見出し画像

『人間の建設』No.52「記憶がよみがえる」 №3〈なつかしさと記憶〉

小林 芭蕉に「不易ふえき流行」という有名な言葉がありますね。俳諧には不易と流行とが両方必要だという。これは歴史哲学ではありません。詩人の直感なのですが、不易というのはある動かない観念ではない。あなたのおっしゃる記憶の力に関して発言されているのではないかと思うのですね。幼時を思い出さない詩人というものはいないのです。一人もいないのです。そうしないと詩的言語というものが成立しないのです。

小林秀雄・岡潔著『人間の建設』

 この小林さんの発話は、前段の末尾で岡さんが語った「懐かしいという情が起こるためには、もと行った所にもう一度行かなければだめです。そうしないと本当の記憶はよみがえらないのですね」を受けた言辞です。

「不易」は一般に考えられている、固定した価値観のようなものではなくて、詩人の直感であり、幼児のときの思い出に関連していて、そこに立ち返ることを、芭蕉が不易と呼んだのではないかと小林さんは言います。

「「一」という観念」の章でした。赤ちゃんに鈴の音を聞かせる。初め振ったときは「おや」という目の色、二度目のときは遠い昔を思い出すような目の色をする。それが懐かしさの淵源という岡さんのお話を思い出しました。

小林 ……芸術の歴史を見ると、いつでも立ちかえるという運動が見られますね。アンプレッショニスム(印象主義)という運動はなるほど新運動だが、やはりあれは一つの復古運動なのです。もういっぺん自然から出直せという主張でしょう。……これは決して歴史主義という思想に学ぶのではない、記憶を背負って生きなければならない人の心の構造自体から来ているように思えるのです。原始的時代がぼくの記憶のなかにあるのです。歴史の本の中にではなくて、ぼく自身がもっているのです。

 印象主義のことを小林さんは復古運動と述べています。たしかにルネッサンスしかり、バロックしかりで、何か新しいことをしようとすると、一つ飛ばした前の時代の価値観や嗜好に惹かれるのが人間のようです。

 小林さんは、「原始的時代」が記憶の中にあり、何かなつかしさを思い出させ、自分の心の構造自体に結びついているのだと言います。母の胎内で一定期間はぐくまれる人間のありようを、わたしは連想しました。

 そんなことで、小林さんがここでは大いにしゃべります。「そこ(原始的時代)に帰り。もういっぺんそこにつ(浸)からないと、電気がつかないことがある」と表現する小林さん。イメージは正に母の胎内のようです。

小林 ……本当の記憶は頭の記憶より広大だという仏説(=仏教の教え)があると(岡さんが)おっしゃったが、その考えを綿密に調べた本がベルクソンにあります。「物質と脳」という本ですが、これは立派なおもしろい本です。……記憶というのは精神の異名なのです。物質というのは脳細胞のことです。……精神は脳機能の随伴現象だという、簡単だがどうにもならない仮説を徹底的に批判したものです。

 ベルクソン、また出てきましたね。小林さん、ベルクソンにかなりな信頼をおいていますね。脳と記憶の関連についての話で私が思いだしたのは、トルストイの『人生論』の一節です。話が横道にそれますがご容赦を。

「第三十二章 人は、自分が決して生まれてきたのではなく、常に存在していたのであり、現在も未来もずっと存在しつづけるということを認識するときにはじめて、……人は自己の不死を信ずるようになるだろう。」

 トルストイは、人間の不死を信じており、この世の生は短い通過点に過ぎないと喝破しました。大いなる生もまた記憶を伴うのならば、本当の記憶は脳の記憶よりもはるかに広大であることが導けます。

 

――つづく――


最後までお読みいただきありがとうございました。記事が気に入っていただけましたら、「スキ」を押してくだされば幸いです。