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「つながる」ということについて

一なるものとしてつながっている一体性

「つながる」とは、すべてのものとつながるということです。

それは、全体とつながるということであり、そうでないならば、それは「つながる」とはけっして言いません。

もし全体とつながるのでないならば、それはただ分離を強化しているにすぎないということです。

その一例が、この世界(形態)の中でみんなとつながろうとする試みです。

形態におけるつながりは、全体とつながるのとはまったくちがうというということです。

というのも、この世界(形態)の中ですべてのものたちとつながることは不可能であるからです。

この世界を超えていこうする者であるならば、この世界の中で他者とつながろうとすることは真に「つながる」こととはまったく真逆のことをしているということに気づかなければなりません。

一部のものとつながろうとする試みは、それ以外の他の部分を除外することになるということです。

そうすることがいけないということではありません。

それが分離の想念を強化しているということに気づいていなさいということです。

コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)学習者であるならば、あるいは、一元論のスピリチュアリティを歩んでいる者であるならば、そういうことをしっかり理解しておきましょう。

そもそもが、この世界(形態)は、無です。

もちろん、この世界の人々たちも、影です。無です。

ようするに、コース学習者の私たちが覚えておかなければならないのは、「つながる」ことはこの世界(形態)の中のこととは一切関係がないのだということです。

私たちはそもそもが「一なるものとしてつながっている一体性(ワンネス)」(T-25.Ⅰ.7:1)であるわけです。

そう、そのことを知っている正しい心(聖霊)とつながることが私たちに求められているのだということです。

コースでは、その手段を「奇跡」「赦し」と呼んでいます。

コースを正しく学んでいる者であるならば、それだけが私たちの機能(役割)であることが分かってくるものです。

形態を重視している従来のスピリチュアリティの教えとコースの教えとを混同しないように私たちは十分に警戒する必要があります。

コースは、心(原因)においてのみにアプローチしていくスピリチュアリティ(霊性の道)だということを忘れてはなりません。

コースの教えには、体系立てられたしっかりとした形而上学があります。

だからこそ、コースが教えている形而上学をしっかり学んで、しっかり理解していくことが、私たちに求められているということです。


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