町田康「浄土」
作品要約5つ
(その1)夢の中を書いたような短編。
阿部和重「□」の感想のときも書いたけど、どちらもその特徴にあるのは奇妙な固有名詞。
(その2)町田康という作家は(個人的に)「自罰傾向」が強い人のように思う。
だから作中の暴力も「他者への暴力」―ヘミングウェイのような―ではなく、「自傷行為」に近いものに思える。
(その3)町田康作品で主人公がろくな目に合わないのは「きれぎれ」あたりから変わらないが、「浄土」では「ギャオスの話」「自分の群像」などいくつかの作品が三人称で書かれている。
この結果、一人称視点では[単なる滑稽なこと]として見られていたものが、本来の暴力性や悲劇性を晒し始めた。
(その4)醜い人間、どうしょうもない人間が何も変わらないまま話は終わるが、これは露悪傾向というより、町田氏のナイーブさの裏返しのように思う(太宰治の「親友交歓」を思い出す)。
(その5)作品内に「浄土」という短篇はない。全体の印象としては「煉獄」と呼ぶべき世界観だが。
作品紹介
誰もが本音を言う「本音街」、主人公が間もなく死ぬと告げられる「犬死」、古事記の翻案物「一言主の神」、人と人の間の暴力性が書かれた「自分の群像」など。
(余談)町田氏の作品を読むといつも筋肉少女帯の「人として軸がぶれている」の歌詞を思い出す。
彼らのナイーブさや反抗性は彼らの未熟さの素直な現れというよりは、かなり戦略的なものだろう。
ただ、その上で一つ言いたい。彼らの作品には「他者」がいない。彼らがどれほどの苦悩を抱えていてもスタスタ通りを歩いていく、彼らに無関心な「他者」が。
そうした表現には、やはり限界があるようにも思う。
他者の世界との関係性に、もう少し開いた作品が(あくまで筆者は)好きだが、ここでこれ以上言うことではないだろう。
あまりいい記事ではないが、少しでも役に立ったら幸いである。
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