三島由紀夫「可哀さうなパパ」

谷崎潤一郎は現代語を嫌った。美しくないから。

しかし、晩年の(読みづらさに定評のある)カタカナの日記文学には、現代語が出てくる、谷崎言語の死を、看取るように。

これもそんな小説だった。発表年は1963年。三島38歳の作品。

離婚した夫婦の、母方と暮らす娘が父と「デート」まがいをする。その後娘は父の恋人の家を訪れるが……そんな小説だ。

「三島由紀夫の言葉」が時代の制約とともに力を失っていき、こういう作品ができたか。

筆者はよく夏目漱石や、芥川竜之介が現代にいたらどんな小説を書いたかと想像していた。
ただ彼らも現代語の毒気にやられて、信じられない駄作を生むことに終始したかもしれないと、ふと思った。
小説という表現形式は、時代から逃れられない。

(追記)この軽い文体、そこまで全否定するものでもないかもしれない。
以下は娘の糸子が父親(本文では「パパ」)とフグを食べる場面の会話(糸子はこの前、フグに当たらないか心配をしている)。

「おい、もう中(あた)つたかい」
「何が?」
「河豚(ふぐ)だよ。舌がしびれてきた?」
「あ、忘れて喰(た)べてた」
「さふいふ子だよ、君は」

ここにはそれなりの軽やかなユーモアがある。

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?