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『落下の解剖学』/不快な男を嘲笑する不快な夫婦の脚本(映画感想文)

フランスの雪深い山稜地の別荘で暮らす妻と夫、息子。
妻はドイツ人で売れっ子作家、夫は民泊経営を(いまは)計画している専業主夫のフランス人、息子には視覚障害がある。ある日、夫がその別荘の三階から転落して死亡。自殺かと思われるも夫殺しの容疑が妻にかかる。自殺にしては不自然な要素があり、調査が進む過程で夫婦の不仲が発覚していく。

少し前から「脚本がスゲえ」と話題になっていた『落下の解剖学』(24)は23年にカンヌ国際映画祭でパルム・ドール。アカデミーで脚本賞。
謎が謎を呼ぶミステリーなのか、あるいは手に汗握る法廷劇なのか、と期待しながら観に行くと実態は人間の内面を容赦なく描いた重厚なドラマである。ただし爽快感はない。描かれる人間は「夫婦」という名の関係性で結ばれた二人であるが、よくよく考えて見るとこの映画もまた扱っているのはここ数年流行りのトキシック・マスキュリニティ(有害な男性性)への痛烈な無効宣言である。

夫殺しの嫌疑をかけられた妻サンドラはドイツ人だが、フランスに越してきたのは夫に乞われたからだ。彼女はそれほどフランス語が堪能ではない。いまの環境に馴染んでいるとはけっしていえないが世間では作家として成功している。
外国人の夫と結婚しその故郷である異国へ越してくる妻といえば、パク・チャヌク監督の『別れる決心』(22)を思い出す。殺人の容疑をかけられた妻と、刑事。刑事は彼女に惹かれながらもその罪を暴く。『別れる決心』において妻が外国人であることはエキセントリックな妻の謎めいた魅力を醸成することに一役買っていた。
『落下の解剖学』ではどうか。残念だがあまり効果的に思えないのは、僕が日本人でこういった越境の苦悩や複数言語が錯綜する世界の見方に慣れていないからか。それにしても、たとえばサンドラが不慣れな言語のせいで窮地に陥るとか、意思疎通に不便を感じ誤解を受けるといった場面でもあれば、なるほど、設定の意図も理解できる。だがそうはならない。夫殺しの疑いがかけられはするものの、彼女は弱くもなくまた困った立場に追い込まれることもない。彼女には『別れる決心』の謎めいた妻・ソレに刑事ヘジュンがいたように、旧知の弁護士レンツがいる。レンツがかつて自分に恋していたことをサンドラは知っている。

この映画、めちゃくちゃ後味が悪いのだ。
それはすっきりと謎が解き明かされないから、…といった単純な理由ではない。鑑賞後に残る不快感は『ゴーン・ガール』(14)に似ている

裁判の過程で夫の不甲斐なさや憐憫を誘う態度が明らかになる
サンドラは作家として成功しているが、実は夫も作家志望であった。だが作品をまともに完成させたことはない。常に「生活に追われ書く時間がない」「集中できない」と愚痴をこぼしている。サンドラが作家としてデビューするに至った作品のアイディアは実は夫のそれで、しかし彼はそれも書き上げられなかった。そのアイディアを拾い上げ作品に仕上げたのは妻なのだが、彼はその成功を妬み「盗まれた」とまでいいきっている。
先に、映画が扱っているのはトキシック・マスキュリニティだと書いたが、これは巧妙に形を変えたそのヴァリェーションだ。
パートナーである妻が自分よりも「上手くやっている」ことを意識的にか無意識的にか妬み、おもしろく思わない。その足を引っ張り、自分より劣った立場へ再配置しようとするのは歪に曲がった男性性の発露に違いない
その夫の歪んだ思考のせいでサンドラは困難で奇妙な立場に置かれてしまう。脚本が優れているとすればこの点だろう。
夫が死に至った可能性は3つ。ひとつは妻が夫を殺した殺人、もうひとつは自殺、そして事故。サンドラとしては、殺人で有罪判決を下されることがいちばん避けたいと思いきや、彼女は当初から「夫は自殺ではない。自殺するような人ではない」といい続け自殺説を強固に否定する。彼女としては、自分が有罪と看做されるのと同程度に、夫が自殺したと決められては困るのだ。なぜなら、作家として成功し社会的地位を収めている彼女にとって「(か弱い)夫を自殺させた妻」というレッテルは絶対に貼られたくない汚名なのだから。しかし当然殺人犯として収監されるのも不味い。事故の判断が下されるのがいちばんいいが、現場の状況と残された手掛かりからは事故は考えにくい。
この残された手掛かりのなかには夫婦の不仲を示す音声データも含まれる。そしてそれは夫が二人の会話を盗み録りしたものである、…。

劇中でサンドラを不利に追い込む証拠は、そのほとんどが夫の手に因るものなのだ。メタレベルの観客にしてみれば、これだけ妻に不利な証拠が次々出てくるということは、きっとなにものか(夫だ)が意図して彼女を陥れようとしているにちがいない、と考えるのだが劇中の法廷においてそう考えるものはいない。
「自殺」という方法でしか妻にカウンターを食わせられないほど、みじめな夫、…。
この映画が不快なのは、こういった徹底した男性性への批判と夫の子どもじみた行動に対する愚弄(と思うのはスクリーンの外側にいるからなのだが)が鼻につくからだ。

恐ろしいことに、この脚本は監督でもあるジュスティーヌ・トリエ(フランス人)と、実生活でもパートナーであるアルチュール・アラリの二人の手に因るもの。トリエはインタビューで「自分たちは違いますよ」といっているが、世間にいる可能性のあるダメ夫をこうも酷く描く夫婦の精神というのはどうなのか。「いるいる!こういうくだらない男」と嬉々としながら夫婦が共同で脚本を書いている姿というのは想像するのも恐ろしい。

いつから映画は、異議申し立ての道具になったのだろう。そう考えること自体がもうすでに僕がポリコレに反する主義の持ち主だからなのだろうか?
アレックス・ガーランド監督の『MEN 同じ顔の男たち』(22)を観たときも思ったことだが、もう少し「映画」としておもしろくできないものなのか。個々の主張に反対する気はさらさらないが、エンタメとしてもう少し昇華できないものなのだろうか。

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