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一緒に俳句を苦しみたくなる『俳句脳』

あさって長野の諏訪に行く。
そのためのガイドブックを地元の図書室に借りに行った。

うちの市は人口8万で、図書室が6つある。
その中で一番小さい図書室に初めて行った。
目的のガイドブックを見つけて、
全く期待せずに俳句関連のコーナーも見てみた。

古い歳時記と、芭蕉関連のエッセイと、夏井先生の入門本があり、
「まあ、こんなもんかな」と思っていたら、一緒にこの本があったのだ。

黛さんと茂木さんで対談本を出していたとは…!
あと黛さんの句集『B面の夏』もあって、近隣住民にファンがいるのではないかと僕は睨んでいる。

それはさておき。

読んでみたところ、とても良かった。
茂木さんが脳科学観点から「人間にとって俳句とは?」の話をガンガン進めるので、俳句の本質について密度の高い話が繰り広げられていた。

新書だからあっという間に読めるけど、芸術活動としての俳句の特徴や意義がよく論じられていると思う(余談だが、角川『俳句』のような総合俳句誌は、こういう対談を増やした方が、俳句の未来のためになるだろう)。

ではいつも通り、印象的だったポイントをまとめていきます!

鑑賞は自分の全体性を引き出す

俳句の鑑賞は、脳科学の見地からも理に適っている。説明されていないものを「掴もう」「感じよう」とする意思は、内なる感覚を総動員して臨む行為となる。それは、自分の全体性を引き出しやすい。

過去の記憶や、現在の志向、思いがけない願望までが協力しあって、ある実感を生む。十七音との対峙が、内なる深いところから「自分なりの感覚」を引き出すのである。

俳句は通り過ぎてしまう感覚を言語化する

俳句は「何もないからこそ、すべてがある」という反作用を目指す。その技術を磨くために心をくだくのは、感性を磨くことに等しい。一瞬のうちに通り過ぎてしまう感覚を言葉によって表すのが、俳句という文学である。

夏目漱石も『草枕』で言っている。「どうすれば詩的な立脚地に帰れるかと云えば、おのれの感じ、そのものを、おのが前に据えつけて、その感じから一歩退いて有体に落ちついて、他人らしくこれを検査する余地を作ればいいのである」

俳句は世界に誇るべきソフトパワーを持つ

いま世界が求めているソフトパワーの1つに「説明しない」ことがある。禅然り、寿司屋のお任せスタイル然り。

俳句が俳句として議論されているうちは、まだまだ足りない。俳句から繋がるさまざまな日本文化を一つの大きな山脈として引き受けてこそ、俳句は新たな創造の泉になる。そうして、私たち一人ひとりの頭の中が泉の源になれるのだ。

俳句は大いなる自己を発見する

天気予報の雨は、「どしゃぶりかどうか」など降り方の強弱くらいしかない。でも「木の芽雨」と言った途端、雨の向こうに芽吹の山がイメージできる。実際、目の前に野山がなくとも。

そう思った瞬間、自分は世界につながって大きくなる。対象物を詠むことで、大いなる自己、宇宙とつながる自分を発見することができる。

俳句を生きる

黛「最近の話をします。上野辺りをタクシーで移動していたら、不忍池の上に佳い月があがっていました。そのとき俳句仲間から電話が来たのです。『佳い月が出ているよ』って。それだけの電話です。『私もちょうど今見ていたのよ』と答えました。日常に俳句があるとは、これだけでいいのです」

茂木「逆にいうと、現代生活をそのまま生きても俳句にならないというわけですね。この話は重要かもしれない。うまい俳句を詠むよりも、俳句を生きることの方が大きな課題かもしれない」

黛「俳句を生きていなければ、良い俳句などできるはずがありません」

余白を紡ぐ

黛「俳人が十七音を紡ぐとは、同時に余白を紡ぐことなのです。言葉にどれだけの余白が紡げるか、その余白にどれだけのものを漂わせることができるかを常に考えます」

茂木「突き詰めていったら、どんなに言葉を尽くしても宇宙をそのまま描けることはありません。限られた言葉でどれくらい描けるかで勝負した方が成熟した発想かもしれません」

黛「芭蕉の言う『言いおほせて何かある』ということですね」

切れでダブルイメージをつくる

黛「一行詩と俳句の明確な違いは、切れているかどうかです。切れはダブルイメージをつくります」

茂木「古池や、と言ったその途端に、もうひとつのイメージが生まれるということですね」

黛「そうです。目の前に本物の古池があってもいいと思うんです。しかしもう一つの普遍的な古池が、『や』で一句を切ることで提示されるんです。まず古色蒼然とした古池をイメージし、次に実際の古池に飛び込む」

茂木「古池に、だと俳句的な宇宙の響きがなくなるのですね。たった一字が宇宙をえいやと広げるアルキメデスのてこの支点になるのですね」

日常と詩歌の世界の関係

寺田寅彦が大正九年に『渋柿』という俳句雑誌に発表した随筆が上手いことを言っている。

日常生活の世界と詩歌の世界の境界は、ただ一枚のガラス板で仕切られている。
このガラスは初めから曇っていることもある。
生活の世界のちりに汚れて曇っていることもある。
二つの世界の間の通路としては、通例、ただ小さな狭い穴が一つ明いているだけである。
しかし、始終ふたつの世界に出入していると、この穴はだんだん大きくなる。
しかしまた、この穴は、しばらく出入しないでいると、自然にだんだん狭くなって来る。
あるひとは、初めからこの穴の存在を知らないか、また知っていても別にそれを捜そうともしない。
それは、ガラスが曇っていて、反対の側が見えないためか、あるいは……あまりにも忙しいために。
穴を見つけても通れない人もいる。
それは、あまりからだが肥り過ぎているために……。
しかし、そんな人でも、病気をしたり、貧乏をしたりしてやせたために、通り抜けられるようになることはある。
まれに、きわめてまれに、天の焔を取って来てこの境界のガラス板をすっかり溶かしてしまう人がある。

岩波文庫『柿の種』所収

俳句は生命への挨拶

黛「私自身は『俳句とは何か』という問いに対して、既成の定義とルールは踏まえた上で、『生命(自然)への挨拶』であると思っています」

俳句はストイックな文学

黛「俳句とは、つねに自分を律する文学だと思っています。俳句は、いっさいの説明を拒みます。言いたいことはすべて "物" に仮託して表します。いかに黙るか……それが俳句を詠むと言うことです。このような非常にストイックな手段を表現者に課すのです。自分につねにブレーキをかけていなければならないのです。

このようなことは、説明されて理解することではなく、体得していくものだと思うのです。つねに自己との闘い、おのれを律しつつの格闘が必要なのです。それを乗り越えてこそ、俳句の楽しさもまた体得してゆくことができます」

一緒に俳句を苦しみましょう

黛「私はこの頃、俳句を楽しみましょう、と同時に、一緒に俳句を苦しみましょう、と言うことにしました。さらに言いたいのは、苦しむとすごく面白いよ、なのです。世の中全体が、楽しもうよ、になっていますから、なおさら」

茂木「それがいい。脳の働きから言うと、苦しいのが楽しいはずなんですよ。塩をかけると西瓜が甘くなるのと同じで、苦しみがちょっと入っていることが、人間にとって喜びなのです。いまの暮らしは生命リズムが単調になっている。生命の陰影を戻すのが大事なようですね」

黛「陰影がないと楽しくないでしょう。陽のあたる楽しい場所ばかりでは、生きている実感もないはずです。だから私は、一緒に俳句を苦しみましょう、と言おうと思っているのです」

俳句は再発見

黛「俳句で大発見、大発明をする必要はありません。むしろ再発見です。誰しもの日常に存在するのに、気づかずに通り過ぎていたもの。見ていたはずなのに、見逃してしまっていたもの。そんな小さな『あっ』という再発見を言葉に結実させるのです。そのような句が、共感させ、感動させるのです。『そうそう!これだよ!やられたなー……』と膝を打たせるのです」

俳句は身体で覚える

黛「俳句は頭で理解するものではありません。理屈で組み立てるものでもありません。たくさん作って、たくさん読んで身体が覚えていくものです。やがて『あ、これか』と言う感覚に、自分の身体を導いていくしかない。自転車乗りと同じです」

我物一如

黛「俳句をやっていれば、菫があれば屈みます。俳句を詠む人はきっと皆そうであるはずです。同じ目の高さでほかの生命を見るということが、これほどまでに大事であるということに、俳句を始めてから気づきました。対象に入って、一つになっていくような感覚を得たのは、俳句を通してです」

俳句は祈り

黛「秋元不二男はこう言いました。

短歌は情熱の詩であり、俳句は諦めの詩である。
短歌は悩みの詩であり、俳句は悟りの詩である。

私なりにこれになぞらえば、

短歌は懺悔の詩であり、俳句は祈りの詩である。

と思っています。思いを述べないで祈るのです。余白に祈りが込められているのです。

冬菊のまとふはおのがひかりのみ  水原秋櫻子

この句も、どこか祈りに通じていると思いませんか」


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