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『キングダム』(19)/普遍的なはじまりの物語(映画感想文)

『キングダム』は、原作のマンガを読んだことがありません。
純粋にただ一本の映画として観ました。おもしろかったです。どのキャラクターも「立っている」こと、そのキャラクターたちの出会い方や繋がり方がシンプルな物語と有機的に絡みあっていること、そしてアンサンブルがだんだんと大きくうねり物語にダイナミズムを与えていくのに成功していること、…なんて書くとえらそうですが、観客の求める「こう関わってほしい」「こういってほしい」「こうやって鼓舞して」「こうやって倒してほしい」をきちんと果たしてくれる映画です。映像や動きがその期待をさらに上回るゴージャスで美しい絵として観ているわたしたちの前に提示されます。

ところで先にも書いたように原作についてはまったく知らないまま物語に入っていったのですが(きっとすでに誰かが指摘されている気もするのですが)、映画『キングダム』の二時間のなかで語られる物語は、かつて栗本薫が『グイン・サーガ』の第一部で描いた物語と大変似ています。
〈裏切りにより国を追われた王〉が逃れた先で〈見知らぬ・正当な騎士や兵ではないもの〉と出会い、そして〈恐れられている蛮地で、異様の一族の力を借りて〉反撃に出る、という流れです。
パロという王国を逃れた双子が森のなかで出会うのは異形の騎士でした。その騎士が危険を承知で乗り込み、そこで手を結ぶのはラゴンという巨人の一族だったと思います(もう40年近く前に読んだものなので、…ややあやふやですが)。100巻で完結すると謳われ、結局作者が亡くなったことで本当の完結を迎えることはもうなくなった早すぎたファンタジーに『キングダム』は似ています。登場人物のヴィジュアルや位置づけや個性にも類似の点がいくらでも見出せますが、しかしここで、だからといって『キングダム』の魅力が損なわれているとは思っていません。むしろ、先に挙げた『グイン』だってさらに遡ればもっと元になった物語のひとつの類型のようなものがどこかにあり、それはすでに神話の域にまで達したある種の完成したフォーマットなのでしょう。『キングダム』は「北斗の拳」にも、叛乱に因り追われた美しい王が国を取り戻す、という点においてはムアコックの小説群にだって似ているのですから。
人が創作に求める普遍的なカタルシスというものがあり、『キングダム』はそのひとつの完成形なのでしょう。

山﨑賢人さんについても何も知らずに観ましたが、その肉体の、特に腹筋からのラインの美しさには魅了されました。
もうひとつ、最近劇場に行く度スマホを開く不躾な客に不快な思いをさせられることが多いのですが、隣に座っていたアベックの男性のウェアラブルウオッチ? が反応した際、見知らぬその彼がかなぐり捨てるかのようにそれをポケットに押し込んだことにほっとしました。先になんとかしておけよ、という批判よりも、その兄ちゃんの映画への素直な反応に本当にスクリーンに惹き込まれている感があり、共感を覚えたのです。本当に面白い映画って観ている人たちに一体感を生みますよね。

(※19年5月劇場での初見時に書いた記事です)

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