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三島由紀夫「仲間」

父と子の物語。

この作品の特徴は、冒頭の文でよく分かるはず。

お父さんはいつも僕の手を引いてロンドンの街を歩き、気に入つた家を探してゐました。

子どもの「僕」を使った一人称が、全体として柔らかい読後感をもたらす。
三島にしては珍しいタイプの小品。

「仲間」について。

まず、三島氏の小説は、よく「観念的」で「リアリティがない」と批難される。
しかし、たとえ「観念的」だろうと、三島の小説の舞台はあくまで現実の日本だし、扱うテーマでも、あくまで作者三島の抱えた現実のジレンマを書く―それが筆者が知る限りの三島の(優れた)作品だ。

それが、「仲間」は舞台はイギリス、後に紹介するが小説のストーリーも、現実の三島とは離れた、おとぎ話のようなものだ。もし作者名を隠されれば、誰の作品がすぐにわからないかもしれない。
いいか悪いかは置いておいて、そうしたショートストーリー「仲間」は、読者にもそれなりに愛されている作品だろう。

父と子が「ロンドンの街を歩き、気に入つた家を探してゐ」るのが冒頭。
この「霧の深い町」を、二人は外套を着て歩き回る。
そのうち、彼らは二人の「あとをついて歩いてきたといふ」あの人の家を訪れ、歓迎される。

二ヶ月が経つ。父親は待ちかねて、あの人の家に向かう。
あの人は留守だった。しかし父親はあの人が「「きっと今夜には帰ってくる」と信じてゐる」。

お父さんは、あの人の寝室に入って行つて、あの人の寝台掛を外(はづ)し、そこへ花瓶の水をこぼして一面に濡らし、もうあの人も眠ることはない、と言ひました。

あの人は帰ってくる。「深夜の街路に靴音がひゞく」。父親は「喜びにあふれて」
「今夜から私たちは三人になるんだよ、坊や」と子どもに言う。


謎の残る短編だ。「あの人」とは何者か、まずこの父と子は何者か。

しかし、それを考えても例の「考察」になるのが見えているので、ここは見送る。

舞台のロンドンの霧が流れ込んだように、作品のそこかしこがおぼろげな作品。

三島は元々、余暇のように小説を書きたいと言っていたから、その発言が本当ならこれは実に三島好みの短編だろう。

ただ、一つ勘ぐるならこの短編は昭和四十一(1966)年、三島41歳の作品であり、収録された作品集も翌年の「荒野より」(この短編は「仲間」以上に非三島的要素の多い)である。

と、すると、一見害のないファンタジーめいたこの短編は、むしろ作者三島がフィクションのなかに、かつてのように自在に自らの哲学や主張を書き込めなくなった、「疎外」を示す作品ではないか。

先の見えない霧の街を歩む父と子の姿に、行き場のない中年の三島を読むのは、無理筋か。

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