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本を読むということ、映画を観るということ

突然の雪には驚いた。 
我が家の梅が咲く頃はなぜか毎年のように雪の日がある。
それも当たり前か。関東では梅の咲く2月が一番雪が多いのだから。
梅といえば先週末に小田原の梅林に行った。
 
この先も、あっちでこの花が見頃だと聞けば出かけ、 こっちで地元民おすすめのグルメがあると聞けば出かけていく。
それは一種のカミさん孝行のようなものだと思っている。 
 
車を運転すること自体はあまり苦にならない。 
むしろ最近になって以前より運転を楽しんでいる。 
走り屋のようにドライブそのものが楽しい、というような意味ではない。 
そもそもマイカーは商業車ベースのバンだから、走りそのものを楽しむような車でもない。 
「歩くように運転している」ような感覚が生まれつつあるのだ。


僕は映画を観るのも好きだ。
本が好きな人には怒れられちゃうかも知れないけど、手っ取り早くスリルや感動を味わいたかったら映画の方がお手頃だ、とも思う。

映画館の暗い中で大きなスクリーンとサラウンドの音響に包まれて、手に汗握るアクションや感涙のストーリーに浸る。
2,000円弱の料金と2時間程度の時間で、束の間の非日常を味わう。
あるいは、自宅のリビングでソファに座ってお茶を飲みながらの鑑賞でもいい。

なぜか映画は人が作ったものを見せてもらっている、 見せられているという感覚がする。

もちろん本だって人が作ったものには違いないけれど、本はこちらが働きかけて作者と登場人物と一緒に物語を進めていく感じがする。

ページの途中で手を止め物語の進行をしばし中断して、言葉の意味合いに思いを巡らせたり、ストーリーとは直接関係のない言葉の重さを量ってみたり。

そんな読書スタイルだから、ストーリーや結末がどうなったかと関係なしに楽しめたり、結末まで読み終えてからも、そういうエンディングは要らないからもっと話を続けてよ、と思ったり、なんなら最後まで読み終わってなくても、ああ、良かったなぁ、と思ったりもする。

以前、本を読むことは旅をすることに似ている、と書いたことがあった。

僕にとって映画は目的地がある旅行だ。
見たいもの、行きたい場所があって、車や電車で行って帰ってくる。
カエサルの「我来たり、我見たり、我征服せり」の心境だ。
その点で花見ドライブは僕の頭の中では、映画を観るのと同じ集合に属している。

本は目的地のない散歩のようだ。

歩いている途中で、手間暇をかけて手入れされたに違いないプランターの草花に惚れ惚れしたり、 川の中に魚が泳いでいるのを見つけて立ち止まって眺めていたり、 ご近所の犬に吠えられてびっくりしたり。

どこに行くか、そこで何をするかはこの際関係なくて、 歩いていることそのものが目的だ。

いや、もしかしたら歩いていることも目的ではないのかも知れない。

歩きながらの僕は、空と雲を眺めて天気の行方を予想したり、この辻を右に行こうか左に行こうか迷ったり、 昼ごはんに何を食べようか考えたりして、とても忙しい。
歩いていることを忘れてしまうくらいだ。

だから、歩いていることも単なる手段であって目的ではないのかも知れない。
本を読むということで、僕は頭の中で散歩をしているだけなのだ。

そう思うと、散歩の途中で見かけた面白い出来事を、帰ってからカミさんにうまく伝えられないのも、 本を読んだ感想が人にうまく伝えられないのによく似ている。

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