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『首』/振り子が壊れた結果(映画感想文)

北野武という人は本当に生真面目な人だ。ただその対象は限られ、選ばれたものには敬意といってもいいほどの生真面目さが発揮される。単に昭和の人間だから、というだけでなく芸事、あるいは不要の最たるものである「文化」に対して北野武が払うそれには並々ならぬものを感じるのだ。人間とは無駄を好む滑稽なものだ、といった真理なのか諦観なのか

『首』(23)は北野武としては18作目の監督作品(ビートたけし作品が一作ほかにある)。
扱われるのは本能寺の変。狂気の暴君織田信長を中心に、彼を取り巻くものの思惑や策謀の入り乱れる様が描かれる。

武は03年に『座頭市』で一度時代劇を撮っているが、あれは勝新太郎の代表作をリブートすると作品だった。今回はそれとはずいぶん意味合いが違う。何が、といわれれば北野武監督は相当に黒澤を意識してメガフォンをとった筈なのだ(と僕の勝手な思い込みかもしれないが、…)。
93年に武は黒澤監督と対談する機会を得ている。
「最初、1つのカメラで五カ所から撮ってつなげば映画になると単純に考えていた。しかし全然違う。結局『その男狂暴につき』なんかはほとんど正面で撮ってパンとかしなかった。そしたらスタッフから『こいつ監督が初めてでカメラ動かせないんじゃないか』って言われて。それでクレーンとか使ってみるかってやったんだけど、ラッシュ見たら動かしている絵は全然気に入らなくて。やっぱり自分で判っていない絵を撮るとにっちもさっちもいかないですね」
という武は、黒澤に「時間経過をどう表すか」「終戦直後の設定で(黒澤の撮った『まあだだよ』には)MPが出てくるけど、あのリアル感は色で出るのか、絵のサイズで出るのか」「隊列のような大勢の人が集団で動くシーンがわざとらしくならないようにするにはどうすればいいのか」と次々質問している。
臆することもなく、だからといって敬意が欠けているとも思えない。映画に関わった人間として自分が最低限やらなければならないことがあるとして、そのためにどうすればいいのかを確かめているという印象なのだ。
武は映画をバカにしていない。

『首』の構想は30年も前からあったという。
黒澤監督は「それはきみがやればおもしろいものになるよ」といったというのだが、なぜそう思ったのだろう。
先の対談で黒澤は武の映画を「ズカズカ踏み込んでいくからいい」といっている。人の内面に踏み込んでいく武だからこそ、現代のわれわれから見れば徹底した様式の世界を描けばおもしろいと思ったのか。表と裏(本音と建前)がこれほど乖離して、且つ生き死にや有り様を左右した時代もそうそうないからだろう。その表面を剥ぎ取り、描ききることができると看破していたのではないか。

建前だけで生きていけない、というのは多分誰しもが思うことであり、特に若い時期には「本当のことだけをいって生きていければ」と考えるものだが(いまの若い人は違うのかな? ときどきいまの彼らにその区別があるのかどうかも疑わしく思えることがあるのだが、…。)しかし反面、本音だけでも人は善く生きていくことはできない。
社会的な対他者の建前と、内面にむかう自身の本音とのはざまで揺れて考えるからこそ、人はより善く生きることができるのだと思う。
しかし過剰な権力が横行する場においては、その度合いに不均衡が生じる。そしてその不均衡が常にそのまま表出することがないという保証もない。抑え込んだ感情や情熱はどこかで爆発し、その爆発の仕方を人はコントロールできない。

よく知られたことだが芸人・北野武は振り子理論を信奉し、実践している
映画で栄誉を受け賞賛されながらも、凱旋帰国すれば被り物であえてくだらない(わざとスベりにいっているとしか思えない)ことをやる。
映画に対しては真摯に取り組むことしかできず、映画の周りにおいては自分ではどうにもならない呪縛で見せてしまった真剣さに対して、極度に照れる。真面目な自分に真面目にツッコむ。ただ、そうすることで映画のなかだけはちゃんとリアルに「死」も「愛」も成立する。

作品の方向性を決めているのはほぼ無意識だろう。だが、単純に映画監督としての北野武を天才だなどと僕は思わない。先の黒澤との対談を読んでも判るように、その無意識に決められた作品の完成像へむかう過程の技術、描き方には、ちゃんと努力や工夫や研究が行われている。こうまで「自分の思う作品」をしっかりと成立させようとするモチベーションが、ひとつは映画という文化に対する敬意であり、芸人としての北野武の矜持でもあろう。
だからこそ、テレビで窺える異能の片鱗の本質を見たいと思わせることができる。「この人が本質を見せるのなら金は払える」という理屈だ。だがそう考える人はあまり多くはないようで、興行成績はこれまでどの作品もさほどよくない。
僕自身も、こう書きながらさほど熱烈な武映画のフォロワーではない。
だが『首』については違った。先に書いたように、武が黒澤にどう挑む、…というと大袈裟過ぎて鼻で嗤われそうだが、黒澤が撮っていた領域にどう踏み込むか興味があった。
きっと、何かしらの勝算があっての満を持しての製作だろうと。

乱暴に一括りにすれば時代劇は判り易い見た目のパターンでできている。
本当は斬れば血が出るのに、下手くそなら無様に悶え苦しむだろうに、ただの上下関係だけで自分の生命を投げ出す筈はないだろう、…など。しかし本来生じている筈の市井の、あるいは下っ端の声がドラマの大きな流れに反映されることはあまりない。展開の都合でときには上下関係が省略されて鼻白むこともある。
もっと泥臭い筈なのだ。
北野武は不測の事態で急遽監督をするはめになった『その男狂暴につき』(89)でも、犯人を追跡する刑事が途中でくたびれあきらめて、みすみす犯人を逃す場面を作っていた。また別の作品では、乱暴目的でアニキに女性を差し出そうとした下っ端が、実は男色のアニキにやられる場面を挿入している。構造が瞬時に逆転してその瞬間にリアリティや笑いや怖さが生まれるのは監督お得意の手管だが、普通の感覚でそれはやらない。既存のフィクションの文法からはみ出すことが怖い。そうすることで壊れてしまう「らしさ」があるから。
北野監督はしかし、その作り物のウソくささを嫌い「らしさ」が壊れるところを描いてきた。

戦国時代を舞台とした時代劇は「らしさ」が横溢している。フォーマットを壊しつつ、どう物語をドラマティックに成立させるか。その点だけでも観る価値がある。
実際に『首』では、監督らしい裏切りやハズしが多くある。
戦場に倒れている死体は誰がどう片付けているのだろう、という時代劇というお約束を知らない子どもなら思いつきそうな(『大怪獣のあとしまつ』ではないが)疑問に対し、冒頭からその無残さをちゃんと映す。颯爽と馬に乗って駆けるばかりではなく、馬にも乗れない下級武士たちはひた走る。街道沿いでそれを応援する農民がいる、…。
そしてその徹底した泥臭いリアルを恥ずかしがるように、突然コントのような場面が度々挿入される。莫迦莫迦しいといえばそれまでだが、この挿入こそが黒澤作品との北野監督なりの差異化であり、承認の請求だ。

これまでは〈映画⇔コント〉の振り子だったものが、『首』においては、作中でその振り子を揺らしている。それを失敗とみるか、今回はすべてぶち込んだのだな、と受け取るかで作品の評価も大きく変わる。
「役者たちにこんなことをさせたらおもしろい」、「こうなるところで、違ったらずっこける」が次々と展開される『首』は、僕は大変おもしろかった。

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