 それより、表現を通して、自分の思いもよらない遠くまで連れて行かれること。これがいちばん、幸せなことだと思う。そうじゃないと、表現から自分自身が選ばれません。
 表現することによって、楽になるように、自分というガリガリしたものを超えて本当に自由になるために、表現しているんじゃないかと思うのです。自己を解放するために、表現と出会ったんだよ、ということです。
西村 自分が一所懸命つかみとった境地というより、俳句を作ることを通して、俳句の神様に導かれているのではないか、ということは感じますね。

p.356, 366

高橋 僕はね、いい作品は必ず人を鼓舞すると思うんです。どんなに明るくたって人を鼓舞しないものはダメですよ。どんなに暗くたって、いい作品には人を鼓舞する力があります。『カラマーゾフの兄弟』なんて暗い暗い暗い小説だけど、読み手を鼓舞しますよ。「よし、生きるぞ」と言う気持ちになります。あるいは俳句で、本当にいいものは、読んでいて「自分も作ってみよう」と言う気になります。それがないものはダメじゃないかな、上手くても。
 鼓舞するとは、作品の上だけではなくて、生き方でも何でもいい。あなたの作るものにそういう力がありますが、ということです。我々は少なくともそういうものを目指すべきだと思う。だからといって人に迎合するのではなく。
西村 そうすると、全人格、生きる姿勢、自分の全人生が作品にかかわってくるということですね。
高橋 そうなんです。

p.364

感想

西村先生は、「俳句をつくる」というよりも、「俳句でつくる」スタンスを一貫して大事にしているのだと思う。

何をつくるのかは多様だ。自分自身かもしれないし、感動した対象かもしれない。目の前の人への挨拶かもしれないし、俗世間からの浮き方かもしれない。はたまた「世界の不思議」かもしれない。

俳句を大切なツールとして磨きこむと、たくさんの事象と、思いがけなく深く繋がることができる。それを対談という形式で示したのが本書だと思う。

差し当たっては、
・たくさん句作することで、思ってもみなかったところに行きつける
・句作の方向性は、先生に採って頂いたものから見えてくる
を実践してみたくなりました。

道後で、西村先生に句を見て頂く日が楽しみです。ありがとうございました!

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