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スピリチュアルの名のもとに隠された「神秘」のトリックが明らかになるとき


「明晰さ」について

明晰さ。

それは、正気のマインドのことを言うのだといえます。

それを、コースでは正しい心(聖霊)と呼んでいます。

というのも、正しい心(聖霊の視点)から眺めるとき、そこから見るすべてが明瞭になるからです。

聖霊、イエスが見ている知覚とは、そのようなものです。

それを、「聖霊の視点」とか「聖霊のヴィジョン」と呼んでいます。

そこには、「明晰さ」「静けさ」があります。

聖霊の視点」「聖霊のヴィジョン」と言うとき、私たちはそれを神秘的でキラキラしたものとして捉えていたりしがちですが、実際は、そういうものとはまったく違います。

それはけっして神秘的でも何でもないということを知っておくと良いでしょう。

とくに、コースの学びが浅い段階において、コース学習者の私たちは「聖霊の視点(聖霊のヴィジョン)」について幻想を抱いてしまうものです。

そうするならば、そこに神秘性が入り込んでくることになり、コースを二元性のスピリチュアリティに成り下げてしまいかねません。

私たちが知っておかなければならないのは、コースは従来のスピリチュアリティとはまったく異なる霊性の道だということです。

それは、まさに「明晰さ」「明晰なマインド」を思い出していく道なのだということを知っておくと良いでしょう。


明晰さとは曖昧さがないこと

明晰さ」とは何か?

というなら、ズバリ、「曖昧さがないこと」だと言うことができます。

「明晰さ」の対極にあるのが、神秘さ(神秘性)であるということです。

正しい心、つまり、聖霊の視点に戻る経験を重ねていくならば、そのことがはっきりと理解されていくことになります。

というのも、そこに曖昧さたるものがなくなっていくからです。

神秘(神秘性)ほど、曖昧なものはありません。

それが何を意味するのかというと、

私たち(自我)は、曖昧なままにさせておくために、そこに神秘性を入れ込むのだということです。

スピリチュアル、宗教といったものは、まさにその象徴たるものであり、私たちはその神秘性に騙され続けてきたと言うことができます。

本当は何も無いにもかかわらず、「何も無い」ことを隠すために、「神秘」という隠れ蓑があたかも何かが有るかのようにしてきたということです。

曖昧にしておくことによって、私たちは「神秘」という名のもとにごまかされてきたにすぎなかったということです。

私たちは、神秘さ、崇高さ、サイキック(超能力)、ファンタジー、ロマンなど、そういったものになぜか惹かれてしまいます。

それはなぜなら、私たちは騙され続けていたいからです。

私たちが知らなければならないのは、曖昧な部分を曖昧なままにしておくことで、私たちは幻想のストーリー(物語)に欺かれ続けるているのだということです。

だからこそ、私たちは曖昧な(闇の)部分を明らかにしていくこと、つまり、それを直視していくことが求められているのです。

コースはそのようなスピリチュアリティであるということを知っておきましょう。


コースに神秘性を持ち込むべきではない

正しい心(聖霊)の視点から見るとき、幻想のストーリーのすべてが虚偽であることが明らかになります。

コースではそれを「奇跡」と呼んでいます。

奇跡はただ惨状を見つめ、そこに見えるものが虚偽であると、心に思い出させるだけである。(W-.pII.13.1:3)

奇跡講座/中央アート出版社

私たちはそのようにして明晰さ(正気)を取り戻していくことになります。

明晰さを取り戻していくならば、「曖昧さ」や「神秘性」こそが”愛の現存を見えなくしている障壁”(T-in.1:7)だということが分かってきます。

そして、見えているものすべてがまるで仕掛けが明らかにされたマジックショーのように見えるようになっていきます。

いくら幻想的で、神秘的で、崇高で、サイキックであろうが、それらが単なるまやかしのマジック(魔術)だと分かるなら、しかも、その仕掛け(トリック)も分かっているなら、もはやイリュージョン(幻想)のショーにしか見えないだけでなく、その茶番さが見えてくるといえます。

そのすべてがこの幻想世界に留めておくための「まやかし」だと分かるわけですから。

マジック(魔術)がトリック(仕掛け)だとはっきり見えているなら、もはや感動も、驚きもありません。
(ちなみに、魔術を否定しているわけではありません。)

つまり、この世界のことで言うなら、その仕組み(メカニズム)が明らかになるなら、もはやそれは神秘でも何でもないということです。

神秘性とは、まさに、まやかし、にしかすぎません。

ときに、コース学習者の私たちはコースに「神秘性」を持ち込もうとしたりしますが、それはただ単にコースを明瞭に理解していないだけのことだということです。

例えば、聖霊やイエスに祈りを捧げるようなことをしたり、聖霊やイエスを神秘な存在に仕立て上げたり、曖昧なコースの学び方をするのもそうです。

コースに「神秘性」を持ち込むことをするということは、つまりは、コースを曖昧なままにしておくということであり、そうするならば、当然、コースは学ばれていくことはあり得ないということです。

コースは、けっして曖昧な道ではないということです。

コースは、まったく神秘が入る余地のない霊性の道であるということです。

むしろ、学べば学ぶほど、理解していけばいくほど、そこに曖昧さはなくなっていくことになります。

そうするなら、はっきりとした学びの階梯が見えてくるだけでなく、「明晰さ」がもたらされていくようになります。

その「明晰さ」こそが、正しい心(正気)の状態であり、私たちが思い出すべきものであるといえましょう。

コースに神秘性を持ち込むべきではありません。

巷にはときどき、コースに神秘性(曖昧さ)を持ち込んでコースを教えているコース・ティーチャーもおられたりしますが、それと比べて、ワプニック博士の解説するコース形而上学はまさに明晰、明解です。

ワプニック博士の解説するコース形而上学には、曖昧なところ、ふわふわしたところ、ぼんやりしたところがまったくありません。

ワプニック博士の解説で学んでいくならば、そこに神秘性はまったく入り込む余地がありません。

曖昧さがまったく皆無です。

曖昧な理解だったものが、明瞭になっていくのを実感することができます。

つまりは、「神秘性」は曖昧さの中でしか存在することができないということです。

私自身、さまざまな非二元、一元論のスピリチュアリティに触れてきましたが、ワプニック博士の解説ほど明晰、明瞭に教えてくれる教師は見たことがありません。

ワプニック博士の解説でコースを学ぶようになる以前は、この私もコースの教えの曖昧なところを神秘性でごまかしていた時期もあったことは否めません。

イエスとか、聖霊とかを神秘な存在として扱っていましたし、イエスを偶像崇拝しながら、コースを学んでいたこともあったということです。

ワプニック博士の解説がなかったならば、たぶんそのままスピリチュアルの延長上で歪曲したままコースを学んでいたことでしょう。

そういう意味で、ワプニック博士には、ほんとうに感謝するばかりです。

コースの学びと実践を通して非二元に目覚めていくことを目指しているのであるならば、「神秘性」「曖昧さ」といったのものに警戒していく必要があります。

もし、コースを曖昧なままに学んでいるとしたなら、もっとその形而上学を明瞭にしていくことを怠らないようにしましょう。

そうでないかぎり、コースを学んでいる意味がありませんし、この世界の夢から目覚めることはけっしてあり得ないということを知っておきましょう。


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