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『ティル』/カタルシスなき、正義(映画感想文)

1955年に事件はミシシッピ州で起きた。
シカゴに住んでいたアフリカ系アメリカ人のエメット・ルイス・ティルはその夏、ミシシッピ州に住む伯父一家を訪ねる。叔父は小作人だが臨時の聖職者として「伝道師」とも呼ばれてた人物で、事件のきっかけとなった日も彼は教会で説教をしていた。
シカゴとミシシッピでは黒人に対する周りの対応がまったく違う
エメットの母親メイミーは、エメットの父親である男性と彼の不倫や暴力が原因で離婚している。ひとりで彼を育てながらも、シカゴではそれで困ることはなかった。メイミーはのちに再婚、再び離婚もしてもいたが、空軍に一般職として勤め、暮らしは比較的裕福だった。息子であるエメットもシカゴでは差別を感じることはなく、友人たちとふざけたり野球をしたりして楽しく暮らしていた。服装にも凝るお洒落な少年で、仲間うちで注目を浴びることもあった。

だが、この夏のミシシッピ行は違った。
北部では想像もしなかった小作人の労働に辟易しながらも、彼はこの南部で普通の(白人と変わらぬ)少年としてふるまった。キャンディーを買いに訪れた食料品店で、店番をしていた女性に声をかけ、軽い気持ちで口笛を吹く(実際にはこの点はよく判っていない。エメットには吃音があり、これまでも習慣的に口笛を吹くことがあった。またガムを噛みながらの発声が口笛のように聴こえたのではないか、など)。この女性はこの商店の主人の妻だ。このとき主人のブライアントは商品の買い付けに出て街を離れていた。
店の外にはエメットの仲間の黒人の少年たちがいたが、店内で起こった出来事について知るものはエメット本人と店番をしていた妻キャロラインだけだ。だがエメットは死に、キャロラインが法廷で語ったことが真実である保証はない。
エメットの取った行動とそれが引き起こすに違いない重篤な事態にあわてた仲間たちは、エメットを連れ一目散にその場から逃げ去る。重大さの認識がないのはエメットだけだ。顛末はうわさとして広がり、やがて店主のブライアントの知るところとなる。
黒人が白人の女性にモーションをかけ、許されるわけがない。南部では

映画『ティル』(23)はこのとき起こった事件と、それに対しエメットの母親が取った社会的行動を描いている。実話。
観ながら、はたしてこういう映画が作られる意味とは、と思う。
社会に蔓延る悪について考える? マイノリティ差別について知る? 正義の大切さを思う? …そのどれもが正解なのかもしれないし、あるいは明確な答えはないのかもしれない。僕としては、起こった出来事に目をむけ人間が何をしたかを知る機会にはなる。
なぜこんなことをいまさら考えた(考えてしまったか)というと、この作品、映画としてのカタルシスがまったくないのだ。

エメットについて暴力をふるった南部の白人の男たちは、「おれは黒人も好きだ。ただ自分たちと同じ世界に連中は生きてはいない。おれは、やつらに教えてやらないといけないと思ったんだ」と事件の後に語っている。映画ではこのくだりは描かれないが、行われた凄惨な痕跡を突き付けられても、キャロラインはエメットが自分から性的に迫ってきたのだと法廷で証言し、街の保安官は「あの死体は別人で、いまごろ少年はどこかで楽しくやっているさ。逃げただけだ」とうそぶく。そして白人の陪審員たちは、男たちがエメットを誘拐したことは明らかであるにも関わらず、そして暴力的な「教育」を施したことに気を留めることもなく無罪の決定を下す

人種差別を日本に住みながら理解するのは容易ではない。
エメットの事件は、NAACP(全米黒人地位向上協会)と、白人市民議会なる組織の対立を明確にする。南部的考えを持つ白人たちは、些細な事件をNAACPが政治利用しているという。少年に行われたリンチはミシシッピではありきたりな些事なのだ。白人上位の考え方は根深い。ただそれを間違っていると思う人びともアメリカ全土に少なからずいる。
ある新聞は「ミシシッピ社会を堕落させているのは暴力を容認する白人だ」とはっきり指摘した。しかし反面、「人種隔離の制度によって黒人の安全は保証されていたのだ」と語るものもいる。

エメットの私刑には黒人も手を貸していた。白人に「手伝え」といわれればどれだけ無茶で、理不尽でも手を貸さないわけにはいかない。でないと「次はお前だぞ」といわれるのだから。
長年あたりまえのこととされていた価値観を揺さぶり、問題をあらわにしたのは、エメットの母親の信念と愛だ。これこそがわれわれがこの作品を観る意味だろう。長年、当たり前のこととして根付いていた理不尽を、ひとりの母親の想像力と不屈の魂に基づく行動で変えようとしていく。社会悪へ声を上げること。
劇中でメイミーが、「いままでシカゴで裕福に暮らしていた自分は差別を意識することはなかった。みなさんもそうかもしれないが、いま一度、自分の身に起こることとして想像してほしい」と語る場面がある。
その瞬間、映画が普遍的なメッセージをも持っていることに気付く。

現在の社会を見わたしてみれば、起こっている問題を知りながら、他人事として無関心でいることがどれだけあることか。少しの声掛け、意識で変えていこうとわれわれはするべきなのだ、と。
(そして同時に、そうして立ち向かっていかなければならない「悪」がこの世界に確かにあることも自覚するのだが)

『ティル』のクレジットには、2007年に「トークショーの司会業に専念するため女優を引退する」と宣言したウーピー・ゴールドバーグの名前がある。製作と、そして出演もしている。
「復活?!」と思ったが経緯は少し違い、やはり使命感からの登板らしい。そしてそれを後押ししたのも意外な人物で、それはバーバラ・ブロッコリなのだ。そう、親子二代にわたって007映画のプロデューサーとして知られる、現在のボンド映画の立役者。『カジノ・ロワイヤル』(06)でボンド映画の復活に成功した手腕の持ち主だ。あのエンタメ女王が? 確かに、劇場で見たクレジットにイオンの名前があった。
「バーバラが、これは撮るべき映画だ、といってMGMのスタジオを説き伏せ資金を出させてくれた」とウーピーは語る。そうなのか、…。結構MGMは経営が苦しかった筈(『スカイフォール』(12)がロンドンを舞台にする脚本にほぼ書き換えられたのは資金繰りに苦しみ倒産の危機にあったからなのだが)なのだが。
この映画の製作にはもうひとり、共同脚本家でもあるキース・ボーチャンプなる人物も名を連ねている。実際に、エメットの事件についてのドキュメンタリーを作り、それがきっかけでFBIを動かすことになったのだという。

僕がミシシッピ州で根強く黒人差別が行われていたことを最初に知ったのは、アラン・パーカー監督の『ミシシッピー・バーニング』(88)だった。観に行ったきっかけは社会的な問題に興味があったから、…ではまったくなく、監督の前作品の『エンゼル・ハート』(87)がおもしろかったからに過ぎない。『エンゼル・ハート』は悪魔の出てくるミステリーをハードボイルド的演出で撮ったエンタメ作品。
『ミシシッピー・バーニング』が描くのは64年の南部。エメットの事件とは10年も開きがあるのに何も変わってはいない。黒人が私刑で殺され、家が焼かれる
この作品、当時は何も知らない僕に衝撃的な事実を教えてくれた貴重な一作なのだが、のちに大変な批判を浴びている。というのも物語は、南部で起こった事件にウイレム・デフォー演じるFBI捜査官が調査に訪れる、というものだが、現実において当時FBIはこういった公民権運動には非協力的で、まったく当てにできなかったのだとか。司法省も政府も無関心だったのだ。また劇中に黒人の捜査官も登場するが、64年にはFBIに黒人の捜査官はひとりもいなかった。創作が過ぎたというわけだ。
しかし、僕はこの映画が好きで、そして何も知らなかった自分の意識を少し変えたという点では重要な映画だといまでも思っている
『ティル』も、誰かにとってそういう映画になるのだと思う。本で読むだけでは残らないものを映画は人に与えることができるのだな、とも。


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