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どうしても赦せないとき、赦したくないとき

攻撃、裁き、怒りがおさまらないとき

攻撃、裁き、怒りがおさまらないとき、その内側で何が起きているのでしょう?

その内側を観察するとき、以下のような自分を認識することができます。

まず、湧き出でくる怒りや攻撃を正当化しようとします。

そう、怒りや攻撃の正当性を立証するためにありとあらゆる証拠と理由を並び立てようとします。

あいつのせいだ!これのせいだ!と。

自分が間違っているとしても、その自分の誤りを絶対に認めたくないのです。

どんな手段を駆使してでも攻撃の理由を探して、それを正当化しようとします。

自分の誤りを認めようとはしません。

どうにか自分の誤りを認めないで済む方法はないか?とすら考えるのです。

自分が間違っていることだけは絶対に認めないぞ!と強く決めています。

頑なにそれを決めている自分がいます。

赦したくないという思いは、さまざまなことをする。自分が選んだ道を邪魔すると見えるものをねじ曲げ、くつがえし、自分のゴールを必死になって追求する。歪曲することがその目的であり、それを達成するための方法そのものも歪曲である。怒り狂って実相を粉砕しようとするばかりで、自らの見解に対立するかに見えるものには一切関心をもたない。(W-pⅡ.1:3)

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一方、それと同時に、自分が間違っていることを心のどこかで薄々気づいている自分もいます。

でも、そうと分かっていながらも、どうしてもその誤りを認めることができません。

葛藤している自分がいます。

そして、そのことに対して罪悪感を抱いています。

自分が間違っていると分かっていながら、それが認められないのです。

その自分を、この自分ではどうすることもできません。

自分は葛藤をやめたいと望みつつも、どうすることもできないのです。

自分ではどうすることもできない。

どうにもならない。

何もできない。

私たちが覚えておかなければならないのは、自分で自分を正そうとするとき、そのようにして私たちは自分自身と戦っているのだということです。

それはまさに、自分で自分を傷つけていることの何ものでもありません。

そのことを認識するとき、ようやく自分は聖霊(イエス)の助けが必要なのだと理解することになります。

自分にできることは、その自分を聖霊(イエス)に明け渡すこと。

それは、葛藤がやめられない自分をただ正直に認めるということです。

「私が間違っています」と。

それ以外に自分にできることは何もないと認めるのです。

それ以上何もする必要はありません。

ただ神を思い出そうというあなたの意志を示し、その後はよく見ていなさい!求めさえすれば、神は一切をあなたに与えてくれる。(T-10.Ⅱ.3:6-7)

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ただじっとして、その自分と共にいるのです。

そうするとき、それが自分自身との戦いが終わった瞬間だと実感することでしょう。

戦いが終わるとき、そこに平安がもたらされるのを経験するでしょう。


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