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『L.A コールドケース』/差別意識がはびこる街の刑事(映画感想文)

22年の夏に公開された『L.A.コールドケース』の製作は18年。公開まで4年もかかったのにはわけがある(コロナではないらしい)。
主演はひさびさにちゃんとした人の(変人でも海賊でも殺人犯でもなく)役を演じるジョニー・デップ。共演に、こちらもひさびさにスクリーンで観る(気がする)フォレスト・ウィテカー。魅力的な共演。

物語は現実の事件を題材にしている。
90年代後半にロサンジェルスで起きた二つの殺人、殺されたのはどちらもラップ界の大スター、ノトーリアスB.I.Gと2パック。東西海岸で人気を二分したスターの相次ぐ死は、抗争だとも謎の暗殺だともいわれているがいまだに犯人逮にいたっていない。
その二大カリスマラッパーの死の謎に迫る、…といった打ち出し方を宣伝でもしているし邦題も未解決事件の真相に迫る! っぽい付けられ方をしているのだが、観ている間にどうやらちょっと違うな、と判ってくる。
この映画、ミステリアスな殺人事件を追う映画ではなく、実は警察の腐敗と黒人が被害者となった殺人の捜査にいかに偏見が持ち込まれているかを暴き告発する社会派映画だった。
あまりネタばれすると興ざめだが、当時彼らが所属していたそれぞれのレコード会社は半グレのごとき巨大な組織で、スターのラッパーたちが稼ぎ出すお金も巨額。潤沢な資金で警察官の買収も行っていた。また警官たちも、黒人差別が当たり前のようにまかりとおる街でまともな正義を行使する意識が薄く、事件捜査の力の入れ具合も出世するための力学に基づき変わる。黒でも白になるのだ。
デップ演じるラッセル・プール刑事は実在の人物。原作はノンフィクションでピューリッツァー賞にノミネートもされている。刊行は02年だが映画化までにずいぶん時間がかかったのは、途中でさまざまな裁判沙汰になる出来事が起こったから。さらに公開が伸びたのも抑圧や抵抗があったから、だという。実際に警察組織からの圧力があったようなことは出演者たちも遠回しに示唆している
なかなか骨太な映画なのだ。
ただ鑑賞前はラッパーたちの殺人を扱ったサスペンスと思っていたので、その構造というか裏テーマ的なものが見えてくるまではやや退屈(というか、ラップはまったくの門外漢で疎いのだが、ラップ界の情報を大量に多角的に詰め込まれ見せられるので、やや眠気が、…)なのだが、物語の中心に据えられたものがそうではない、と判ってくると俄然おもしろくなる。もう一度最初から観れば、かなりスリリングな作品に感じられるかもしれない。

デップの、不器用だが実は正義漢の毅然としたふるまい、ウィテカーの枯れた孤独な感じなど、人間のディティールも映画らしい魅力に溢れている。誰が悪いやつなのか判らない周囲の人間たちもよかった。
デップ、はやくティム・バートンの呪縛(とディズニー)から逃れて、こうした性格俳優的な演技ばかりやってほしいよ。まあ、その席にはすでにケビン・ベーコンと最近はゲイリー・オールドマンが座ってほしいままにしているが。

なにより「アフリカ系アメリカ人に関する殺人事件は50%以上が未解決」というテロップが出たときにはやはり息を飲んだ。
現在進行形で人が死ぬほどの差別が日常的に行われ、人種の違いにより朝笑顔で出かけた家族が通勤や買い物から帰宅しないということの起こる国。
前後するが、先日ドゥニ・ヴィルヌーヴの『灼熱の魂』も観たが、テヘランを舞台にキリスト教とイスラム教の間でつい20年ほど前まで虐殺や殺戮が個人としての理由ではなく、その主義や出生地に基づき行われ、その余波がいまだに人々の生活に影を落としていることも映画で知った。
日本は平和ボケだ、歴史の上で侵略されたことがないから価値観が日和見なのだといわれるが、平和ボケ上等じゃないか。視野が狭窄的になるのはよろしくないが、人間を性善説で語れるのは、われわれが日常的にそういった偏見や差別に晒されていないからに違いない。それゆえ、こうした社会的問題を弱者の立場で映画という表現を用いて告発し、切り開いていこうという気概に欠けるのは確かだが。
あ、そうそうひとつ書き忘れたけどこの映画、現代は「CITY OF LIES」なのだ。

追記:という記事を書いたのが22年の夏。なんかこの一年とちょっとで人間の社会もいよいよ本当にヤバいのではないか、という気が、…。情報が多くなって何かと早急に是非をつけることを迫られて、みんな、寛容さを失っているよ!

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