見出し画像

『アムステルダム』/物欲支配に対する無効通告(映画感想文)

デヴィッド・O・ラッセル監督の『アムステルダム』(22)を観た。力強いメッセージを放つ大変気骨ある傑作。しかも少しも声高でなく飄々とユーモラスにそれを訴えてくる。

物語や扱われている題材についてまったく白紙の状態で臨めたのだが、それもよかった。
(白紙での鑑賞を勧めつつあえて書きます、・・・)映画は傷痍軍人の破壊された顔をクリスチャン・ベール演じる医者が修復・整形する場面から始まる。彼もまた酷い傷を負っている。その彼に親友の黒人弁護士が奇妙な依頼をしてくる。演じているのはジョン・デヴィッド・ワシントン。そうこの映画、ブルース・ウェイン(バットマン)と名もなき男(『テネット』の)クリストファー・ノーランの二大主人公の共演でもある。
映画が始まりしばらくしても、サスペンスなのか喜劇なのか物語のジャンルが定まらず着地点の見当がまったくつかない。ノーラン作品と雰囲気はまったく違いそこはかとない滑稽さも漂う。韜晦したシニカルさがちらほらと感じられもする
しかしやがて大きなうねりが彼らを包みだす、・・・。

ロシアのウクライナへの蛮行を受けて制作されたのかな、と観ながらふと思いもしたが撮影はそれ以前だ。ではトランプ大統領に象徴的に見られる自国ファーストへのノーの表明なのかな?
『アムステルダム』の放つ最もわかりやすいメッセージは「独裁への反対表明」だが、それだけではない。
冒頭で「ほぼ史実に忠実」と銘打たれたこの映画は、しかし「ほんまか!」といいたくなる展開になる。まるで日本の子ども向け特撮ドラマに登場するような悪の結社(のようなもの)が背後にぼんやりと姿を現し荒唐無稽な出来事が起こる。前半に感じたウェットで現実的な手触りは後半に入ると後退していく。その接合のぎこちなさ、不自然さが欧米での評価の低さなのだろうか。しかし信じ難くとも「ほぼ事実」なのだ。
もしかするといまから書くことが内容の想起に繋がるかもしれないが、許してほしい。

アメリカで黒歴史(のひとつ)だともいわれる「ビジネスプロット」という一件が映画のなかに登場する。1933年、第二次世界大戦が起こる前のことだ。ある者たちが具体的な武力を用いる前にひとつの画策を行い、著名な人物を世界の大舞台へ担ぎ出し、その名声を利用してひとつの国家を揺るがそうとした。詳しくは映画を鑑賞されてから調べてもらえればいいが(詳細を知らずに鑑賞してあとで事実を知れば瞠目できる)、見様によっては大変莫迦莫迦しい。マンガかハリウッド映画かといった目論見なのだが、大変恐ろしい。ネットが普及してSNSが情報の交換経路として優先されるようになった現在、根拠に乏しい噂が人々を動かすことをわれわれは知っている。現実に流布された噂で右往左往するようになった。奸計を巡らせたやつの思惑通りの時代を迎えてしまっているのだ。
もう30年近く前になるのだが、かつて日本でもある宗教団体が裏では悪の秘密結社のごとき活動を進めていた。アニメの影響だ、マンガじみている、と当時もいわれていたがやったことは事実だ。911でWTCに航空機を突入させたものも、映画からの影響に違いない。
絵空事に過ぎなかった常軌を逸する暴力を、現実に対して行使するものが現れた時代をわれわれは生きている。
「現実と非現実の区別がつかない」という指摘は、本当は「やっていい範囲と(たとえ理由がどうであれ)やってはいけない範疇」の区別がつかないというのが正しい、と僕は思っているが、その線引きを思慮なく越えてしまう非常識不道徳な輩がいまは実在する。政治とは、けっして同一ではない価値観を持ったものたちを統合する高度な手腕を要する技術運営だ、と思うのだが為政者であってもその区別がつかないものが跋扈する時代だ。

『アムステルダム』が告発し最後通牒を突きつけるのは、そういった手合いにである。情報を悪用して人々のささやかで穏やかな人生を蹂躙しようとするやつらに、といえばいいか。
しかし先にも書いたようにこの映画の素晴らしさは、それにとどまらない。
対極の、守られるべき人びとの生活や誰もが保持しながらも人によって異なる人生の価値というものを、それが「ある」ということを『アムステルダム』は丁寧に描いている。例を挙げれば、たとえばハンバーグが好きだとか、野球観戦しながらビールを飲むのが至福の一時なのだとか、休日の昼間に老いた妻と二人で意味なく散歩するのが楽しみだとか、おれ「〇〇」ってマンガが好きでそれだけは発売日を心待ちにしているんだよね、とか。人間とは、他人にとっては価値がなく、たとえそれがつまらないことであっても幸せと感じ、楽しく充実して生きることができるものなのだ。そしてそれを保持し謳歌することこそが、確かな生き様であり人本来の正しい有り様なのだということを映画は描こうとしている。
劇中にダダイズムを信奉する人物が登場するが、エルンストやデュシャン、マン・レイに知られるこの前衛派の芸術思想運動は、既成概念の否定や破壊を標榜し、固定的な考え方からの解放、自由な見方を根底に置く。マティリアルな利益を欲望のままに独占しようとする実利主義に対しはっきりと「芸術こそ価値がある」とその人物が宣告する場面は爽快だ。と同時にある種の人々は、物欲に支配され私欲を剥き出しにすることの空虚さを思い知らされることになる。

この記事が参加している募集

映画感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?