仏教余話

その146
最後に、『豊穣の海』の唯識説にまつわる後日談ともいうべきものを紹介しておきたい。梅原猛という名を聞いたことがあるだろうか?日本文化の研究者で、聖徳太子や法隆寺の研究で知られる、元京大教授である。仏教にも造詣が深く、関連著作も多い。その梅原氏は、実は、三島と同年齢である。月刊雑誌「文芸春秋」2012年2月号に「嗚呼「同級生」たかが同い年されど同い年」という企画があり、そこで「わが戦友三島由紀夫」と銘打ち、こう語っている。
 三島は死の少し前に、私と共通の友人であった作曲家黛敏郎氏を通じて、「自分はこの小説を唯識仏教の思想にもとづいて書いたと考えているが、その思想が果たして唯識仏教思想なのかを梅原に尋ねてほしい」といって、当時刊行されていた『豊饒の海』の第一~第三巻を送ってきた。その小説は人間の生まれ変わりの物語であるが、生まれ変わりの思想は唯識思想とはいえないので、この小説は唯識思想とは関係なく、三島の小説としても失敗作ではないかと私は黛氏を通じて三島に伝えた。生まれ変わりの思想は唯識思想と関係がないとしても、それは浄土教にも存在し、日本思想を考える上で甚だ重要な思想である。当時、私はそのような考えにいたらず、三島につれない返事をしたことを今でも多少後悔している。(p.311)
唖然とするような梅原氏の発言である。生まれ変わりとは、輪廻のことである。そして、無我と輪廻の相克こそ、全仏教最大の課題であり、従来の評価では、唯識がその解決をもたらしたとされているのである。卑しくも、仏教を齧ったことのある研究者であるのなら、梅原氏のような受け答えは、絶対にしない。三島も、おかしな相手を選んだものだ。梅原氏には、「多少の後悔」ではなく、大反省を促したい。例えば、往年の大学者、宇井伯寿博
士の言葉を聞けば、梅原氏の無能振りは、明白なのである。宇井博士は、はっきり、こう述べている。
 佛敎は無我である爲に輪迴解脱を解釋するに困難を感じ遂に種々なるものを考出したのが、阿頼耶識と稱せらるゝものになったのであるから…(宇井伯壽「成唯識論の性質及び立場と第七識存在の論證」『印度哲學研究』(第五)昭和4年、p.74)


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