最近読んだ本

まずイーサン・ケイニン「エンペラー・オブ・ジ・エア」。誰?という方も多いはず。柴田元幸訳と言うとわかるだろうか、アメリカの作家だ。
私が読んだのは「夜空の皇帝」、「頭の中で何かがかちんと鳴る」、「カーニバルの犬またはダイヤモンドを売る男」、「スター・フード」の4篇。「アメリカの豊かな中産階級」の息子と親の関係が繰り返しモチーフとして出てくる。両親の多くは自営業者であり、自分の息子にはしかるべき大学を出て幸福な未来を達成してほしいと願っている。
もちろん、こうした物語は現在のアメリカにおいて美しい幻でしかない。新興国からの労働力流入や経済のグローバル化は労働者の価値を大きく低下させ、彼らの生活水準は大きく低下している。
努力さえすれば幸福になれる―「アメリカン・ドリーム」も、今では社会的構造のもたらす不幸を個人の努力不足に帰す、単なる既得権益層を肯定するだけの思想に劣化している。
それでも作中、個人的な内的規律に従い生きる人々の姿には、確かな生活と結びついた美しさがある。マラマッドを思い出す。

中上健次「覇王の七日」。私生児秋幸が父の浜村龍造に殺意を抱きつつ、その息子秀雄を殺してしまう血族の愛憎の物語―どうにも陳腐な要約だが―「枯木灘」の続編に当る短編。
読んだ感想としては、「ま、こういうもんだな」。
歌人の穂村弘氏がサリンジャー「ライ麦畑でつかまえて」を読んで何もかも想像通りだった、と言っていた話を思い出す。 
浜村龍造は便器の水をすすり、食を絶ち、秀雄の死を悼む。その一週間の記録だ。まあ読まなくていいと思う。 

三島由紀夫「獣の戯れ」。詳しいあらすじはwikipediaを読んだほうがいい。ここでは
1.男女の三角関係が話の中心にあること 
2.片方の青年が知識人の男をスパナで殴ったこと
3.釈放された彼が後遺症で失語症に陥った知識人の男と女とのよりねじれた三角関係に再び絡め取られていくこと
この3つが了解されていればいい。

話としてはいつもどおりの三島。世界を何度でも繰り返せる神が退屈しながら何千回目の世界を生きる少し興味を惹く人々を頬杖ついて見ているような。
そのくたびれた目線は甘くつけて45点だが、とある理由から60点としたい。
というのはこのシーンのため。
釈放された青年と女とは再び心を通わせ出す。
その途中、もう何もわからない「痴呆」―差別用語であるが使う―の知識人の男の前で、女は詰め寄る。
―ねえ、嫉妬ってわかる?知識人の男はぼんやりしている。女は青年に口づける。これが嫉妬。
―ねえ、犠牲ってわかる?知識人の男はやはりぼんやりしている。女は手元のユリの花を滝に投げる(彼らは山に散策に来ている)。これが犠牲。
この、痴呆の男の前で行われる嫉妬/犠牲の意味の示し。これは―ぜひ本文を読んでほしい―優れていた。
次点で蚊帳ごしに体をすり合わせる彼ら。三島は、おそらく意識はしなかったろうが、エロティックな描写を描くのがとてもうまい。というのは、エロティックな描写というのはそれが他の何かの意味を担った瞬間にその力を失くす。たとえば村上春樹氏の性描写はまるでエロティックではない(批判ではない)。それが三島はなんの意味もないエロティックを(こうエロティックエロティック繰り返すと馬鹿馬鹿しくなってきたが)見事に書く。短編「頭文字」「翼」などにその傾向はよく出ている。

三島由紀夫「命売ります」。取り立てて言うことはないが、いわゆる「純文学らしい作品」がしばしばどうしようもなく通俗的になる―それも作者のコントロールを離れたところで―のに対し、これだけ通俗小説のルールを守りながら三島印をポンと押すところはさすが。なお私は吸血鬼女との下りが一番好きである。

津村記久子「君は永遠にそいつらより若い」、「カソウスキの行方」、「Everyday IWrite A Book」、「花婿のハムラビ法典」。(なお他の氏の作品を私はほとんど読んでいない。無責任な紹介である。)
どれも優れた―そのイキイキした人間の描き方について―作品である。特に二点。「君は永遠にそいつらより若い」の同性愛―正確には少し違うが―の描写と「Everyday I Write A Book」のギリシア語の官能小説の持つ素敵なおかしさだ。

新潮選書「マーガレット・サッチャー」。フォークランド戦争の話が記憶に残った。

アルゼンチンと南極のちょうど間ほどに浮かぶちっぽけな島。パナマ運河ができるまでは関門として利用価値があったが、この戦争―イギリス本国は「紛争」と呼ぶ―の頃にはその価値もなくなっていた。
フォークランド戦争はこの島を巡るイギリスとアルゼンチンの戦争である。
この戦争でイギリス人と遥かに多くのアルゼンチン人が死んだ。このちっぽけな意味もない島のために。
フォークランド戦争はいろいろな意味で日本のノモンハン戦争(事件)と似ている。後者がより血なまぐさい。
(追記)昔南京大虐殺を扱った本で聞いた話だ。多少記憶違いがあるかもしれない。許してほしい。
当時中国にはヨーロッパからの宣教師たちが来ていた。彼らは自分たちの教会に日本人兵士に追われた中国人たちを匿った。そこにいた男たちが日本人と戦うと主張した。宣教師たちは必死に説得する。教会には女性や子供もいる。君らはいい、が彼らの命まで危険にさらすと言って。
日本軍は結局、女子供もゲリラだと主張し教会に避難していた中国人を全員殺した。ガス室など当然ないので一人ひとり銃殺や刺殺で殺していく。

この話を聞くたび、私は人間の意志決定とは何だろうと思うのだ―感傷的な意見かもしれないが。宣教師たちはこのときどうすればよかったのか。
そして人間が無意味に、単なる数値のように殺されていく時代はいつになれば終わるのだろうか。


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