どうしてこの本読んだのか分からない本たち/五選

第一位:大江健三郎「宙返り」

コピペの内容紹介。
上「かつて神と信者たちをコケにした棄教者のリーダーが戻ってきた。脇腹に「聖痕」を刻んで。待ち受ける急進派は「悔い改め」を社会に求める構想を保ち、祈り続けてきた女たちは集団での昇天を意図する。教会は再建されうるのか?」
下「棄教ののち、リーダーが「地獄降り」を共にした腹心はテロに倒れ、教会の各セクトの企ての進むなか、四国の森の中に根拠地は作られた…。ノーベル賞から5年、大江健三郎が世紀末の闇の深さと希求する若い魂の激しさを描く。」
 
ざっくり言うと新興宗教の話。

しかし、筆者は二つだけしか覚えていない。

一つは、比喩に「柿の種のような」という喩えが出てくること(人の顔の描写だったと思う)。
「あ、大江さんも柿の種知ってるんだな」って思った。

もう一つは、下の「各セクト」のうち一つ、「静かな女たち」が小説の終盤、集団自殺しようとする。
ところが薬を下剤にすり替えられ、一斉にウンコ(野糞)すること。
「なんだ、ノーベル文学賞の作家もこんな汚いこと書くのか」と私は鼻をつまみ、後々、「グロテスク・リアリズム」という文学技法の一つで、大江さんは昔から使っていることを知り(肛門にキュウリを挿して首を吊る男が出てきたりする)、ただの私の不勉強だと知ることになった。

ちなみに、ドストエフスキーに次いで人を殺すのに便利なこの900(むしろ1000行ってなかったことに驚く)ページ超えのこの小説、

これでも削ったらしい。

本気かいな。(本来はさらに様々な哲学の話をする予定だったとか)


第二位:島田雅彦「君が異端だった頃」

コピペの内容紹介。
「3月生まれの幼年期から、めくるめく修業時代を経て、鮮烈なデビューへ-。文豪たちとの愛憎劇と、妻がある身の最低男の、華麗なる遍歴と、不埒な煩悶と。島田雅彦による自伝的青春私小説。」

感想を一言で言うと、「二度と俺の前にその汚え面晒すんじゃねえマザーファッカー」。
いや、そこまでではない。ないのだが。

とにかく、ちょっとマシな「ゴシップ小説」という感想に尽きる。
覚えているのは、故中上健次氏(筆者注釈:かつて「文壇」という動物園の亜種で幅を利かせていた作家の種族名)に「俺、こんな可愛がられたんだぜぇ?」という島田オジンのレガシーばかり。

(引用)「「どうだ、フィクションライターはこうして事実のことでも作品が書けるんだぞ、ということを証明したかった」と、島田さんは不敵に笑う。」
(下は引用元記事―皆さんのお目汚しなので読む必要はない)

「フィクションライター」?
「事実のことでも作品が書ける」??
「島田さんは不敵に笑う」??????? 

こんな奴の小説に私の貴重なナインティーンを費やした事実は、我が生涯の汚点である。


それでもちょっと面白かったけど。

第三位:バルガス・リョサ「継母礼讃」

コピペの内容紹介。
「豊満で美しい継母ルクレシアの入浴姿を天井から覗き見る幼いアルフォンソ。耳や鼻など体のすみずみを磨きあげることに偏執的な喜びを見出している父親リゴベルト。ギリシア悲劇風の物語を織りまぜながら、少年の倒錯した心理、肉欲が昇華したエロス的世界を描く問題作。」

まずは一つ言わせてほしい。


ちっともエロくないんだが?

(何だか舞城王太郎風だ)

もう、何一つエロくない。前も書いたが、筆者が覚えているのはただ一つ。

それは寝取られ父さんリゴベルトが作中で憧れるタイだかミャンマーだかの健康法で、結び目のあるロープをまるごと、呑み込むのだ。
ロープのコブが内臓の「垢」?を落としてくれると聞き、リゴベルトは憧れる。
(何だか、ラテンアメリカ2大看板の一人、ガルシア・マルケスの描写でもおかしくなさそうな話である)。


それから少し語らせてほしい。

エロとは、隠蔽とそれに伴う欠落だ。
たとえば「君の名は」で、おっぱいがブルンブルン揺れる。

何たる低俗なるエロ!日本精神の物質主義的堕落!

(一応、本気で書いてないから。
とはいえ、ああいう描写で「これくらい許されるんだ」と思う男性は必ず出てきてしまうと思うしね、やはり筆者は見ていて良い気分にはなれないのだ)

そこではっきり言わせてもらおう。
本当の「エロティシズム」とは、
「乾いたミミズの死骸を見つめてしゃがむ少女の骨ばった膝頭」だ(読者は一言一句間違いなく言えるまで音読すること)。

第四位:谷崎潤一郎:「盲目物語」/「蘆刈」

一応どちらも青空文庫で読める。

今なら読まない。
理由は「春琴抄」を読めば済むから。以上。


それはそれとして、この、やたらひらがなの多い文体は、実際はそこまで読みづらくなかったりする(私は泉鏡花と井原西鶴の屍を越えてきた)。

個人的には「蘆刈」が好み。
理由は、最初のエッセイ風の文章が「だんだんと物語に変わっていく」その昂揚感。
村上春樹氏の小説(特に初期)とも似てる、「いつもの日常」が「ここじゃないどこか」につながるワクワク感がある(はず)。

ただ、やっぱり人に「この作品も読まなきゃダメ?」って聞かれたら、「あ〜、いや〜、春琴抄読んでるなら、いいよ」と答えてしまう。
あと谷崎潤一郎は、小説の着地が下手だとよく言われる。
確かに途中の昂揚感に比べると、着地はちょっと下手かな、とも思う。

「盲目物語」は歴史小説の側面があって、一人の、無名の按摩師の立場から薄幸の美女、お市の方の姿が語られる。
この按摩師はお市の方を「思慕」している。
「思慕」。すてきですよね。

そこまではいいのに、この按摩師、娘の茶々に目移り。

小説の最後、お市の娘、茶々、初、江は母親と一緒に死ぬ、と言って聞かない。
それで長女の茶々をこの按摩師はおぶって逃げる。そこの引用。

せなかのうえにぐったりともたれていらっしゃるおちゃ/\どのゝおん臀(いしき、筆者注:お尻)へ両手をまわしてしっかりとお抱き申しあげました刹那、そのおからだのなまめかしいぐあいがお若いころのおくがたにあまりにも似ていらっしゃいますので、なんともふしぎななつかしいこゝちがいたしたのでござります。

……。
今調べた限りだと、このとき茶々は14歳。
そのケツに母親のケツを感じる……とんだエロじじいである。
せめて「落ち着かせようと擦った肩に」とか、もっといくらでも書き方あるだろがい、と思ったが、よく考えて見るに、あんまり綺麗にしてしまうと、あの人になってしまうのだ。

そう、川端康成である(川端は川端で逆方向にやばいが)。
ということで、筆者は
「うん、このくらい肉々しいのが谷崎くんの長所だと思うし、うん、それは全然、うん、否定されることじゃ、うん、ないから〜」と、場末の就活アドバイザーみたいな気分で「盲目物語」にはうなずくことに決めた。

第五位ドン・デリーロ「墜ちていく男」


※実際の事件の言及があります。

コピペの内容紹介。
「2001年9月11日、世界貿易センタービルが崩壊。凍りつく時間。何かから逃走するように生きてきたキースは、その壮絶なカタストロフを生き延びる。やがて妻と息子の元に帰った彼は、新しい生へと踏み出すかに見えたが-。」


よく読んだね、昔の私。
まず、この小説は2001年同時多発テロ事件を扱っている。
巻き込まれた人々が、精神的に不安定になる場面など書かれており、筆者も読んでいった。
そのとき考えたことがある。

アメリカ本国でこの小説はどれほど読まれているのだろうか?

ドン・デリーロ氏は、よく「トマス・ピンチョン」と並べられるポストモダン作家。
そしてポストモダンの常として、割と読みづらい。

もちろん、こうした同時代的な事柄について小説家が語ることには意味がある。ポール・オースター氏なんかも書いていたはず。

ただ、一方で筆者はこうも思うのだ。
「この小説は本当に『誰か』に届くのか?」
「本当は私のような本好きの連中に、コンマ数秒「テロってひどいな」みたいな感想を抱かせて、それで終わりなんじゃないか」と。

これはフェアではない感想だ。
しかし、たとえば日本でも反出生主義を巡る問いに川上未映子氏が、自民党の暴走を(ときに寓話として)中村文則氏が、それぞれ書いている。

良いことだ。これはまず、大前提として良いことだ。

ただ、筆者はやはり考えるのだ。
この本が読める人間は、限られている、と。

その隔たりは超えられる隔たりだろうか。
中村文則氏はドストエフスキーなど引き合いに出して娯楽的要素を入れることで小説を読みやすくしようとしているし、村上春樹氏も似たことをしていた。
平野啓一郎氏の「ドーン」や、羽田圭介氏の小説も同じ試みをしている。

だが、筆者にはどうしても、少し、本当に少し、「薄ら寒く」感じてしまうのだ。
ドストエフスキーは十九世紀の作家だ。だから「許される」のだ。
今、「手塚治虫のような哲学のある漫画家がいない」と言ったところで、それが何になるのだろう。

ある「時代」が許す表現があり、それは一回性のものだ。
今の時代、娯楽小説はますます洗練の度合いを強めている。純文学作家が横入りして、エッセンスを取り出せるほど単純な造りでは、もはやないと筆者は思うのだす。

それに、「娯楽小説」というのは、まず何より「楽しむ」ものだ。
だから、基本的には「作者の主張」「主題」―純文学なら美点となる要素が、むしろマイナスに働く。

いつからか「純文学」というのは神棚にあげられて、「難しい」ものと一括りにされて、(さらにもっとたくさんの複雑な原因から)力を失い続けてきた。
そしてそれはもう止まらないだろう。

「時代」と「小説」が肉離れを起こしている。
失礼なことだが、私には「墜ちていく男」が「2001年同時多発テロ」を主題に持つ必然性が感じられなかった。
それはとても虚しいことだ。小説家が何年もかけ書く小説が、様々な場面で無力だということは。

堅い話になってしまった。

(追記)私はときどき、「ある作家」を一気に読みたくなるときがある。
少し前には綿矢りさ氏で、「オーラの発表会」や「意識のリボン」を一気に読んだが、特別氏の小説が好きなわけではない(当然、嫌いなわけでもないが)。

そんなこんなで、私にはよく、「あん……、あ、これ読んでたか」という現象が頻繁に起こる。
てっきり島田雅彦なんぞ一冊も読んでいないつもりでいたし、今後ともそのつもりでいたのに読んでしまっていた。
他には、なぜか「車輪の下」(死ぬのは酔っ払って川に落ちて死ぬので、車輪の下ではない)を子供向けの挿絵つきで読んでいたり(翻訳者がニーチェの著作も手掛けていたことをなぜか覚えている)、私も私の読書傾向がよくわからない。

「罪と罰」も「車輪の下」も、あんなに孤独だの人殺したの騒ぐ割には、なんのかんの主人公は一人には(確か)ならない。
それが「時代」というものだ。
そして大岡昇平は、「二十世紀では偶然によってしか悲劇は起きない」(筆者記憶より引用)と「武蔵野夫人」で言っていた。

二十一世紀の悲劇は、ではどう起きるだろう、語ればよいのだろう。
難しい問いだ。










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