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記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。

最近読んだ本

コーマック・マッカーシー「ブラッド・メリディアン―あるいは西部の夕陽の赤―」副題の通り西部劇の形式を借りた小説。
|あらすじ:19世紀半ばのアメリカが舞台。14歳で家出した主人公の少年は各地を放浪した末グラントン大尉率いるインディアン討伐隊に加わった。そこには異様な思想を持つ大男のホールデン判事がいる。部隊は容赦ない殺戮を続けていき―『文庫裏/あらすじ要約』

この小説の目玉は(恐らく)ホールデン判事の徹底した思想にあるので、まず適当に引用しつつ説明させてほしい。

(略)世界の秘密は永遠に解けないと信じる者は神秘と恐怖のもとで生きることになる。いずれ迷信がそういう人間を引きずりおろすだろう。雨がその偉業を侵食するだろう。だがタペストリーから秩序の糸を選り出す仕事を自らに課す人間はその決意だけで世界を引き受けたことになるのであってそういう引き受けによってのみ自らの運命を定めることができるようになる。
(略)
鳥の自由はこの私への侮辱だ。鳥は全部動物園へ入れてやりたい。

p292より

(略)人間は遊戯をするために生まれてきたんだ。ほかのどんなことのためでもなく。子供は誰でも仕事より遊戯のほうが高貴であることを知っている。遊戯の価値とは遊戯そのものの価値ではなくそこで掛けられるものの価値だということもだ。偶然の勝負を愉しむ遊戯は何かを賭けてこそ意味を持つ。(略)あらゆる遊戯は戦争の域に達することを渇望する。なぜなら戦争においては遊戯そのものや参加者も含めたすべてを呑みこんでしまうものが賭けられるからだ。

p365より

しかしこの思想の持ち主は同時に、「精神薄弱者を両手で抱えて(略)もとの仲間のあいだに戻してやった」りもする。「善悪」をまとめて踏みにじる存在として本作のホールデン判事の存在感は極めて大きい。
補足:彼の身長は約2メートル、禿頭とくとう、ダンスの名手でもある。

タイトルの「ブラッド・メリディアン」は訳すと「血の正午/血の絶頂」、あるいは『「meridians」が〝世界〟を表わ」す表現でもある(『訳者あとがき』)ので「血の世界」の意味も含まれているかもしれない。
確かに作中大勢の人間が死にまたは殺されて血を流す。ページの隙間から饐えた鉄の臭いが漂うようなストーリーである。
◯『訳者あとがき』でニーチェの「正午は世界が完成されるとき」という一節が紹介されている。つまり、この酷たらしい殺戮が世界を完成させるということらしい。
石原莞爾の世界最終戦論(後に本人が否定したが)を思い出す。
◯ニーチェの別の著作に、昼にちょうちんを持った男が通りに出て「俺たちは神を殺してしまった」と嘆く下りがあったはず。
それが背景ならタイトルの「ブラッド」、血は人間たちの血と同時に真昼に殺された神の流す血でもあるのだろうか。

◯判事の思想は強いて言えば神抜きの実存哲学に近い。なのでホールデン判事を神殺しの男として見るのはそれほど外れていない読みのはずだ。
ただし、このいわゆるスタヴローギンの系譜に属する一派は結局「神がいなければすべてが許される」世界に耐えきれず皆潰れていった。
ホールデン判事の健闘を祈りたい。

◯本作はホールデン判事と闘う少年の物語でもある。ただ恐るべきホールデン判事と闘うにはあまりに無力な存在だが。
この歪な力関係は村上春樹氏の「海辺のカフカ」に出てくる「(略)父を殺し、母と姉と交わる(本文強調点)」と息子に呪いのような予言を与える父親像と重なる。
また、以下の少年とホールデン判事の最後の思想の闘いについて。

(略)
お前なんか何ものでもない。(注:少年のセリフ)
(略)血みどろの戦争に自らのすべてを捧げた者、闘技場に立って恐怖を経験しその体験が自分の心の最も深いところに語りかけてくる知った者だけが、踊る(注:ここでは流血を伴う生の高まりか)ことができるんだ。(注:ホールデン判事のセリフ)

p483より

筆者の先入観かもしれないが、この二人の会話はまるで父と子のそれのようだ。
仮にそうだとする。しかしこのとき子/彼(作中で成長し少年という年ではもうない)にできるのは父/ホールデン判事の思想の否定でしかない。
その後彼はホールデン判事によって殺される。
5ページ後に来る最後の一文は、

私は絶対に死なない、と判事は言う。

p488より

ギリシャ神話の時の神クロノス(サトゥルヌス)は我が子に背かれるのを恐れ次々彼らを呑み込んだ。父が子を呑み永遠に生きようとする、飽くなき生への渇きがここにはある。

(追記)本作の魅力には他に、例えば以下の文に見られる

(略)子馬は親馬に寄り添って頭を垂れ親馬は星々が溺れていき鯨が自分たちの巨大な魂を運んでいく人知の及ばない継ぎ目のない黒い海を眺めていた。

p441より

ありのままの世界の讃歌のような風景描写が強く記憶に残る(しかし、この「黒い海」にもホールデン判事は抗えるのだろうか?)。


トニ・モリスン「レシタティフ―叙唱」。
あらすじ:トワイラとロバータという孤児院育ちの二人の女性がアメリカの時代時代と足並みを揃えつつ、共感と無理解の狭間で揺れ動く話。
作中、この二人が白人と黒人であることは分かるも(孤児院で二人は塩とコショウと呼ばれる)、どちらが白人でどちらが黒人かは明かされない。
作者によれば「すべての人種的記号を取り除こうとする実験だった」という。

感想としてはジブリの高畑勲監督の映画に似ている。つまり、全てのシーンに意味がガチッと嵌められていて読んでいて息苦しい。
ジミ・ヘンドリックスや公民権運動など、アメリカの各時代のアイコンや社会現象を描きつつ、その渦中を生きる典型的人物としてトワイラとロバータの二人が描出されているのは分かる。
分かるのだが、読むと偉い先生の出した課題をウンウン解かされている心地になるのだ。
◯しかしそれはそれとして作者の狙いは成功しているはず。白人と黒人、白人と黄色人種、白人と……。「人種を越えた友情・愛情」という『感動のテンプレート』をこの小説は見事に打ち砕いている。その方針が素晴らしいと思う。

飛浩隆「自生の夢」。全七篇のSF短編集。

表題作「自生の夢」は会話をするだけで相手を殺せる男、「間宮潤堂」を巡る物語。
同時に「忌字禍」という厄災が大切なモチーフなのだが、筆者の理解力では何だかよく分からなかった。何でも人間の言葉を凄まじい速度で変容させてしまう存在らしい。
この忌字禍によって母親とともに自らの命を絶たれた天才少女のアリス・ウォンと間宮潤堂の会話が上位存在同士のそれのようで、読んでいて面白かった。
◯「#銀の匙」はアリス・ウォンの一つ違いの兄、ジャック・ウォンの物語。後に様々な波乱を巻き起こすことになる「Cassy」―持ち主の思考を常に適切な言語に翻訳していく存在の所以ゆえんが扱われている。
(しかしJPOPと相性の悪そうな装置である。何しろCassyが行き渡ったら、もう「〜言葉にできない〜」とか、「〜言葉が見つからない〜」と歌っても誰も共感してくれないだろう。むしろそれは自ら言語能力の劣性を示すだけの言葉になるかもしれない)。 
◯「曠野こうやにて」は五歳のアリス・ウォンが七歳の少年石川克也とCassyを使ったゲームで力比べする話。当然アリス・ウォンが圧勝する。
このゲームには飛氏の過去作の冒頭や設定が使われている。素敵な遊び心のある短編。
◯「野生の詩藻」は大人になったジャック・ウォンと石川克也が禍文字―またよくわからない概念だが―を捉えようと奔走する。
(アリス・ウォンは詩人であり、そのため忌字禍の侵犯によって莫大な量の詩を世界にばらまいたという。その詩が禍文字なのだろうか)
結末がとても素敵だ。二人の男たちはついに禍文字を(相対性理論らしき?)理屈で捕獲する。

#かくしてアリス・ウォンの遺産は、その計り知れぬ可能性をそのままに、無傷で捕獲された。
#かつて一度も封を切られたことのない詩。人の目にふれたことのない詩を人間は手にした。
#この「詩」がどれだけの栄光と救済を人類に与えたか。
#どれだけの死と悲惨をばらまいたか。
#すべてはまた別の話である。
#しかしひとつだけ確かなことがある。
#その、ありとあらゆる「未来」は、とうのむかしに、禍文字のなかに書かれてあった。

p236より

この文全てに「#」がついているのはこの文章がCassyによって書かれた―引いては禍文字によって―ことを意味している(たぶん)。

残りは独立したストーリー。
◯「海の指」あらすじ:世界のほとんど全てが〈灰洋うみ〉という「地球を可逆的に圧縮(本文『可逆的に圧縮』に強調点)したもの」に変化してしまった崩壊後の世界の一つ泡洲あわず
触れたものも灰洋に変えてしまう灰洋はときどき(「百本、二百本、それ以上の」)突起を伸ばして泡洲を演奏し、地形をめちゃくちゃにしてしまう(例えば、「神社だ。神社がもりもりと生み出され」たりする)。
このSF的な想像力の上に、夫の和志と妻の志津子、DV気質のあるかつての夫昭吾の因縁めいた関係が展開される。特に恐ろしい一文を引用したい。

(いいとも)
和志はそう答えたのだ。寝床の中で殺人を告白した妻に。自分の上にまたがって熱い海の匂いをなすりつけ、顔を舐め、耳をかんでくる女に。その太ももをあざがつくほど強くにぎりながら和志は告げたのだ。いいとも、と。

p56より

志津子はかつて「鋏の刃」を「昭吾の脇腹わきばらに刺」し「呻く昭吾を蹴って蹴って蹴り続け」「灰洋に呑み込ま」せている。引用文の「殺人を告白した」とはこのこと。
男と女の性の生臭さが立ち込める良い短編だった。
◯「星窓 remixed editon」は飛氏が二十代に書いた短編群をリミックスしたものとのこと。
突如「よくわからない」理由から「二年もかけて計画と準備を進めていた」宇宙旅行を取りやめてしまった「ぼく」。彼が架空の姉と「星窓」―様々な星を鑑賞できるインテリアだが、「ぼく」の手元にあるのは真っ暗闇のものだ―の手練手管で出会い憂鬱ゆううつさを晴らすまでの物語。
この姉がとても魅力的な人だ。いつもお酒を飲んでいて、ドアは足で閉める。架空でもいいので筆者も一人こんな姉が欲しい。いや、欲を言えば三人ほど。
◯「はるかな響き」。上位存在と上位存在の惑星の生命体の進化の方向を巡る闘争(?)の話。原作は光瀬龍氏の、萩尾望都氏の漫画「百億の昼と千億の夜」を思い出した。


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